第三話
冷たい。
周りから感じる空気は酷く熱いのに、自らの体は何かの液体でしっとりと濡れ、冷たかった。
その液体の色を確かめようと、私は濡れた自らの手を見た。
酷く鮮やかな猩々緋。
この猩々緋は何? 私の周りに揺れる緋色は何?
「きさら――」
私の名を呼ぶのは――誰なの?
声の主は若い女の人。目の前に倒れる、この女の人の赤い唇から零れ落ちたもの。
彼女は私の手を弱弱しくきゅ、と握りしめ、微笑んだ。
顔はわからない。靄がかかっている。
彼女の隣にもう一人、男の人が倒れている。その人はピクリとも動かない。
「あなたは――」
彼女の口から声が漏れ、温かな手が滑るようにして私の手から離れ、滑るように地面に落ちる。
――誰なの? どうして私の名を呼ぶの?
「?!」
酷く息が苦しい。
私は喉をさすりながら体を起こした。まだ焦点は定まらず、頭もぼーっとしている。
布団から這い出て縁側の戸をそっと開き、空を見れば、まだ日は昇っていない。
私は重く妙な熱りを感じる体を朝の風に当てようと縁側に出た。
そこに出れば、予想通り、爽やかな風が当たる。首筋にそれが当たった時、酷く涼しく感じた。
大きく、静かに深呼吸をしてみると、昨日見たばかりの極彩色が目の端に映った。
私はふらりと右を見る。
「ハチ……青ちゃん」
「……どうした。顔色悪いぞ?」
青ちゃんが私の顔を見て眉を顰めた。
見れば二人は着替えを済ませ、今はハチの髪を青ちゃんが梳いていた。
ハチの短くてまとまりのない髪をまとめるのは少し大変そう。
私はそんなことを思いながら青ちゃんの問いに首を振る。
「なんでもない。夜が遅かっただけ」
「きさら! 見てみて! ――ほらっ!」
ハチが嬉しそうに空を指さした。
その先を視線で追うとハチが指差したのは、何の変哲もない夜明け前の青みがかった空だった。
ハチに視線を戻し、首をかしげる。
「空がどうかした?」
「えー。なんでわかんないかなぁ。あの色、青ちゃんの髪とおんなじ!」
そう言って顔を私の方へ向ける。
私はもう一度空を見て、納得した。確かに綺麗な青色は、青ちゃんの髪色とよくにいている。
ハチが嬉しそうに頭を揺らすもんだから青ちゃんが両手でしっかりとハチの頭を押さえこんだ。
「少しはじっとしてろ」
そう不機嫌そうに青ちゃんは言うと、慣れた手つきでハチの髪を結っていく。
その手際の良さから、この二人の仲の良さが窺えた。
――どうしてこの二人は盗賊をしているのだろう。
家族は? 家は?
謎が多い二人に私は問うていた。
「あの、二人はいつから一緒にいるの?」
目の端を自分の薄い紅掛花色の髪が流れる。それと同時にそよ風が私たちの髪や裾を揺らす。
私の問いに、ハチの髪を結い終えた青ちゃんが少しだけ目を伏せた。
ハチは思い出そうとするかのように空を見上げる。
なんだか、聞いちゃいけないことだったのかな?
