第十章
「ああ、うん。また明日」
自分でも気のない返事であることはわかっていた。感情を口に出そうとした瞬間に、漏れ出ていくような気がした。
スタジオからの帰路、和也は練習にやりごたえを感じていたのか、嬉々として自らの高揚を僕に語った。ほどんどまくしたてているようなその言葉には、達成感や抑え切れぬ情熱の一端などが表れていたが、僕は機械的に相槌を返すことしかできなかった。
和也の談には、若干の過剰なところもあったが、この時はその彼の調子に辟易していたのではなく、僕自身が全くと言っていいほど自分の意思によって稼働していなく、和也の言葉は右から左へと抜けていった。
例の小さな公園より数分歩いたY字路にて僕は和也と別れた。和也は僕の胡乱さを気にもかけていないのか、いつもと同じ調子で歩き去っていった。
電柱に手を掛けたまま和也の後姿をただ視界に入れているだけだった僕は、長く重いため息をついた。
肩にかかったベースの重みを引きはがすようにして、僕は反動をつけて電柱から手を離し、家までの道のりを歩き始めた。
時折目に入る街灯が、青白い放射を僕の目の裏側に残した。そのせいで見えるものがすべてぼんやりと淡い線を描いた。いつも歩いている道のりの景色が変化して、ようやっと僕は自分が疲れていることに思い当った。
体にまとわりつくがままの、垂れ下がったマフラーを巻きなおして、僕は手のひらを目に押し当てた。
手のひらは血の気がなくひんやりとしていたが、押し当てているとじんわりと血潮の温かさを感じることができた。荒れた指先が肌に細かな感触を残し、目の粗いやすりを思い起こさせた。
その体勢のまま少しばかりその場にとどまった僕は、若干回復した体を引きずって橋に行きついた。
昼間はテニスコートや野球場があり多少の賑わいを見せるその河川敷には、すでに静寂が訪れ、寂寥感を漂わせていた。
僕はその河川敷の上に架かる、いささか街灯が多すぎるように思われた橋梁を眺めた。夜間の交通量の少ないその橋は、煌びやかな模型のようで、現実感が希薄なまま暗闇に浮かんで見えた。僕の家は橋を渡った向こう岸にあり、心なしか遠く思われた。
僕はそんな霞みがかった思考の霧中、いつものように橋を渡ろうとしたが、橋の袂に何かがはためくのを見つけた。
僕は気にせずに歩を進めようとしたが、なんとはなしに気になって足を止めてしまった。あまり鮮明ではないイメージが脳裏に浮かんだような気がしたが、すぐに霧散し消えた。
橋の下には街灯の光が届かないのか、ちらりと見えた何かは自分の地点からは確認できなかった。目を凝らしても、輪郭線は暗さと同化し、判別することは適わなかった。
僕は橋の脇にある、一段一段の高い石段を下った。
眼前には川が緩やかに流れていた。幼いころの記憶では、大して深くも広くもないこの川がたいそう大きなものと感じられたことを思い出した。そのことと併せて、兄のことも思い出した。
どうやら先ほど見たイメージはそのことに起因するようで、僕は橋の袂に何の気なしに兄の姿を探した。
先ほど何かはためいたと思った箇所に目を向けると、確かにそこには人間大の大きさの物が布のようなものに覆われて横たわっていた。通行の邪魔にならない位置に転がっているそれは、無機質なコンクリートの影に隠れ、不吉な印象を受けた。
怖々ながら、僕はそれに少し近づいた。
遠くからはわからなかったが、その距離からならば布のようであるものの、ゴワゴワとした質感が感じられるそれは、ビニールシートだった。よく見れば、微かに反射した光から人工的な空色が確認できた。
僕は自分のまばたきの機能がうまく働いていないように感じた。そのビニールシートの下には人間の死体が横たわっているように思えて仕方がなかった。
頭の中の光景が同期しようと、順次整合性を高めていった。その下にいるのは冷たくなった兄という思い込みが僕の目を見張らせた。
僕はさらに近づき、ビニールシートに手を掛けた。僕の手は震えていてシートの端をつかむのに難儀したが、狙いを絞ってシートを捕まえ、そのままの勢いで引っ張り上げるようにして力強く捲った。そこには、もちろん横たわる人の姿などはなく、資材と思わしき石のブロックと虎柄のロープが置いてあるだけだった。
