第十四章
スタジオを出て道すがら、僕はまた和也と連れだって歩いていた。
「やはり、一番のポイントはあの制服のスカートからのぞくスラリとした足だな。筋肉が筋肉として主張しないまでもその肉の美しさを危ういバランスで保った所に、あのくびれがきているというのは反則的に俺を惑わせるな。いくら好みじゃないとしても、決して美人じゃないわけではなくて、もっといえばこれからの成長で俺の想像をも遙かに超える艶を魅せるかもしれないよな。髪を固定して、おでこを見せているのも何かそんな未来を感じさせてくれる象徴のような気がするんだよな。そう考えるとすげえ可愛く思えてきたんだよな。好みじゃないのに。いやあ、これいった方がいいんじゃないかな。いや、絶対いった方がいいって。なあ、森崎?」
熱に浮かれた和也がひっきりなしにカンダショウについて、思いのたけをぶちまけてはいたが、僕は半ば話を聞いていなかった。
カンダショウ、神田晶は今日の練習の最初で最後となった全員での通しが終わると、最後の一音の余韻に乗せ、別れの言葉を一言唱え、颯爽と僕らを後にスタジオを出て行った。
その姿には橋の下で見せたダンスの後の熱っぽい横顔が思い出されたが、僕はその時の話をしようと思った事さえ、この時は頭の端にも浮かばなかった。
「いや、でも、決して俺はあんな感じの健康的な、だけどちょっとすれた子って好みじゃないんだぜ。でも、あのアジアンテイスト漂うシュッっとした顔とあの曲線美は評価せざるを得ないことを考えると、全体についての考察も評価も改めざる得ないわけよ」
和也の思考回路は捻転しているのか、さっきから同じことを言っているように聞こえた。堂々巡りの切れ間ない連続した語句からは、だんだんと意味が消え去ってお経のようにも感じた。
同時に夜の暗景の広がりが、橋での寂漠とした記憶を呼び起こし、僕は少し陰鬱な気分になった。
「だけど別に俺はスタイルがいいから評価しているんじゃないんだ。いやそこも暫定的な評価点になってはいるんだけど。まあ、俺が感じているのはさ、彼女を早く真の姿、真の恋みたいなものに目覚めさせてあげたいってことさ。つまり、御堂とどういう関係かは知らないが、本当は彼女は御堂のようなイカレた奴とつるんでいることがそもそもの間違いなんだ。だからこその救世主、新の愛の求道者たる俺なんだ。つまり、そういうもっと深いところでこうギュっと通じ合えるんじゃないかと俺は思っているわけよ」
和也の弁舌は終えることを知らなかった。
すでに僕にとってはほとんど意味合いのない言葉だったとしても、これは堪らなかった。僕は耳障りなストレスの原因を解消するべく、何か言おうと思ったが、その思考はいつの間にか彼岸の出来事となり、僕はまたスタジオの一室へと意識が吸いこまれていった。
あの記憶は垂涎極まる恍惚とした記憶というよりも、泡沫の夢のような淡く儚い思い出といったもので、はっきりとは僕の頭に残らなかった。四人そろっての演奏は確かに行われたものの、その中身は不明瞭なもので、強く残っているのはその演奏の感想だけだった。
その唯一残された感想では、強く楔を打ち込まれ、何度も何度も僕の頭に復唱を要求していた。
あのアドレナリンの放出、制限されることのない昂揚感は僕の体験したことのない世界だった。僕には経験が浅いのかどうかわからないが、あの演奏は感動するに値するものだと僕の感覚は神経を今でも震わせていた。
あの時、御堂は歌っていた。僕らが作った旋律に乗せて確かに歌っていた。
そのことを如何に表現するのだろうか。僕は先ほどからずっとそのことを考えていた。
だが、結論着くことはなかった。終着駅の見えない線路をあどけなく歩いているイメージこそがその思考の迷路にふさわしい。いくら言葉を重ねようとも、その言葉と演奏の記憶は決して重なり合うことはなかった。
ただ、僕は思考の隘路に嵌ったわけではなかった。それは、単純に感動していただけだったのだ。
今までの常識を打ち破られ、認識を変容させられる喜びを許容を超えて味わっていたに過ぎない。だからこその思考の連続だった。
カラオケには何度か行ったことがあった。それは御堂とではなく、別の同級生とだったが、その時に初めて人の歌を聴くという行為を意識した。それまではテレビや学校の授業なんかでももちろん歌を聴くということはあったのだが、別段意識したものではなく、気にも止めていなかった。
そこで聴いた人の歌というものは新鮮だった。
話声とは違う歌は人それぞれ千差万別のもので、特徴が感じられ、少なからずの興味をそそられるものだった。
僕は自ら進んで歌う気はしなかったので、その興味をなんとはなしに分析したものだった。例えば、息継ぎだったり、強弱だったりと、耳を傾けていれば細かな部分がさらにわかってくるのだから、退屈な時間ではなかった。
だが、それは退屈ではなかったということだけだった。さしたる興味はそそられることなく、僕は特に音楽に対しての造詣を深めることをするということではなかった。その時の興味というのは、単なる恣意的な暇つぶしの一環と置き換えても僕は納得がいった。
