第七話
重く、湿った空気が下りてくる。私は草庵の雨戸を少し開いて溜息をもらした。
私は変わっていない。私だけじゃない。玖音も、先生も、町も――この地も。生きとし生けるものすべてが変わっていない。自分自身というものから逃げてはだめだから――
でも、変わったことが二つある。
一つは私の服装。
以前は忍び装束が多かったけれど、今は先生の勧めで常に町娘の格好をしている。要するに、私は忍としての仕事を完全に制限されたのだ。暗殺という、言葉に影を落とすものよりは随分と明るい、密偵に。――今まで同様、あやかし退治は行わなければならないのだけれど。
そしてもう一つは、ヒトという、命の重さを知った今、命を奪うことが本格的に怖くなった。
奪うことが、ではないのかもしれない。
失うのが、怖い。
戦いが生まれれば、私は誰かの命を奪う。その誰かがもしかしたら玖音になるかもしれない。ジジ様になるかもしれない。
大切な人を失うことが怖い。ううん。一人になることが怖い。
そう、一人に――
それ以外は何も変わっていないはず。きっとこれからも変わらない。変わっちゃいけない。私が変わってしまったら、自分を認めることをやめてしまったら、私はきっと罪に目をそむけ、自ら命を絶ってしまうかもしれないから。
私はそこまで考えてまた溜息をついた。今度はさっきよりも少し大きく。
――あれからまだ二日しかたっていない。
けれど、心の整理をするには十分な時間だ。
私はあの男を殺めてしまった罪悪感に駆られることはほとんどなかった。あの時、誓いを立てたからかな。そうだといいと思う。
だけど、玖音を傷つけてしまったことは、やっぱり心にしこりを作った。
だから、私は玖音の様子を見に、町に何度も繰り出した。
玖音はと言うとすっかり元気になったみたい。傷はとても痛々しく、あとが残ってしまうかもしれないと心配したのだが、玖音は笑って、
『このくらいの傷、全然大丈夫。あんたに大した怪我がなくてよかった』
……なんていうから、泣きそうになってしまった。
玖音は大事をとってもう少しだけ診療所に身を置くことになった。先生は一人暮らしだから、それはそれでよかったのだと思う。
診療所に行く途中、あの二人――青ちゃんとハチにも一度だけ会った。
ところどころに怪我をしていて、血が滲んでいる箇所があったから二人を近くのお茶屋の椅子に強引に座らせて治療なんかもした。
医療を扱う忍が珍しいのかハチは目を輝かせて嬉しそうに私の手元を見ていたっけ。
「すごいっ! きさら、なんでも出来るんだ」
興奮した様子で嬉しそうに叫んだハチに、私は少し睨む真似をした。
「あんまり興奮すると、また血が出てきちゃうよ?」
そう聞くとハチは首をかしげた。
「こんなの怪我じゃないよ。おれたち、もっとおっきい怪我、たくさんしてるから」
「怪我に大きいも小さいもないわ。ちゃんと手当てをしないと駄目なんだよ?」
血の滲むハチの肘のあたりに薬を塗ってその上に包帯を関節が動かせるように巻く。こうしておけば、派手な動きをしても邪魔にはならない。
先に手当ての済んでいた青ちゃんはそんな私たちのやり取りを見て、少しだけ目を細める。
青ちゃんは左足に切り傷があった。深くはないが、血はハチよりも流れている。だから、怪我が軽いハチよりも先に処置をした。
「お前、忍なのに医術の心得があるのか?」
「そうなの」
青ちゃんの問いに、手を止めずに頷く。
「私は、忍には向いていないみたいだから……誰かを助ける術が欲しかったの――はい、これで大丈夫」
「ありがとー」
ハチは少し違和感があるのか肘を曲げたり伸ばしたりする。
青ちゃんはハチを横目で見ながら呟いた。
「俺が誰かを助けることは、できないだろうな……」
その呟きは風によって掻き消され、でも、何故か私の心に重く響いた。
青ちゃんは、孤独なのかな? ハチがいるのに、どうしてそんなことを言うのだろう。
二人は実際にこのように同じような怪我をしている。それは、共に戦った、ということではないの?