僕は愕然とその場に立ち尽くした。
なぜ死体がないのか不可解に感じられた。しかし、すぐに自分を取り戻し、単なる妄想と現実を照らし合わせて幽界を見ていたことを実感した。
そもそも僕は自身の目で兄の死体を確認したわけではなかった。それは自身で膨らませていた兄の末路を、乏しい情報から想定した状況と似通っていた故の錯覚だった。
僕は乱れたビニールシートを直した。振り向けば、そこにはずっと川が流れていた。風のように流れる水の音が今さらになって耳に飛び込んできた。
兄は、この川の裾で死んでいた。
僕がそれを聞いたのは何人もの人を介された伝聞であったため、詳しい状況はわからない。
川に流れていたところを岸に引っ掛かって発見されたのか、それとも今見たビニールシートのようにゴミ同然の状態で発見されたのか。僕が聞いた状況はその想像を補足するものではなく、「川岸で死体にて兄が発見された」ということだけだった。
聞いたのは僕が十つの時分だった。兄とは八つも年が離れていて、同じ時間を共有したことはあまりなかった。
それでもその話を聞いた時はショックを受けた。身近なものの死を体験したことがない僕には実感が湧かない話だったが、それでも痛みを伴わない傷が僕に残った。
僕は兄のことが好きだった。
両親が両親とも兄のことを疎ましく思い、罵声が聞こえてくる渦中にあっても、僕は兄に好意を寄せていた。兄は僕のことをどう思っていたかはわからないが、彼は僕に対して優しかったからだった。
彼は兄として真摯な存在であるかはわからなかったにせよ、先に生まれた者としての大きさというものを僕に教えてくれた。
兄はめったに家に帰らない人だったが、たまに会ったときは、僕を友達のように、親しみのこもった笑顔で接してくれた。せわしなく動く兄の細く長い指の軌道は、彼が好きだったことについて語る時のタクトだった。彼が好きだったロックミュージックは、その時の僕には理解できなかったにもかかわらず、始終楽しそうに語る兄を見ているのは好きだった。
兄はきっと他人と楽しさを共有するのが好きであり、得意な人だったのだろう。僕にはそんな兄が誇らしく、また少しうらやましく思えた。
だからなのだろうか、両親とウマが合わなかったのは。
兄の死を語る両親は淡々としていた。「河川敷で死んでいた」その一言だけを僕に伝えた両親の姿は、僕の目からはなぜだか透明に映った。透けて、後ろの風景が見えていた。僕は彼らには何も問い詰めなかった。言葉の意味がその時は理解できていなかった。そして、両親はそれで十分とでもいうように、後ろ姿を見せ、何処かに姿を消した。
そうして家の中は散り散りとなった。
兄は両親の手に余る存在だった。バイトに明け暮れて、高校を中退し、家を飛び出した兄の行動は両親の想定にはない行動だったに違いない。
最初こそは小言を言っていたものの、最終的にはその行動を無視するようになり、家出してからも探すことなく、死体で帰ってきた兄をいないものとして扱った。夫婦間の間でどんな話し合いがもたれたのかわからないが、兄は遺品を抹消され、消えたものとされた。
両親は何一つ兄のことを語らなかった。元から口数の少ない両親だったが、さらに口数が減ったように感じた。まるで何か禁止語句があるかのように日常生活を送る両親は、珍奇なゲームをしているかのようだった。奇妙な沈黙が家の中を支配し、むずがゆい静寂が常態だった。
しかし、変わったことといえばそれだけだった。
兄の存在はこの家では存在感が薄かったのか、遺品を処分するごとに消滅していった。
今では何も語らない故人の持ち物は、元からなかったもののように存在を主張しなかった。それらが一つだけを残してすべて処分されたとき、両親の思惑はほぼ達成されたように思えた。僕が何を言おうとも兄の息吹は家の中には残っていなかった。
僕には誰の心の内もわからなかった。ただ鎮魂のない死だけがひどく惨めで、兄を語っているようだった。
