第九話
ああ。
痛い、痛いよ。背中が痛い。
熱い、寒い。怖い、痛い。
いろいろな感覚が私が襲ってきた。その所為で息が苦しい。喉を締めあげられているかのようだ。
ここはどこだろう。草庵じゃない。じゃあ、ここはどこだろう――
誰かいないのかな。探すけれど……誰もいない。
「――」
自分の喉から何か言葉が出た気がする。
景色が流れる。ああ、走ってるんだ。走っているのは私なのか。それとも違うのか。
外は緋色だった。何がそうさせているのかは知らない。知るよしもない。
けれど、熱さは軽くなった。空気が冷たいからか、自分が冷たいからか――
ただ、突然止まった足元には、あの女の人と男の人がいた。
背中が痛い。それ以上に心が痛い。
「きさら――」
ああ、まただ。
がくり、と『私であろう人物』の膝が折れる。
景色が揺らぐ。それと同時に意識も揺らいでいった――
ば、と目が覚めた。
また、だ。どうして。最近見ていなかっただけに、怖かった。
汗は後から後から噴き出るのに体は驚くほど寒い。喉も痛い。呼吸のしすぎじゃない。息が詰まっていたかのような感じがする。
体を起こし、頭を振る。
そして私は思わず背中をさすろうとした。夢の中で、焼けた刃を押し当てられたような痛みの走った、自らの背を。
その場所は腕を後ろに回して届く場所だった。す、と寝巻の上から撫でる。
「……なにもない……」
見ることが出来ない場所。鏡でもあればいいのだけれど、生憎私の部屋に鏡は無い。女の子の部屋にないのって、どうなんだろうな。
そんなことを思いながら私は思わず自らの肩を抱いた。
あの夢は何? どうして痛いの? どうして熱いの? どうして――人が死んでるの。
ハッとした。
そうだ。『あの人』は死んでいるんだ。だから、あんなにも血が流れて――
「……!!」
悲鳴を何とか呑み込む。
その時、月明かりが部屋に差し込んできた。今日は雨じゃないらしい。自分の影が、襖に映る。
あれは夢。私は草庵にいる。あれは夢なの。現実じゃないし、知らない人じゃない。どうして、動揺するの。
忘れなきゃ――そう思うほど忘れなれなくなる。この思考を何度繰り返しただろうか。
いつも、いつもそう。この夢を見たときはいつもこう考えて、さらに深く追求しようとしてしまう。
私は、一体どうしたいの――?
あの日――ハチが青ちゃんを背負ってここに駆け込んできたあの日。
ジジ様は、私の両親のことを話そうとしていた。
もう一度、聞く? あの時あんなに躊躇っていたのに? ――どうして躊躇ったのだろう。
「……駄目」
何も、わからない。もう、自分のことさえ分からなくなってしまった。
肩を抱いたまま、膝に顔を埋めて私は自嘲の笑みを口元に浮かべる。
心は冷え切り、昨日までの楽しい日々が全て粉々に砕けてゆく。
結局、私は何も知らないまま、全てのものに目隠しをされて生きてゆく。
父様と母様のことも、羅刹族のことも、忍のことも、政府のことも、大切だと思った人たちのことも――そして、自分のことも。
誰が私に目隠しをしたのだろう。
私の為を思ってなのか、それとも自分のためなのか。
もしかしたら目隠しをつけたのは私自身なのかもしれない。
記憶をさかのぼっても、目隠しをつけた人が現れるはずもない。ぽっかりと空いた穴に、私の過去は葬られた。
その過去を恐れて、私は目隠しをしたのかもしれない。――自分が傷つくのを恐れて。
「きさら?」
突然声を掛けられてびくりと肩が跳ねる。
声がした方を振り返るとそこには襖を少し開けて、眠たそうな青ちゃんがいた。
失った右目の代わりに、黒の眼帯をつけている。
失った右腕の代わりに――というわけじゃないけれど、包帯を巻いている。
髪を結っていないということは、起こしてしまったらしい。
私は申し訳なくなって青ちゃんに謝った。
「ごめんね、起こしちゃった?」
「いや……――なんでそんなに汗かいてるんだよ」
「え?」
私が首をかしげると青ちゃんは何かをごそごそと漁り始め、そしてもう一度姿を見せたかと思うと私の目の前に腰をおろして手ぬぐいを私に渡すと壁に背中を預けて私を一瞥する。
何だか気まずくなって目を反らした。
「……何を見た?」
……青ちゃんに言うの? 自分でもわからないあの夢を?