「……覚えていない。こいつが勝手についてきた」
そう、一気に言い終えてから青ちゃんは少し間をおいて、溜息をついた。
ハチはくるりと青ちゃんを振りかえって「そうだっけ?」と首をかしげる。
「じゃあ、どうして盗賊なんてしているの?」
「じゃあ、お前はどうして忍になったんだ?」
問いを問いで返され、思わずたじろぐ。
それを見てとった青ちゃんは右手で刀を握るとふらり、と立ち上がり、奥の間へ入ろうと戸に手をかけた。
「お互い、いろいろあるだろ。――でこぱち、行くぞ」
声をかけられてハチは戸惑ったように私と青ちゃんを見比べる。
まるで、まだ草庵に居たいかのように見えるのは、気のせいかな。
そんなことをしている間にも日は昇り、空は段々と明るくなりつつあった。
「もう明るくなっちゃってる――朝ごはん作るわ」
私がそう青ちゃんを見上げるとハチも同じようにして青ちゃんを見た。
そんな私たちの視線から目をそむける青ちゃん。
その横顔は昨日も見せていたあの、めんどくさそうな顔。
「おれ、お腹すいた……」
と、ハチがぐずりながら呟くように言ったところで決まりだった。
ついに折れたらしい青ちゃんはまた大きな溜息を一つ吐くと、私たちに体を向ける。
その顔は朝日に照らされて赤くなり、青ちゃんの瞳がさらに綺麗に見えた。
「わかった、わかった。頼むからぐずるな」
めんどくせぇ、と呟きながら刀を握っていない左手で首のあたりを掻く。
それとは正反対にハチは嬉しそうに歓声を上げ、さっと立ち上がり、どたどたと家の中に戻っていった。
その足音が響いたのだろう、ジジ様の怒鳴り声が聞こえて、ハチの足音は消えた。
「……お前のジジィ、何者だよ」
ハチの身を案じたのか、青ちゃんは家の中を覗き込みながら呆れたように言った。
ご飯に味噌汁に漬物という簡単な朝食をとり終えた青ちゃんとハチは私が洗濯物を干している間に草庵を出て行ったらしい。
出て行くんなら、何か言ってくれればいいのに。
薬草や薬なんかはたくさんあるから、あの二人にあげるくらいはできたのにな。
洗濯物を干し終えるころに、玖音がいつもの軽快な走りでやってきた。
「おはよ、きさら。ねえ、盗賊増えてない?」
「え?」
私の前に立つないなや声を顰めてそう言った玖音に、首をかしげた。
唐突に言われて驚いた。
「なんかさぁ、急に盗賊増えたと思うのよね。さっきも遭ったし」
「そうなの? でも悪い人たちばかりじゃないから大丈夫よ」
――青ちゃんやハチみたいな盗賊もいるもの。
私はそう思いながらにこにこと笑いながら答えると、
「はぁ?」
と、間の抜けた声で返される。
そして玖音は溜息をつきながら右手を額に当てて首を振った。
「盗賊なんて、ろくなやついないわよ。もうっ、きさらは優しすぎるのよ!」
「だ、だって……」
勢いで言い包められて、私はたじろいだ。
そんなことを言われても……
「だってね、襲われて、助けてくれた人もいるんだよ? ほら、いつもみたいに転んじゃって」
「あ、あんたねぇ……」
玖音は呆れたように私を見つめた。
「いつになったらそのこけ癖治るのよ。忍として、致命傷よ?」
「でも、今度から気をつけるから大丈夫」
そう言って微笑むと、玖音は「もういいわ」と目を伏せた。
そして、少し真剣そうな顔をして、私に向き直る。
ざぁ、と湿った風が吹く。
「とにかく、きさらは優しすぎるのよ。あたし達は忍よ。相手を慈しむ優しさはいらない――って言っても、あんたが優しくなかったらあんたらしくない、か」
――玖音の言っていることはわかる。
忍は、非情でなくてはならない。そんなことわかっている。
わかっているけれど。
「……ありがとう、玖音」
心配そうな瞳の玖音には、ただ、そう言った。
草庵に戻り、私はお茶を手に縁側に腰かけていた。
今朝、ここで青ちゃんたちと話していたのが、なんだか夢のようだ。
風がふわり、と吹き来て庭の杉の木の葉を揺らした。季節は春。だが、もうじき雨の季節が来る。
吹いた風には、どこか雨のにおいが混じっているような気がした。
私は、今は晴れ渡っている空に目を向け、玖音の言葉を思い出す。
――相手を慈しむ優しさはいらない
「……」
私が忍の職にむいていないのは、ずっと前からわかっている。
けれども、忍になろうとした。心のどこかで、それを催促していたような気がする。
そして、忍になった。自分でもよくわからないが、忍として生きて行くことに安心感を抱いていたような気もする。
でも、結果として私は忍の仕事をほとんどしていない。
この際、医者にでもなってやろうか。
「……無理よね」
そう、ぽつりと呟く。
血を見るのが嫌いだから、ヒトが傷つくのが嫌だから医療を学びたいと思った。
そんな根拠で医療を学んでいる私が、傷ついた人たちを見る職の医者になどなれるわけがない。
――どちらかといえば、忍は傷つける側なのだが。
そこまで思って、私は溜め息をついた。
考えは堂々巡りを続けるばかりだ。
これでは埒が明かない。
一人うなだれる私を見るのは、青い空だけだった。