第1章 王女の依頼
各章が独立したエピソードのショートショートになっています。
第1章 王女の依頼
九州の福岡市中央区六本松、ここには以前九州大学のキャンパスがあり、学生街として知られていた。しかし、キャンパスが移転してからは再開発が進み、バスが通る道路の付近は商業地区、道路から離れたところは住宅街へと再編されていった。
便利屋福来はこの住宅街の一角、古い一軒家をリフォームして、1階の通りに面した部分を便利屋の事務所にして、1階の残りの部分と2階を居住スペースにしている。
夕方その事務所で福来剛毅と富吉憧一が椅子に座っていた。2人とも背中に「便利屋福来」と書かれたジャンパーを着ている。福来剛毅は身長180センチくらいのがっしりした体型で35歳、元は九州警察本部警備部所属の警察官だったが、ある事情で警察を辞め、今は便利屋をやっている。富吉憧一は剛毅のいとこで身長は剛毅と同じくらいだがスリムな体型で25歳、大学を卒業後しばらくはアルバイトをやっていたが、剛毅が便利屋を始めると聞いて一緒に働くことにしたのだ。
「兄貴、一緒に映画を観に行こうよ」と憧一がこどもがねだるような口調で言った。
「何を観るつもりだ?」
「『神聖戦士ニキ』」
「いい年した男がふたりそろって特撮ヒーローを観に行くのか。恥ずかしいだろ」と剛毅は少しいやがるような態度で言った。
「そんなことないって」
すると、玄関のドアが開いて、帽子をかぶりサングラスを掛けた若い女性が1人中に入ってきた。この女性は身長170センチくらいのスリムな体型で、落ち着いた色の高級そうな服を着ていた。そして、ハンドバッグからトランプのスペードのエースを取り出すと、このカードを剛毅と憧一に見せて、「神岡さんからの紹介で参りました」と落ち着いた口調で言った。
剛毅は立ち上がり、その女性からカードを受け取ると、「こちらにお座りください」と明るい声で言った。女性は帽子はかぶったままサングラスも掛けたままで勧められた椅子に座った。剛毅もまた座った。
「サングラスを掛けたままでお話することをお許しください。わたしはある国の王女様にお仕えする者なのですが、事が重大なだけにわたしの身元を知られるわけには参りませんので。わたしのことは仮にアニーとお呼びください」
剛毅はこの女性がしている指輪をちらっと見てから尋ねた。
「それでは、アニーさん、ご依頼の件というのは」
「王女様の元恋人からペアリングを取り返していただきたいのです」
「その元恋人というのは」
「有名なマジシャンの天鷲和也です」
天鷲和也は37歳、その甘いマスクと卓越した華麗なマジックで特に女性に大人気のマジシャンだ。
「なぜ取り返そうと思われるのですか。マジシャンが元恋人だったら、王室の名誉を傷つけることになると言われるのですか」
「ただのマジシャンなら問題にはなりません。彼が裏でやっていることが大問題なのです。彼は怪盗ラヴィング・エースです。王女様が過去に泥棒と恋愛関係にあったことが広く知られればスキャンダルになります」
「たしかにその通りだと思いますが、どのようなことを根拠に天鷲和也がラヴィング・エースだと言われるのですか」
「王女様は日本の大学に留学されていた時に和也と出会われたのですが、和也と交際されている時はほぼ毎日デートをされていました。ところが、デートをされなかった日は決まってラヴィング・エースがどこかに盗みに入った日なのです」
「それは偶然では」
「王女様は和也が誰かと電話で話しているのを聞いたことがあります。その会話の内容から和也がラヴィング・エースだと確信されたのです」
「その内容とは」
「手下と話していたようで、『僕を誰だと思っている、ラヴィング・エースだぞ』と言ったそうです」
「わかりました。しかし、相手が泥棒だということであれば、過去に恋愛関係だったことは否定された上で元恋人の持っていたペアリングは盗まれたと主張されればよろしいのでは」
アニーはハンドバッグを開けて中から指輪を取り出すと、その指輪を剛毅に渡して言った。