でも、言ってしまった方が、楽なのかもしれない。
私は姿勢を崩し、楽な座り方に戻す。
差し込んだ月明かりのおかげか、部屋は暗くない。
一度息を吐いて私は話し出した。
「緋色の夢。よく、わからないの。でも、血がたくさん流れてて、ヒトが――二人死んでた。私は、女の人に呼ばれてるの。でも、その人が誰なのかわからなくて、どうしてか私にも血がついてて」
「落ち着け。――夢なんだろ。現実じゃない。お前は『ここ』にいる」
青ちゃんの言葉に、震え始めた体の震えが止まった。
自分の中で何度も反芻していた言葉。
それが、誰かの口を挟んで届くと、こんなにも違うものなのか。
「……うん」
私はただ、そう頷いた。
でも、心は先ほどとは打って変わって――温かかった。
青ちゃんとハチはジジ様に随分と適当な剣術を習い始めていた。ジジ様は、何故かとても強い。昔、江戸で働いていたと聞いたことがあるけれど、もしかしたら元お侍さんなのかもしれない。
青ちゃんの治療で包帯や羅の医療品が底をつきた。
せっかく晴れたのだから私は町に繰り出すことにした。今は雨の季節。雨が降っていない時に行動しておかなければ。
私が町に行く準備をしているとハチが目を輝かせながらどたどたと部屋に駆け込んできた。額に汗を光らせながら。
「きさら! 町に行くなら団子買ってきて!」
「うん、わかった。他にも買い物があるからたくさんは買えないからね?」
私がそう釘を打つとハチは少ししゅんとなって、眉をハチの字にした。
でも、急に現れたジジ様に首根っこを引っ掴まれてあっという間に庭に連れて行かれる。
部屋から庭を覗き込むと青ちゃんが額の汗を無造作にぬぐいながら酷くめんどくさそうな顔をしてジジ様を睨みつけていた。
ハチはそのままペイっと庭に放り投げられる。
「部屋に上がるときは履物を脱いでから上がれ」
確かにその通りだ。
町に行く間に盗賊の人たちに襲われることは無かった。
珍しい。何かあったのかな?
でも、いいことなのかもしれない。戦うのは――嫌い。嫌いだ。
町についてほっとしながらぼうっとしていたのがいけなかった。
「きゃ」
「あ」
誰かにぶつかって――倒れ、る?!