だから所詮そんなものだと、御堂の歌も無意識にどこかで侮っていた部分もあった。
僕はつくづく何も知らない。
一を知ったことで十を知ったつもりにでもなって、世の中を俯瞰していたのだろう。その視線は濁りきっていて、淀んだ水のように腐りきっていた。
御堂に出会ってからはそれらの認識をいちいち革新していかなくてはならない。
僕は驚きをもって動向にいちいち反応せざるを得なかった。そしてその反応は僕の変革へと繋がり、僕は成長しているのかもしれないという思いを抱いた。
このバンド活動は僕をどこかに引っ張っていた。それは正体の見えない、歪かどうかさえもわからない導きだったが、確実に僕を案内してくれていた。
音楽に触れ、楽器を扱い、歌を聴く。そのプロセスは何ら単純なものでしかなかったが、僕は不覚にも感動し、さらに上を見てしまった。
まだ初めてのセッションだというのに、底が見えていなかった。それは僕にとっては無限の楽しみを保証する錯覚でもあったのかもしれない。
御堂の歌にはそんな魅力があった。緩やかに伸びる歌声、平時の声から察することのできる艶のあるハスキーボイス、切れ目なく突き抜けるシャウト、言葉にしてしまうとそんなものかと言われてしまうようなものだが、それでも僕を惹きつける力は存在していた。
僕はその記憶で今もまだ胸が高鳴り続けていた。終わることのない歌声、ピリオドのない演奏は僕の鼓動を際限なく加速させたままだった。
面白いと、楽しいと思ってしまったのが僕の運の尽きかもしれない。
それは御堂の思惑に乗ってしまうということであったし、たとえ刹那的な享楽であったにしろ、僕はこのバンドを続けたいと思ってしまった。
「なんて呼んだらいいかなぁ。最初はやっぱこっちの紳士的な態度を表すためにも、ちょっとだけ名字で呼ぶというカモフラージュの中に、だんだんと親密さをまじえた愛のささやきのようなフレーズで、ショウと呼んだ方がポイント高くねっていうか、それマジかっこよくねっていうか、それでいこうってことだよな。そうすると晶はもう俺なしではいられないわけよ。俺が呼ぶ声が耳に付いて離れなくなるわけね。枕もとで延々と妄想しちゃうわけ。いやー、やばいね。この作戦は。アリかナシかっていうと断然アリだね」
和也は完全に自我が崩壊しているようで、何を喋っているかまったく理解できなかった。
その論調には多分に個人的な感情が含まれすぎていて、そこに飛躍的な転換が行われ、個人的なものが全体意識とリンクして彼は愛なる物の代弁者となっているかのようにも思われたが、それは一瞬のことで、超個人主義を思いつくままに羅列しているだけだった。
僕は言葉の隙を選んで、口を挟んだ。
「和也。バンド、やってみようか」
僕の口から出たのはまったく意味のない呟きだった。和也は怪訝な表情を作った。
「ん? 何言ってんだバンドなら今やっているじゃ」彼はそこで言葉を切って、自身の左指をこすった。弦を抑えるために固くなった指の先をこねるように沈黙を弄び、和也は彼の得意とする笑みを浮かべた。
「ああ、わかってるぜ相棒。バンドが、いや、バンドを始めるとするか」
用意していただろうピックが和也の右手から虚空に向けて放たれた。全くといっていいほどうんざりするその仕草にいつもの僕なら辟易するのだが、僕自身も染まってきたようで、僕はそのピックの行方をしっかりと見つめていた。
漆黒のピックが、プリントされた金色の文字の反射を散らしながら上昇し、落下した。その様は闇夜に溶けるクロアゲハを連想させ、僕はそこに何らかの意味を掴もうとしたが、もとより意味のないそのピックはコンクリートの乾いた地面にありふれた音をたて、落下した。
弁解させてもらえるならば、この一連の行為には僕にとって多少なりとも儀礼的な意味合いが含まれていたように思えた。和也のその芝居がかった演出行為はそれこそ思いつきによるものでしかなかったのだが、僕はその行為によって再確認したのだった。
僕はいつの間にか始められた、御堂のなし崩しなバンド活動を楽しんでしまっていた。これまでにはない充溢感と、熱い期待をもって、僕はバンドに参加しているのだと気付かされた。先々の不安や人間関係はどうあれ、そのことを払拭してしまうまでの体験があった。
どうやら僕は現金な人間だったようだ。おそらくは不誠実であるということが起因しての、現金さなのだろう。僕はこれから先、巻き込まれつつも、楽しんでいるということを念頭に置いて御堂が作る音楽に従事していくことになるようだ。
そして、それはきっと間違いなく楽しいのだろう。
僕はまた今日も睡眠時間が練習時間に変わることに心労を覚えつつも、和也の冗長な話を聞き流していた。
和也は相も変わらず同じことを賢明なほどに、様々な語彙を含ませながら語っていた。その言葉は五月の風に乗って、僕のマフラーを揺らし、僕らの背を押しているかのようだった。