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首を吊った後輩が残した一言

私はホラー映画は見ない。思いだしたくないからだ。

今から三十数年前の話である。


私は地方にある工場で、宿直の仕事をしていた。


夜になると、昼間は何百人もの作業員で埋まっていた構内から、

人の気配が消える。


決まった時間に建屋を巡回し、設備に異常がないか確認する。

それが宿直員の仕事だった。


広い構内にはいくつもの建屋があったが、

誰も好んで近寄りたがらない場所が一つだけあった。


地下ボイラー室。


昼間でも薄暗く、天井には太い配管が何本も走っている。


蒸気の漏れる音と機械の低い唸りは絶えず響き、

油の匂いと湿った空気が肌にまとわりつく。


長居したくない場所だった。


宿直担当は十人ほどいた。


設備担当の社員がほとんどで、

夜中の巡回は若い者に回されることが多かった。


私や新入社員のA君も、

地下へ降りる担当になることが少なくなかった。


宿直を始めて間もない頃だった。


休憩室で缶コーヒーを飲んでいると、

設備担当の山田さんが笑いながら言った。


「地下だけは、一人で行くなよ」


私は笑って聞き返した。


「何かあるんですか」


山田さんは肩をすくめた。


「昔からそう言われとるだけや」


それ以上は話さなかった。


あとで別の先輩にも聞いてみた。


「地下って、本当に何かあるんですか」


先輩は笑った。


「俺は十年以上おるけど、見たことない」


その言い方が妙にあっさりしていて、私は安心した。


古い工場には、こういう噂が一つくらいあるものだ。


そう思っていた。


ある夜、私とA君は地下へ向かっていた。


階段を下りながら、何気なくその話をした。


「地下には幽霊が出るらしいぞ」


冗談のつもりだった。


A君は少し黙り、


「知ってます」


と言った。


「やっぱり有名なんやな」


「はい」


会話はそこで終わるかと思った。


だが数段下りたところで、A君がぽつりと口を開いた。


「この仕事、急に辞める人が多いらしいですよ」


私は笑った。


「夜勤が嫌になっただけやろ」


A君は首を横に振る。


「電話で辞めますって言って、

そのまま来なくなる人が結構いたって聞きました」


「お前まで怖がらせるなや」


そう言うと、A君はようやく笑った。


地下へ着き、いつものように巡回を終えた。


階段を上がる途中、私は何気なく聞いた。


「お前、その噂信じとるんか」


A君は少し考えてから答えた。


「僕は、まだ見たことありませんから」


その時は、その一言を気にも留めなかった。


それから間もなく、A君は工場へ来なくなった。


最初は体調を崩したのだろうと言われていた。


責任者が何度電話を掛けても連絡はつかず、

一週間ほどが過ぎた頃、工場に警察から連絡が入った。


A君が山の中で発見されたという。


職場は騒然となった。


警察が事情を聞きに来て、しばらく落ち着かない日が続いた。


理由を知る者は、誰もいなかった。


騒ぎが収まったあとも、地下へ向かうたびに思い出す言葉があった。


――僕は、まだ見たことありませんから。




それからだった。


地下で、妙なことが起き始めたのは。


最初は咳払いだった。


深夜の巡回中、配管の向こうから、


「ゴホン」


と男の咳払いが聞こえた。


設備担当者が点検しているのだと思い、


「誰かいますか」


と声を掛けた。


返事はない。


配管の向こうを確認しても、誰もいなかった。


蒸気の漏れる音だけが、細く響いていた。


数日後には、足音を聞いた。


コツ。


コツ。


コツ。


地下の奥を、誰かが歩いている。


音は近づいてくる。


姿は見えない。


足音は私の前まで来ると、不意に消えた。


見回しても、誰もいない。


それ以来、地下へ降りる前には、

階段の上で足が止まるようになった。


自分でも理由は分からない。


ただ、そのまま降りる気になれなかった。


冬が近づくにつれ、地下は妙に冷えた。


ボイラー室なのに寒い。


熱を帯びた配管が何本も走っている場所とは思えないほどだった。


ある夜。


午前三時を少し回った頃だった。


巡回を終え、階段へ戻ろうとした時、通路の奥で人影が動いた。


作業服姿の男だった。


後ろ姿しか見えない。


私は反射的に声を掛けた。


「お疲れさまです」


返事はない。


男は一定の速さで歩き、通路の奥へ消えていく。


設備担当者だと思い、その後を追った。


配管を回り込み、角を曲がる。


誰もいなかった。


機械と配管、それにコンクリートの壁。


隠れられる場所などなかった。


立ち尽くした、その時だった。


背中のすぐ後ろで、


誰かが、小さく息を吸った。


体が動かなかった。


すぐ後ろに、人が立っている。


そんな気配だけがあった。


ゆっくり振り返る。


誰もいない。


その瞬間、耳元で男の声がした。


「寒いな」


独り言のような、小さな声だった。


私は階段へ駆け出した。


何段飛ばしで駆け上がったのか覚えていない。


地上へ出ると、夜風が頬に触れた。


その風が、地下より暖かく感じられた。




翌朝。


私は年配の設備担当者に、昨夜の出来事を話した。


その人は、途中で口を挟むことなく最後まで聞いていた。


話し終えても、すぐには何も言わなかった。


ただ、煙草に火をつけた。


一本吸い終えるまで、黙ったままだった。


やがて灰を落とし、小さな声で言った。


「……聞こえたんか」


私は黙ってうなずいた。


その人は地下へ続く階段の方を見た。


「辞めた人は、お前だけやない」


「地下で、何があったんですか」


そう聞くと、その人はしばらく黙った。


そして、ゆっくり首を横に振った。


「分からん」


短く答えたあと、続けた。


「ただな……」


そこで一度、言葉を止めた。


「みんな、同じこと言うんや」


「何をですか」


その人は私を見ることなく言った。


「地下で、誰かに話しかけられたって」


それ以上は、何も言わなかった。


私も、それ以上は聞かなかった。


数日後、私はその工場を辞めた。


理由は、一身上の都合。


本当の理由を話すことはなかった。


話したところで、信じてもらえるとは思わなかったからだ。


あれから三十年以上が過ぎた。


あの地下で見た男が何だったのか。


耳元で聞いた声が誰のものだったのか。


今でも分からない。


ただ、一つだけ。


今でも忘れられない言葉がある。


最後にA君と話した夜のことだ。


階段を上りながら、私は何気なく聞いた。


「お前、その噂信じとるんか」


A君は少し考えて、笑った。


そして言った。


「僕は、まだ見たことありませんから」


あの時、私は何も思わなかった。


ただの言い回しだと思っていた。


でも今なら分かる。


あの一言だけが、ずっと頭に残っている理由が。


「まだ」


A君は、なぜそんな言葉を選んだのだろう。


見たことがないなら、


「見たことありません」


それで十分だったはずだ。


なのに、あいつは言った。


「まだ見たことありませんから」


三十年以上経った今でも、その意味は分からない。


ただ――


あの地下で、本当に何も知らなかったのは、


私だけだったのかもしれない。




私は30年以上明かりを消して寝れない。

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