前章
荷物を整理していたら、どこからか一枚のDVD―Rが零れ落ちた。
何も表記されていない、ただのまっさらなそのDVD―Rを僕は手にとってまじまじと見つめた。その行為に何も意味はなかったのだが、僕はそんな愚にもつかぬことをしてしまうほど、その円盤にひどく興味をそそられたのだった。
僕はチェスの駒のように雑然と配置された荷物を掻き分け、テレビの前に陣取った。足の踏み場もなくなるまでに生活用品や書籍、電子機器らがそこらじゅうに散らばっていて、特に使用されるわけでもなく鎮座していたそれらのものからすると、僕は恐らく台風の如く身勝手で不条理な存在だっただろう。
僕はその荷物の中から、一際目立つ古い型のDVDプレイヤーを引っ張り出し、配線を大まかに確認しただけでテレビに接続した。
これまで眠っていた年月を噛み砕きながら、ゆっくりとDVDプレイヤーは起動した。僕はふと気付き、リモコンを段ボールの中に見つけようとしたが、これは自己主張の少ないものだったようで、なかなか探したが見つからず、果たして僕はあきらめて、本体のボタンを操作した。
僕は白いDVD―Rを静かにセットして、プレイヤーの中に収めた。DVD―Rを収めたトレーは穏やかに引っ込んで、かん高い高周波のような音をさせながら静かに再生した。
画面にはDVDプレイヤーのロゴが大きく映し出されていた。ブルースクリーンに白いロゴが載っている画像はあまりに味気ないものだったが、僕は期待をもってそれを見つめていた。
僕はこのDVDに収録されている映像を知っている。
僕はその映像の中では当事者であり、また僕の姿も映し出されている。その時のことを僕はありありと思い出すこともできる。
最近ではとんとなくなったが、その光景はよく朝方の薄い睡眠の中でぼんやりと夢に出てきたりもした。何かの拍子に思い出すこともしばしばあった。僕はその記憶を大事にしていて、忘却から何とか逃れようとしていたわけではないが、僕の頭の引き出しには大体その記憶が入っていた。今の生活を鑑みると、そのことが常に想起されたせいで多少なりとも、いや、かなり僕の生活に影響を及ぼしたように思えた。
映像が始まった。辺りは暗く、照明が十分でないように感じるが、それは正しいことだ。決してここは明るくてはいけない場所だった。
正面にはステージがあることから推測される通りここはライブハウスだ。決して規模の大きくはない地下に造られた音響施設。若者たちがロックを演奏すれば、またはパンクに身を任せる場所だった。
ステージの両サイドには大型のアンプが配置されていた。またその他にもステージ上には小型のアンプ、エフェクター、ギター、ドラム、キーボードが確認できた。ステージは薄明かりに照らされたまま、静かにその時を待っているようだった。
その手前には幾人もの若者の頭が点在していた。彼らはこの映像には集音されぬ程度の小声で会話していて、皆一様にこれから起こることを期待した表情をしていた。その若者たちのうちには何年か前の自分の姿も映し出されていて、当時の僕は隣にいる車椅子の男と何か話しているようだった。今となってはその会話の内容は思い出せないことに、一抹の寂しさが去来した。でもそれも、ただの時間の経過による干渉に過ぎないことだった。
この日のライブは確か五組によるバンド演奏で、すでにステージにはジャズベースが配置されていることから、一組目のバンドはインストのみのバンドだったことに間違いはないだろう。どんな曲かは忘れてしまったが、テンポがよくノリのいいバンドだったことはうっすらながらに覚えていた。
僕たちのバンドはその後の後の後の、つまりは四組目のバンドだった。僕らの出番はまだ先なので、客席にて他のバンドを見学していた。かなり緊張していたはずなのに客席で待機していたのは、車椅子の男、 御堂が他のバンドに野次を飛ばさないかを見張るためだったのを思い出した。
今更ながら僕は笑ってしまった。なるほど、僕達の数分前の会話というのは御堂に釘を刺していたところだったようだ。
映像がさらに暗くなった。同時に現在の僕の周囲も暗くなったことに気付いた。日が落ちて部屋への採光がなくなったため、蛍光灯をつけなければ荷物の整理の続きを行うことはできない。しかし僕はそのままテレビから漏れる明かりを注視することを選んだ。断然たる荷物の整理へのストライキだった。
僕はこのまま自身を過去に没入させた。
一組目のバンドのメンバーが出てきて薄明かりの中、演奏の準備を行っていた。先ほどまでざわめいていた観客は口を噤み、固唾を飲んでドラムのスティックが告げる演奏開始の合図を待っていた。
明かりが小さくなった今、もはや僕自身の姿を確認することは適わなく、有象無象の聴衆に紛れてしまった。しかしその中でも、光沢を反射する御堂の車椅子の姿は角ばった形で確認でき、人の渦に奇妙な形での影を落としていた。
演奏が始まった。こんな曲だったかと、僕は頭の中のメロディと同期させた。ジャズベースの音がテレビのちゃちなスピーカーからでも心地よく響いてきた。演奏のレベルも低くなく、いいバンドだった。
この時の僕は、これから始まるであろう僕たちの演奏の緊張と、御堂のいつ放たれるかわからない暴言への配慮に気を揉んでばかりで、曲など頭に入っていないものだと思ったら、結構覚えているものだった。
歌の入ることのない曲をバックグラウンドミュージックに、僕は様々なことを思い出していた。今見ているDVD―Rを、このライブハウスのスタッフから手渡されたことを皮切りに、段階的に時間を遡行していった。
その記憶の採掘は、砂の中から埋もれた貝殻を探すようにあてどもないことだったけれども、無造作なまでにいろいろなことが掘り出されていった。一つの事象から様々な事象が結合し、時系列にメモリーツリーを形成していった。
この出来事は、正に青臭いことを言うようながら青春、と呼んでも差支えないだろう。強烈なまでに印象を残していったグラフィティは、このライブの映像で臨界点を迎える。何かがあったとすれば間違いなくこのライブハウスで、僕がこのことを思い出すのもこのライブハウスからなのだった。
僕は乱雑な部屋の中で、さらに深く没入した。消えかかった赤光が鏡に反射し、一筋の赤い線を残して僕は記憶の中の宮殿へと入って行った。