第1話 崩れ落ちる日常
ルカドナの朝は、正午と見紛うごとき酷暑に包まれていた。
街は死んだように静まり返り、野良犬さえも何かに怯えるように鳴き声を潜めている。
城壁の内側、塔の落とす濃い影の中――。
エドは、手に持った清掃用の箒の柄を、きしりと握りしめた。
指の関節が白く浮き出る。
(……そろそろ、時間だ)
眼下の通りを凝視する。
呼吸が浅い。
心臓の音だけが、やけに響く。
(頼む。失敗しないでくれ……)
唐突に、乾いた破壊音が響いた。
バキィッ!
「あぁ? こんだけかよ。アタシを乞食扱いしてんのか?」
露店を蹴り飛ばしたのは、紅蓮の髪をなびかせた女騎士、マーガレットだ。
彼女の足元では、熊のような巨躯の店主が、地面に額を擦り付けて震えている。
その太い腕はマーガレットの太腿よりも遥かに逞しいというのに、彼はただただ怯えていた。
「も、申し訳ございません! 副隊長殿! ですが本当に、これが売上の全てで……」
「チッ、これだから貧乏人は」
ペッ、と汚い音を立てて唾を吐き捨てる。
黒革の軍靴が、容赦なく大男の顔面を踏みにじった。
「いいか? アタシらはな、テメェらみたいな木偶の坊を魔族から守るために命張ってんだよ」
「帝国軍は金が要るんだ。それを隠し立てするたぁ、立派な反逆罪だな? あぁ? ゴミクズが」
周囲を行き交う市民たちは、誰もが視線を地面に落とし、逃げるように早足で通り過ぎていく。
影の中、エドは奥歯を噛み締めた。
じっとりと湧き出す手汗で、箒の柄が気持ち悪く滑る。
(……クソ、まだ効かないのか?)
視線を遠くの河川へと走らせる。
仕込みは昨夜のうちに終えている。あれから数刻。
(希釈しすぎたか? 計算じゃ、もう効いてるはずなのに……!)
通りでは、マーガレットが鞭を振り上げていた。
「テメェみたいな役立たず、生かしておくだけ資源の無駄なんだよ!」
その時。
踏みつけられていた男が「あ、う……」と濁った呻き声を漏らした。
「あぁ? 死んだフリか?」
マーガレットは眉をひそめ、さらに足に力を込めようとした――瞬間。
ドサッ。
背後で、重たい何かが落ちる音がした。
彼女は苛立ち混じりに振り返る。
「おい、何遊んで……」
言葉が凍りついた。
部下たちが、白目を剥いている。
さっきまで下卑た笑い声を上げていた女兵士たちが、まるで壊れた人形のように痙攣し、地面に転がっていたのだ。
「な、に……」
剣の柄に手を伸ばそうとする。
だが、力が入らない。
膝がガクッと折れた。
唐突に、世界がぐにゃりと傾く。
まるで全身の骨を抜き取られたような浮遊感。
――ドサッ。
無様に倒れ込んだ先は、さっきまで踏みつけていた大男の背中だった。
視界が急速に霞んでいく。
大男が恐怖に顔を歪め、パクパクと口を開閉させているのが見えたが、声は聞こえない。
ドサ、バタッ、ドサッ。
異変は連鎖する。
商人も、衛兵も、通りすがりの市民も――。
まるで見えない手に押し倒されるように、一人、また一人と地面に沈んでいく。
街の喧騒が、潮が引くように消えた。
静寂だけが、残った。
塔の影。
エドは、ミシミシと悲鳴を上げていた箒から指を離し、長く重い息を吐き出した。
(……やっと、効いたか)
眼下には、無数の人間が転がり、芋虫のように蠢いている。
エドは目を細めた。
胸の奥で、何かがざわりと蠢く。
「…………悪いな」