家を飛び出した兄がどうして川で打ち捨てられて死んだのか。ごく少数の限定された簡易な葬式では疑問符は解決することはなく、全てが宙ぶらりんでとどまっているように見えた。
そして、僕の部屋には唯一残された遺品であるレスポールのギターが眠っていた。部屋の片隅でこんこんと眠るそのギターは深い琥珀色をたたえていた。
ネックと交差するようにして、ボディについた傷跡は、かすれたロックミュージックの洗礼だった。塗装を剥がし、貼られていたステッカーを破いて残るその傷はわざとつけられたものなのだろう。
以前はそのギターも兄と共にステージに立っていたと思うのだが、埃っぽい部屋の片隅にあっては見る影もなかった。
僕はギターを持つ兄の姿を思い浮かべたが、兄の表情が不思議と思い出せなかった。どれだけ懸命に思いだそうとしても、細部はあやふやで僕の部屋に鎮座するレスポールだけがやけに鮮明に映し出された。
想像の中の兄の姿は実態がなかった。
数々のスポットライトに照らされた兄のシルエットは広いステージ上では頼りなくか細く映り、スモークの中でその姿をゆらゆらと落ち着きなく動かしていた。のっぺらぼうの兄の顔も声も音楽もすべては不安定で規則性がなかった。ただただ一つ「黙り込む、黙り込む」という歌詞が幾重にも反響した音の残滓として僕の耳に届いていた。
何の歌詞だったろうか。どんな歌だったろうか。
それはミッシェル・ガン・エレファントの『ゲット・アップ・ルーシー』の歌詞だった。
思えば兄は歌っていた。それは歌なんてものではなく、口ずさんだ鼻歌のかけらのだったかもしれないが、確かに兄は歌っていたのだった。
「ねぇ、ルーシー」とそこにいない人間に向けて何かを語りかけていた。兄は居場所が狭まっていった家の中で、抵抗するでもなく、掻き鳴らすでもなく、アンプを通さない弱弱しいエレキギターの旋律と共にいつかの日に口ずさんでいた。
細い兄の指先がレスポールをなでるように滑っていった。音楽こそなかったものの、それはまごうこと無き溌溂たるパフォーマンスの動きだった。
僕はその光景を見たはずだった。それは細部も思い出せぬ色褪せた記憶だったが、僕の脳裏には輪郭線を残して映っていた。
気がつくと対岸の橋の袂に着いていた。考え事をしているうちに、僕の足は習慣に従ってここまで僕を連れてきたのだった。僕はさっきまでいた橋の下を振り返った。
ビニールシートは人間大の大きさと確認できたが、死体があの下にあるというのは突飛な発想に思えた。
ふと、なにもかもが虚ろに思えた。川の流れる様が僕の頭のよどんだ思考を、次から次へと流していった。
そこで僕は水際の足を流れるせせらぎに混じって、妙に機械的な音を聞き取った。それは足元から響いてきた。
僕はまた橋の脇にある石段を、音のする方を確認しながら下りた。階段の中腹ほどのところで、その音の正体に至った。
川べりの自動販売機の蛍光灯に薄く照らされた橋の下では、僕と同じぐらいの歳の女の子がダンスを踊っていた。軽快なリズムのダンスミュージックはその女の子の私物だろう、MDラジカセから流れていた。
その女の子は後ろで結んだ髪を左右に揺らしながら、滑らかなステップと快活な体の動きを誰に見せるともなく披露していた。僕は多少の驚きと興味を覚え、しばらく立ち止って眺めていた。
そして音が途切れた。辺りにはまた川の音と、少し季節を先取りしたの鈴虫の音が聞こえてきた。
踊っていた女の子は、近くに置いてあったキャラクター柄のついたトートバッグからタオルと長財布を取り出し、自動販売機でペットボトル飲料を二本買って、それをトートバッグに放り入れ、MDラジカセを回収して、汗を拭きながら僕に近づいてきた。
「ちょっとそこ、邪魔なんだけど」
階段に立ち尽くし、図らずもその女の子の通行を邪魔していた僕は、慌てて道を譲り、ずっと彼女を凝視していたことを恥じた。その女の子は僕などは気にもかけない様子で、スニーカーから軽快な足音を響かせ、階段の上に消えていった。
僕はなんとなくその場に立ち尽くしていた。