なめないでよね!
◇
「次、春野」
「はい」
私、春野奏。高校三年生。
この吹奏楽部で一番のアルトサックス奏者——少なくとも、そう思ってた。
「いい音だ。安定してるな」
顧問の先生の言葉に軽く頷く。
(当然でしょ……私がこの部を引っ張っていくんだから……)
そう思った直後。
「次、音無」
一年生の音を聞いた瞬間、指が止まりそうになった。深い。綺麗。
(……なんで、こんなに“分かってる”のよ)
私の音の、その先を行くような音。皆も先程の私の演奏なんて忘れたように絶賛する。
ムカつく。認めたくない。だからその日の放課後、私は確かめに行った。
——そして見た。
「……は?」
音無響は私のサックスを持っている。そしてそのサックスを……
ぺろ。
(え……まさか)
「ちょっと待ちなさいよ!!!!」
ドアを勢いよく開けて叫んでいた。
響がびくっと肩を揺らす。
「先輩……」
「何してんのよあんた!!」
ズカズカ近づいて、サックスを奪い取る。
「それ、私のなんだけど!? ていうか舐めた!? 今舐めたわよね!?」
「はい」
「はいじゃない!!」
「変態なの!? そういう趣味!?」
「違います」
即答。真顔。
余計怖いわ。
「じゃあなんで舐めるのよ!」
「……先輩の音、もっと知りたくて」
「意味わかんない!!!」
心のどこかがざわついた。
「……どういう意味」
声を落とすと、響はゆっくり言った。
「その人が、どういう気持ちで吹いてるか……なんとなく、分かるんです」
一歩近づいてくる。
思わず一歩下がる。
「先輩、すごく努力してる」
「…………」
「悔しい思いも、いっぱいしてる」
やめて。それ以上言うな。
「……やめて」
声が弱くなるの、自分でも分かった。
「……すみません」
響は素直に頭を下げた。
——なのに。
(なんでちょっと安心してるのよ、私)
数日後。
「音無、どうした。音が浅いぞ」
(……やっぱり)
あいつ、自分の音じゃダメなんだ。練習後、響が声をかけてきた。
「先輩」
「……何」
「もう舐めません」
「……は?」
「嫌がってたので」
まっすぐな目。
だからこそ腹が立つ。
「……当たり前でしょ」
その日から、響の音は迷い始めた。
どんどん浅く、外れていく。数日後、合奏中。響の音が大きく外れた。
(……っ)
見ていられなかった。練習後、私はケースを握りしめていた。
足が動かない。イライラする。ムカつく。
でも——
(あの音、もう一回聞きたい)
「音無響くん」
響が振り向く。少し元気がない。それがさらにムカつく。
「……あんたさ」
言葉が詰まる。
「大会、近いでしょ」
「はい」
私はケースを開け、自分のサックスを差し出した。
「……今回だけよ」
目を逸らしたまま。
「大会終わるまでは舐めてもいいから。ちゃんと消毒してね」
静かになる。
「勘違いしないでよね!」
慌てて続ける。
「別にあんたのためじゃないから! パートのためだから!」
「……はい」
響の手が少し震えていた。
「……本当にいいんですか」
——いいわけないでしょ。
気持ち悪いし、恥ずかしいし、怖いし。でも大会のため仕方なく。それにコイツなら、コイツとならとても素晴らしい演奏ができる気がした。
「……その代わり」
「ちゃんと応えなさいよ」
少し笑ってやる。
「私の音、なめたんなら」
「中途半端な音を出すとか……なめたマネしないでよね!」
響の目が揺れた。
「はい」
(……ほんと……なめないでよね)
それからの練習は——最悪を通り越してカオスだった。
「ちょ、ちょっと待って! 今の入りズレてる!」
「すみません」
「あとビブラート強すぎ! 私そんなに揺らしてない!」
「はい」
何度も繰り返す。合わせる。ズレる。合わせる。ズレる。
——なのに、ふとした瞬間、ぴたりと重なった。
「……今の」
響も少し驚いた顔。
「はい。今の、近かったです」
(完全に同じだった……!)