私が一人思いにふっけていると青ちゃんはさっと立ち上がった。
「わざわざ悪かった。――でこぱち、行くぞ」
「はぁい」
青ちゃんの声に元気良く返事をしたハチは椅子を飛び降り、先に歩きだしてしまった青ちゃんの背を追った。
そして振り返ると元気よく手を振ってくる。
「またね、きさら!」
わたしもゆるゆると手を振り返す。それを見て満足げな顔をしたハチは青ちゃんを追って、駆けて行った。
まだ、あの二人と会って少ししか経っていないのに、二人の面影は薄れることなく私の脳裏に焼き付いていた。
単に、極彩色の着物の所為、というわけではないだろう。……あの着物は確かに印象強いけれども。
冷静で、めんどくさがり屋の青ちゃん。
活発で、行動力のあるハチ。
とても対照的なあの二人には何か人を引き寄せるような感じがする。それが何かはわからない。ただ、何となくそう思うだけ。
もしかしたら、あの二人は何か特別な力を持っているのかもしれない。
以前読んだ書物にそのような力を持つ者がいると書いてあった気がする。
少し開いた雨戸から外を見てどんな書物だったか思い出そうと記憶を探る。だいぶ前に読んだものだから霞んでいてよく思い出せない。
その時、唐突にジジ様の声が耳を打った。
「きさらぁ! おめぇ、着物外に出しっぱなしだぞぉ! 雨が近ぇから早く中にいれとけぇ!」
「あ、うん!」
忘れてた。
私は慌てて縁側に出て、干されていた着物をとりこみはじめた。
ぱちぱちと囲炉裏が音を立てる。
ジジ様は奥の間で何か作業をしている。何をしているのかな……
ぼうっとそんなことを考えているといきなり襖が開かれた。
「きさら。話がある。ちょっと来い」
「え? ――うん」
足音も気配も感じなかった。
ジジ様は最近抑揚のない声で話すことが多くなった。そう――青ちゃんたちと会ってからだ。
ジジ様は奥の間の座布団の上にどっかりと座った。私も向かい側に敷かれた座布団に腰を下ろす。
まだ開け放たれている雨戸から冷たい風が少し入ってきて、髪を揺らした。
髪を手で押さえ、まっすぐにジジ様を見る。ニ人きりで話すときは、大体大事なことが多いから。
それを皺に埋もれた目を細めて一瞥してからジジ様はふーっと煙草の煙を吐いた。
そして、告げた。
「おめぇの両親のことだ」
……今、なんて?
ジジ様の言葉がどくりと心臓を跳ねあがらせる。まだ、雨は降っていない。けれど、風が重い。それは、私の背をなでるように吹いてきた。その重さに思わず呻く。握った拳が震える。
何故震えるの? 私は何に怯えているの? 私が知りたかったことじゃない。私自身が求めていた答えじゃない。
私は――
ジジ様は私の心の葛藤を知らないのだろう。そのまま口を開いた。
「ちゃぁんと聞け。おめぇの両親は」
「きさら!!」
ジジ様の言葉は玄関先で飛ぶように聞こえてきたまだ声変わりのしていない少年の声によって遮られた。
言葉を遮られたジジ様は大きな舌打ちをし、また煙草の煙を吐いた。
飛んできた声の主を、私は知っている。
「ハチ?」
間違いない。
派手な向日葵色をはおった、明るい少年。
けれど、今のハチの声からは普段の明るさが窺えなかった。むしろ、緊迫している。
どうしたものかと振り返った刹那、ある匂いが鼻を突いた。
これは、この鉄の様な胸を締め付ける匂いは――
その匂いの元を理解したと同時に弾かれたように立ち上がり、私はハチの元へ駆けた。
ハチの元へと駆けた私の目に飛び込んできたのは、泣きそうな顔をしているハチと――
その状況を理解したとき、私は心臓が抉られるような感覚に陥った。背筋が凍った。息が苦しくなった。
匂いの元は――『血』を流しているのは、『青ちゃん』だったから。
「きさらっ! 青ちゃんを……青ちゃんを助けてっ!! おれ、おれ……」
「……っ」
青ちゃんは虫の息だ。かすかな呼吸がその口から漏れるのが聞こえる。
ハチも血まみれだった。それが青ちゃんの血なのか、ハチの血なのか、あるいはそのどちらでもないのか。
私はとんでもなく大きな喪失感と虚脱感に襲われていた。目の前の状況を理解するのがやっとで、上手く声も出ず、口はパクパクと言葉を紡ぐことが出来ないままだ。
ピクリとも動かない私をすりぬけて今にも前のめりに倒れそうなハチの背からジジ様が血まみれになった青ちゃんを担ぎあげる。
「きさら、布団の用意すっから、治療してやれ」
と言って奥の間へ連れていった。
それと同時にハチはがっくりと膝を折ってそのまま倒れこむ。
私ははっとして慌ててハチの隣に膝をついてその体を軽くゆすった。
ハチの呼吸は荒い。なのに体は冷たかった。
「ハチ! しっかりして!」
「……おれより、青ちゃん……」
ハチは私の手をぎゅ、と握り、顔をあげて泣きそうな顔で告げた。
「おれは、怪我してないから……すこし、休ませて……」
そう呟くとハチの意識はそこで途切れた。
握られた手をはずし、脈を測る。心臓が正しい働きをしているのを確認してからハチの体を横たわらせ、私は奥の間へ急いで駆けた。
奥の間にはジジ様が青ちゃんを布団の上へ寝かせるところだった。
いつの間にか降り出した雨に、青ちゃんの呼吸が掻き消され、まるで息をしていないかのような気持ちになる。
私に気がついて、ジジ様は皺に埋もれた目を向け、そしてまた青ちゃんへと視線を戻した。
私も青ちゃんに視線を移し――そして、気がついた。
青ちゃんの右腕と右目が――ない。