第十二章
練習曲も一段落ということで、僕らは新しい曲に取り組むこととなった。受け取っていたスコアはどうやら御堂が作ったオリジナル曲らしく、A4の紙にずらずらと譜面が印刷されていた。
その曲は全部で三曲あって、決して難しいものではなかった。だが、シンプルながらも工夫が利き、演り手側の力量が左右する曲に思えた。
また、もう一つの所感を言わせてもらえれば、ボーカルが重要な曲ともとれた。メロディラインがしっかりと完成されている分、歌が先行する様な印象、まだ出来上がっていないうちからそんな青写真を僕は想像していた。
僕と和也は、用事があると言ってどこかへ行ってしまった御堂より先に、スタジオへと入っていた。
そこで僕らは次のステップとして、そのオリジナル曲についてそれぞれの感想を述べた後に軽く合わせていたのだが、丁度曲のいいところ、盛り上がりの部分で、置いてあった僕のマフラーが床に落ちた。無造作にアンプの上に置かれていたマフラーは、演奏のちょっとした拍子で落ちてしまったものだが、僕は思わず手を止めてしまった。
僕は和也に詫びて、マフラーを拾おうとした。そんな矢先の出来事だった。
背後でドアの開閉音がして、誰かの気配が感じられた。僕は御堂だと思い、振り向いた。
そこには果たして御堂はいたのだが、その傍らには見知らぬ女の子もいた。
僕はすぐに気が付いた。その子は見知らぬ子ではなく、以前橋の下で踊っていた女の子だった。
カチューシャで束ねた黒髪に浅黒い肌のその女の子は、僕と和也に興味がなさそうな一瞥をくれ、するするとドラムセットの前に移動した。その歩き方は何気ないものの、ぴんと背筋が伸びていて、筋肉の縮小を思わせる歩き方だった。
僕は呆けたように見事だなあと感心してしまい、なぜこんなところにその女の子がいるかということまで頭が回らなかった。
「これ?」女の子が御堂を振り返った。
「ああ」当たり前だという風に御堂はドアも閉めずに軽やかに車椅子を進めた。
僕はいつもの習慣で、御堂が閉めることを怠ったドアをゆっくりと閉めたのだが、そんなことはお構いなしに、御堂とその女の子はドラムをいじり始めていた。
止まった思考を震わす低い音がバスドラムから響き渡った。御堂がスティックでキックペダルを操作して、一定の拍子で叩いていた。傍らで女の子は持っていた学生鞄を置きながらも、怜悧な目つきで御堂の一挙一動を観察していた。
和也も僕と同じく呆けていたのだがバスドラムの震動によって体を硬直させ、そこからやっと自分を取り戻したらしく、目をしばたかせながら、恐々と口を開いた。
「えーと、御堂」
「なんだ」
「その子は?」
「後にしろ」
和也はそれきりで黙ってしまった。作業中の御堂は全ての対応がぶっきらぼうとなるため、恐怖心が根深い和也にはこれ以上の抵抗は望めそうになかった。
御堂は僕らには目もくれず、譜面とドラムセットを目まぐるしく利用して、女の子にドラムを指導しているようだった。
僕はここにきてようやっと頭を働かせることができた。御堂が連れてきた女の子は十中八九ドラムのメンバーなのだろうとあたりをつけた。だからこその御堂直々による譜面との照らし合わせの指南なのか。突拍子もないのはいつものことだったから、僕らに何の説明もしないのも御堂らしいといえば合点がいった。
ふと、そのどこの学校かも知らぬその女の子が僕を見ていることに気付いた。見ているというよりかは、威圧しているという視線はいわれなき悪意が感じられ、蛇に睨まれた蛙よろしく、僕は目を逸らすことができなかった。
非常に居心地の悪い思いで僕は彼女の視線を受け続けていたが、その様子を御堂が察し、持っていたスティックを女の子の頭に向けてスイングした。
「おい、ちゃんと聞け」
カチューシャにスティックがあたったのか、間の抜けた軽い材木の音が女の子の頭から響いた。
「いってーな」
女の子は痛んだ頭を押さえつつ、舌打ちと共に、御堂の車椅子のタイヤを蹴った。ドラムセットの影に隠れて、はっきりとはわからなかったが、しなやかな足が乱暴に打撃音を上げた。
ひやりと悪寒が走った。女の子の頭にスティックを振る御堂も御堂だが、その子もその子だ。僕は目の裏側に今まで御堂が起こした暴虐の数々が連写されたコマのように映し出されるのを見た。それらの光景はパラパラ漫画のように内容の感じられないものだったが、僕は現実に立ち返ってそのフィルムの意味を再確認した。
僕はこの瞬間、時間が進むことを拒んだ。