背筋がぞくっとする。怖いのに嬉しい。
「……もう一回」
ここで、響が突然真顔で言った。
「先輩、さっきのビブラート……なんか、ちょっと甘い味がしました。もっと酸っぱくした方が先輩らしいですよ」
「……は?」
一瞬、頭が真っ白になった。
「甘いって何よ!? 味って何!? 私の音がレモン味とか言ってるの!? 変態後輩が本気で味覚で音楽批評してんじゃないわよ!!」
響は首を傾げて、至って真面目な顔で。
「違います。レモンじゃなくて……先輩の悔しさみたいな、すっぱい感じです。
でもさっきのは、ちょっとチョコみたいに甘くなってて……」
「チョコ!? 私のビブラートがチョコレート味!?
あんたサックス吹いてんの? それともアイス食べながら吹いてんの!?
なめんなよ!! なめるなよ!!!」
「はい。なめません。……今は」
「今はってなに!?」
響は少し照れたように笑って、
「でも、先輩の音、ほんとに分かりやすいです。真っ直ぐで、美味しいです」
「……美味しいって褒め方おかしいでしょ! ケンカ売ってるの!?」
「違います。本気でいい音です」
——不意打ち。
一瞬、何も言えなかった。
(……ずるい。この天然、後輩のくせに)
その日の帰り、なぜか響を引き止めた。
「……あんたのこと、なんでそんな……やり方、使ってるの」
響は少し驚いた顔をして、静かに話し始めた。
「僕、料理人の家なんです。小さい頃から“味が分かりすぎる”って……」
過去の話は少し寂しげだったけど、すぐにいつもの柔らかい笑顔に戻った。
「先輩の音も、そうでした。
悔しさも努力も混ざってるのに、ちゃんと前を向いてる音だった」
少し照れたように。
「だから……好きだと思いました」
「……っ」
頭が真っ白になって赤面した。
「……そういうの、軽く言うのやめてくれる?」
「軽くないです」
「……バカ」
胸の奥が熱い。
——それからの練習は、明らかに変わった。音が合う。
だけじゃない。
ちょっと近いだけでドキッとする。息が重なるだけで緊張する。
でも音は今までで一番いい。大会前日、最後の通し練習。
音が完璧に重なった。顧問の先生がぽつり。
「……いいな」
隣の響に小さく声をかける。
「……ねえ。明日、外したら許さないから」
私の不安を打ち消すかのように響は笑った。
「外しません」
(……ほんと、なによそれ)
でも、その時分かった。
ただのパートナーじゃない、心からドキドキしてくる感じがした。
「……なめないでよね」
小さく呟く。響が首をかしげる。
「はい?」
「なんでもない!」
(全く……この子は本当にもう……)
私にとっては最後となる大会本番がやってきた。
照明が白い。深呼吸。隣の響に告げる。
「……緊張してないの?」
「してます」
「してる顔じゃないんだけど」
「先輩がいるので」
「……は?」
「大丈夫です」
指揮棒が上がる。
「タンッ」
最初のアタック。合った。
レガートで繋ぐ。響がぴたりと並んでくる。中盤の三度ハモリ。響の下の音が柔らかく支えてくれる。
少し遊ぶようにフレーズを前に出すと、響が追いかけてきて、
今度は響がビブラートを深めにかけてくる。
(……挑発?)
受けて立つ。絡み合う。
(……楽しい)
最後のロングトーン。
響の音がしっかり支える。
音が消え、拍手が爆発。
結果は——銅賞だった。悔しい。でも今回は違う。ちゃんとやれた。
私は控え室に一人でいたところに響が入ってきた。
「先輩」
「……何」
「さっきの、三度のところ、少し上げましたよね」
「ええ」
「良かったです」
「当然でしょ」
「先輩」
「……楽しかったです」
「……私もよ」
響が少し目を見開く。その顔が可笑しくて。
「……ねえ。目、閉じて」
「はい」
私は響にの頬に口づけをした。一瞬だけ。
「……なめられっぱなしは、嫌なの」
響が少し間を置いて、
「……じゃあ、これからはお互いですね」
少し笑う。
「先輩の音も、僕の音も、ちゃんと知りたいので」
心臓が跳ねる。
「……バカ」
それ以上言わせない。
でも、嫌じゃない。むしろちょっと嬉しいとか……ありえないんだけど。
「……なめないでよね」
響が首をかしげる。
「はい?」
「なんでもない!」
そっぽを向く。でも、分かってる。
——もう、この関係はただの先輩後輩じゃない。
(……ほんとにもう……この子ってば)
——私の大切な人なんだから……なめないでよね!
完