「王女様がお持ちになっているリングです。内側をご覧になってください」
剛毅がそこを見ると、「KAZUYA & AUDREY」という文字が刻まれていた。
「なるほどこれでは取り返すしかありませんね」と言うと、剛毅はリングをアニーに返した。
「ここに来られたということは天鷲からリングを買い戻すことはできなかったということですね」
「それは和也から拒否されました」
「わかりました。我々が取りうるあらゆる手段を使ってリングを取り返すことにしましょう。それで、殿下、取り返したリングはどちらにお届けすればよろしいでしょうか」
アニーと自称していた女性は少し驚いたような様子をしてから、ゆっくりとサングラスを外して美しい東アジア系20代の女性の顔を見せると落ち着いた態度で言った。
「わたしはガルーダ王国の王女オードリーです」
「本物の王女様」と思わず憧一は声を上げた。
「王女様としての気品の高さは隠しようがございません。それにガルーダの紋章の付いた指輪をしておられる」と剛毅は微笑して言った。
「さすがですね。わたしはグランド・ワイアットに泊まっています。そちらまで届けてください」
「かしこまりました」と剛毅は明るい口調で言った。
オードリー王女は立ち上がるとサングラスを掛け、「見送りは結構です」と言うと、玄関のドアを開けて出て行った。
「兄貴、大変なこと引き受けちゃったね」
「まあ、何とかなるさ。それに、犯行現場にハートのエースを残していくようなキザな奴には負けたくない」
数日後、福岡市博多区中洲のマジックバーに憧一がいた。憧一はこのバーでバイトの店員として働いていた。そこへ、スーツ姿の剛毅が客として現れた。憧一は他の客の場合と同じような態度で剛毅をテーブルに案内した。剛毅が席に着くと、憧一が剛毅にささやいた。
「兄貴、天鷲のショーが終わったら作戦開始だよ」
剛毅はうなずいた。
店内のステージでは天鷲和也のマジック・ショーが始まった。天鷲は巧みにトランプを使って観客を驚かせ満足させた。
ショーの終わった後、憧一はトレイにシャンパンの入ったグラスを1つ載せ、剛毅を伴って、店の奥にある楽屋に向かった。楽屋では天鷲が1人カウンターの前にある椅子に座っていた。
「お疲れ様です。今夜は素晴らしいショーをありがとうございました。これは店からのお礼です」と憧一は言ってグラスを天鷲の前に置いた。
「ありがとう」と天鷲は言うと、剛毅の方に視線を向け、「そちらの方は」と尋ねた。
「申し遅れました。わたしは福田剛毅と申しまして、憧一のいとこです。わたしは天鷲さんの大ファンで、憧一に頼んでこちらまで案内してもらいました」
「そうですか」と天鷲はうれしそうに言った。
「天鷲さん、気が抜けないうちにシャンパンを召し上がってください」と憧一が促すと、天鷲はグラスを手に取ってシャンパンに口をつけた。
「福田さん、今夜のショーは…」と天鷲は言うと、急にカウンターに顔を伏せた。
すぐに剛毅は天鷲の左手から指輪を抜き取ると、内側を確かめた。
「確かにこれだ。俺はこのまま王女のところに行く。後は頼む」と言って、剛毅は楽屋から出て行った。
ホテル・グランド・ワイアットの1室で剛毅はオードリー王女に会った。
「これが取り返すようにご依頼のあったリングです」と言って、剛毅は王女にリングを渡した。
「ありがとうございました。このリングはどこにありましたか」
「天鷲が自分の指にはめていました」
「そうでしたか」と王女は感慨深そうな様子で言った。
翌日便利屋福来で剛毅と憧一がたわいない会話をしていると、玄関のドアが開いて、若い男が1人赤いバラの花束を持って入ってきた。
「お届け物です」
「ありがとう」と言って、剛毅は花束を受け取った。配達の男は玄関から出て行った。
「誰からだろう」と剛毅が言うと、「王女様からだよ」と憧一がうれしそうに言った。
剛毅は花束に添えられていたカードを見ると、これがハートのエースのカードで「ミッションの成功を祝して L.A.」というメッセージが書かれていた。剛毅はこのカードを憧一に渡すと、「あいつ」と言って苦笑した。