少なくとも御堂が動き始めることを拒否したかった。細分され、微分された思考の中で僕はできるだけ現実を彼方へと遠ざけたかった。女の子がした行為というのは、そんな奇跡をもってしか対処できないことを直感的に理解していた。
御堂の暴虐の歴史は報復の歴史でもあった。それは善意からの行為だったとしても、御堂が気に入らなければ報復の対象となれ、ましてや悪意からの攻撃であれば許すことなどは考えられず、バビロン経典の法に則り、直ちに報復活動を開始するものだった。
そんな人災を、あたかも自然災害のように自動的に受諾した僕は、なんとか被害が拡大することだけは避けようと思いつつも、コンマ〇一秒の世界の中で彼女の冥福を祈っていた。
さて御堂は、特に何事もなかったかのように作業を続けていた。女の子の意識もまたドラムへと戻ったらしく、僕に目を向けることはなかった。
僕はてっきり車椅子に対する返礼として、さらなる暴力を女の子に浴びせ、格闘が激化するとばかりに思っていたのだが、どうもそのような雰囲気ではないどころか、御堂に怒りの気配が微塵も見られないため、僕は拍子抜けしてしまった。
そうなれば御堂とその女の子のそう言ったやり取りから推測される、親密さや関係性も気になるところで、僕も和也と同じく御堂の答弁を大人しく待つこととなった。
「今までの説明が一通りだ。後は自分でやってみろ」
どうやら指導を終えたようで、御堂はドラムセットの席を譲った。女の子はスツールみたいなドラムスローンとかいう椅子を移動させ、しなやかにドラムセットの中に収まった。
物珍しそうに彼女の長い指が器材の位置を正していった。表情こそ気だるそうだったが、緩慢な動作は自信の表れともとれ、ドラム演奏に絶大な可能性を感じさせた。
何の前触れもなしにスティックが翻った。
秩序をなした破砕音はビートを刻み、揺れる床は日常の平衡感覚を麻痺させた。規則性正しく叩かれるドラムは、彼女の長い手足が縦横無尽に動いて創られたもので、僕はその鼓動に陶酔せざるを得なくなる。
それは、僕たちが練習している曲のリズムというわけではなく、どうやらフリースタイルのドラム演奏のようだったが、自由度溢れるスタイルからはその女の子の想像力を喚起させられ、また優れた技術を感じとった。
僕はただ単純に凄い、と思ってしまったのだった。
女の子はしばらく振るっていたスティックを宙で旋回させ、演奏を止めた。いつの間にか、つまらなさそうにしていた顔には不敵な笑みが浮かび、一筋の汗が妖しく頬をつたった。
「ふーん、面白いじゃん」明快なその言葉には、演奏する楽しさというものが僕からも推し量られた。
突然、拍手が巻き起こった。それは一人分の拍手だったが、やたらと熱意がこもった拍手だった。
その手を叩いていた張本人は、ぴたりと手を止め、指を指しているのか、指の運動のために反り返らせているのかわからない動作で、その女の子に指を向けた。
「いやあ、すごいじゃん。キミ、名前なんていうの?」
さっきまで御堂に戦々恐々としていた人物像は影をなし、自身に満ち溢れた大物ぶった動作で和也は言った。
変わり身の早さは恐れ入ったもので、俺はこの女の子が気に入ったのだという思いが透けて見えるかのようだった。
和也がその気になるにもわかる。確かにその女の子は美人だった。可愛いという感じではなく、美人。
整った顔立ちはシャープで、スラリとしたスタイルはアジアンビューティーといった風貌だった。運動をしている女の子がきれいに見えるというが、和也はドラムを叩いている姿に何かしらの琴線をくすぐられたのだろう。
でも、僕はこの女の子もまた御堂と同じようにクセがあると読んでいた。スタジオに入ってきてからの立ち振る舞いは、あまりにも淡々としていて人間味が感じられなく、なにより平気で御堂の車椅子を足蹴にするような女の子なのだ。外見こそ整ってはいても、性格的な面でまた厄介な相手なのだろうと僕は警戒していた。
そしてその悪い予想というものは確実な的中こそすれ、外れることはなかった。
「指差すなよ」
軽薄な和也の口調に、あからさまな苛立ちを思って返したその言葉には、隔たりを感じさせるには十分だった。それでもなお、指を下げない和也に対し、その女の子は目を細め、敵意をそのままに睨みつけた。
和也は聞き取れるか聞き取れないかの声でごめんと小さく言って、上げた指を中空でさまよわせ、殺虫剤を拭きつけられた羽虫のように、その指を落下させた。
僕はまた頭を悩ます種が増えると思うと脱力感が体を支配した。御堂は同じ一部始終を見ていたはずだが、僕の心労などは一ミリたりとも理解せずに、自分が連れてきた火種そっちのけでマイクのセッティングをしていた。