――と思って体を縮めたがお尻が地面に着くことは無かった。
「……?」
「ごめんなさいね、大丈夫?」
頭に降ってきた声は女の人のもので気がつけばその女の人が助け起こしてくれたらしかった。
浅縹色の長い髪を後ろで細く結いあげている。肌は白く、顔立ちはとても美人だ。胸も――大きい。
「あ、あの、すみません!」
私は慌ててその女性から離れる。
「いいのよ、私の方こそ謝らないとね。ぼうっとしていたから――」
その女の人は私の頭からつま先までじ、っと何度も見る。
「あ、あの?」
「ねえ、お嬢ちゃん。お名前は?」
「き、きさらです」
こんな美人さんに名前を聞かれるなんて思ってもみなかった。
私は少しうろたえながらそう答えると女の人は微笑んで
「私は朋香っていうの」
と教えてくれた。
そして、私の頭にぽん、と手を置いて撫でてくれる。
「また今度、会えたらお茶しましょうね、きさらちゃん」
「あ、はい! 朋香さん」
それを聞くと朋香さんは満足げに微笑んで歩いて行ってしまった。
歩き方もほんとに綺麗。
「……いいなぁ」
私も、もう少し大人になったら朋香さんのようになれるだろうか。……胸は無理かもしれないけれど。
なんだか少し消沈しながら診療所に向かった。
「そう、腕を失った男の子を」
包帯や薬品を袋に入れてくれ、しかもお茶まで出してくれた先生はそう言ってわずかに微笑んだ。
手渡されたお茶を見つめながら私は頷く。
「はい。初めてです、あんな怪我を見たのは……」
「そうでしょうね、忍はそんな重傷を負ったら――いえ、いいわ。そうそう、もうすぐ玖音が来るわよ」
先生が濁した言葉の先が気になったが、玖音に会えるとうれしい気持ちの方が上になった。思わず声の調子が良くなる。
「玖音に会える……嬉しい」
「玖音も忙しかったみたいで、なかなか貴女の顔を見れないって心配してたわ。任務にも行ってなかったそうじゃない――って、当たり前よね、そんな患者さんがいたら」
そう言って先生はお茶をすする。
朋香さんも綺麗だけど先生もやっぱり綺麗。
私のお母さんは――どんな人だったのかな。
先生は急に黙り込んだ私を心配したのか顔を覗き込んできた。
「どうしたの? きさら。何か考え事?」
「あ……はい。私の、母様ってどんな人だったのかなぁ、って」
「!」
先生の顔がさっと青ざめたような気がした。
何? どうしてそんな顔をするの、先生。
「どうし――」
「きさら!」
珍しく動揺している先生にかけた声は聞きなれた少女の声によって消された。
その少女は。
「玖音!! よかった、やっと会えた!」
立ち上がり、玖音に駆け寄って手を取り合う。
私たちの顔はどちらも笑顔だ。私はちょっと泣きそうになっているかもしれないけれど。
「任務があったからあんたに会えなくて……よかった、何もなかったのね」
「うん。私は大丈夫だったよ? 玖音は? 怪我はもう大丈夫なの? 任務大変じゃない? 平気?」
一気に問いをぶつけた私にどう返答したらいいのかわからない、と言った顔で玖音は眉尻を下げて困ったような顔をする。
この顔も久しぶりだ。私は何だか嬉しくなってくすくすと笑った。
それを見て玖音が顔を赤くして怒った口調になる。
「ちょ、何がおかしいのよ!」
「ううん。なんでもないの。とにかく、玖音が元気でよかった」
それを聞くと玖音は先ほどまでの表情はどこへやら、とてもうれしそうに微笑んだ。
そして、思い出したかのように「あ」と言って今度はうっすらと頬を赤らめた。
……この表情……もしかして。
「あの、あのねきさら。笑わないで聞いてよね。あのね、あたし……す、す、好きなひ――」
「好きな人? できたの?」
「なんで先に言うのよ!!」
なんで怒るの?
私はわからず首をかしげた。
そんな私を見て玖音は大きな溜息を吐く。頬はまだほんのりと赤い。
「……金次郎との修行で崖から落ちそうになったのを、助けてもらったの。派手な向日葵色の着物を着て、ちょっとちっさい人。背中に刀を背負ってた」
ぼそぼそと語った玖音の言葉に私は思い当たる人物がいた。
「……ハチ?」
「は?」
玖音の間の抜けた声が耳を打つけれど、考え込んだ私には音として通り過ぎただけだ。
確か、青ちゃんがまだ回復する前、一度だけハチと一緒に町に繰り出したことがある。
その時、ハチは急に姿を消して、どこかに行ってしまったんだっけ。
少しして戻ってきたハチはにこにこと
『おれ、人助けしたよー』
……とか言っていたような記憶がある。
……もしかして、玖音の想い人は『ハチ』?
私は『好き』だと思った男の子に今まで出会ったことがないから、『好き』がよくわからない。
だから、玖音がハチのどこに惹かれたのかもよくわからない。
でも、『恋』ってすごく素敵なことだと思う。
「きさら? ハチって? ちょっと聞いてんの?!」
玖音の戸惑ったような声が診療所に響いた。