ドール港
ドールの港は遠目からはいつもと変わらない喧騒に包まれているようだった。帆を畳む船、荷を下ろす水夫、商人や探索士の声に帳簿を叩く音。そこらじゅうに物資が溢れかえり、風が香辛料に薬草、魚と様々な匂いを乗せてくる。
だが、岸壁に足を踏み下ろした瞬間、ルークはその「違い」を肌で感じ取った。
━━人が多すぎる。
本来なら荷役に集まるはずの空間に、荷を持たぬ者たちが溢れていた。擦り切れた外套に、土に汚れた靴、子を背負った女、包帯を巻いた老人。
彼らは船や輸送品を見ていない。見慣れぬ街を、人を、あるいは、力のない怯えた目でただ"不安"だけを見ていた。
「……想像以上ですね。」
隣でマルトが小さく呟いた。濃い色の外套に簡素な革の鎧に剣帯、腰に細身の剣を吊るしている。これでは見るべきものも見れないなと思ったが、━━今はこれでいいと半ば諦めながら自分を納得させた。
「グレント島からの難民です。なにせカーカゾンはじめ三カ所もやられましたからね。」
案内役の港湾役人が疲れた声で答えた。中年の調子のいい男で、汗を拭きながらやっとのことで歩を合わせている。
「島内で留めたかったのですが、界源が思ったより近いせいでしょうか、舟を出さざるを得ませんでした。ドールは本来中継地です。あまり人を多く抱える作りじゃないのですよ。」
ルークは何も言わず、遠くを見回した。臨時の天幕が並び、炊き出しの煙がいくつか上がっている。聖職者が順番待ちをしている人々に祈りを送って回り、別の所では、装備に身を固めた討伐士と思しき集団がなにやら説明を受けている。
秩序はまだ保たれてはいる。━━今はまだ。
それは綱渡りのようなギリギリの均衡と緊張だった。
「まったく、やっかいなものですね界溢は。人類の罪、誰が言い出したんだか。小さいものならまだしも、こう度々大きいものが発生して魔物がうじゃうじゃ湧いてきたら堪りませんよ。そんなに我々は悪い事をしてきましたかねえ?」
「贖罪に励むしかないな。治安はどうだ?」
マルグリットが問う。
「今のところは、問題ありません…今のところは…」
役人が語尾を濁す。
「食料の配給はもって一週間。討伐士ギルドにも依頼は出しすでに動いてはいますが、街道にまで魔物が出て来てしまって。多くのキャラバン隊が今パンではなく泡を食っていますよ。早く界溢が閉じるか安定しないと…」
男は首に揃えた指先を添えると、小さく二回振った。
言われずとも分かっている。
生きるために、襲撃と略奪が始まる。
━━「一度満足を覚えれば、節制を忘れるのが民衆ですぞ。」
ルークは先日の星冠院で言われた言葉を思い出しながら、ふと船着き場に停泊中の一隻の舟を見た。見慣れた商連の印が船腹に刻まれている。避難民を移送するため、緊急で商船が転用されたのだろう。
「これでは、ドールさえ持つかどうか…」
低い微かなその呟きに、マルグリットは横目でルークを見た。議論を重ねた先日の星冠院の時とは、別の顔がそこにあった。それは、必死に目の前の現実を咀嚼しようと試みている、一人の人間の表情だった。
「殿下。」
彼女は静かに言った。
「総督府での会合は、一刻後です。今は━━」
「わかっている。」
◇
ドール総督府は港を見下ろす丘の上に建てられている。
厚い石壁と簡素な装飾。華やかさはないが、潮風と戦うための堅牢さだけは十分だった。建物の多くの窓から青玉海と港を一望することができ、ルークは応接室の窓の前へと立っていた。ドール総督との会合まで、まだ三十分ある。
マルグリットは、長椅子に腰掛けて様子を見ていた。彼女にはこの王子の性質がまだ分からない。何故そこまで現地入りを望んだのか。為政者としての経験は無きに等しく、交渉の技量は推して然るべきだろう。何より、こちらには何のカードもない。星冠院はカーカゾンのみへの限定支援を選んだ。討伐補助金は出るが、軍の派遣もない。
━━「ルーク、あなたはドールとグレント島に、わざわざ絶望を届けに行くと言うのですか。」
そんな状況で、この視察と会談に一体何を見据えているのか。マルグリットは、彗機卿としてそれを確かめなければならなかった。今窓の外を眺めるルークの顔には、険しさも、苦悩も、何の色もなかった。
「殿下。」
「どうした。」
視線を外に向けたまま答えた。
「此度の会談。どのようにお考えですか。」
ルークはじっと海を眺めやったまま動かなかった。
「負け戦、かな。」
「どういうことです…?」
「……ちょっと、つまらない昔話をするよ。
子供の頃、一度だけ父上に駄々をこねたことがあった。王都士官学校の初等科では、子が始めて魔法を習得するとき、親がそれを見守るという行事があってね。自信があった俺は早く父上と母に見せたくてしょうがなかった。でも当然、父上は来れないと母に言われた。何せ王様だからね、それはそうだ。でも当時は納得できなくて、さんざ泣いて喚いた。父上は取り合ってくださらなかったけど、聞こえるように大きな声でわんわん。結局、それが王様なんだと自分を納得させて諦めたんだが、朝出発する前に見送りに来てくれたんだよ。行ってやれなくてすまない、許してくれって。他の家臣も従者もいたのに。
優しくて、少し悲しい顔だった。俺は、父上があの時"弱さ"を見せてくれたことが凄く嬉しかった。俺にとって今回の会談は、つまりそういうことだ。今俺は、悔しいが何も持っていない。俺はこれからただ弱さを、この土地の人に見せに行く。」
「王都で、支援は限定的だと数字だけ通達すれば、あなたの権威は強く見せられます。」
「だろうな。それが正解だ。」
「では何故。」
「さぁな。ただのエゴかもしれん。それでも、顔を合わせるのが人間だ。まして為政者なら尚の事。俺はそう信じたい。」
マルグリットは開きかけた口を再び閉じた。顎に手を当てて数瞬思考を巡らせる。
エレノアがこの任を自分に託した意味を理解すると、彼女は静かに薄い唇の端を持ち上げた。黙ってはいられない自分の性分を、あの人は知悉している。改めて、恐ろしい人だ。
「…殿下、恐れながら申し上げます。ドール総督は、今回の会談で殿下に何かを確約させようとしてくるでしょう。交渉とは責任の押し付け合いです。殿下は、何の責任も負えぬ状態のまま、ただ話を聞ききに行くと言うのですか。」
「そうだ。」
「総督府の方々は、無能が邪魔をしに来たと、殿下と此度の会談を評価するでしょうね。」
「何もしてやれない無能さが事実である以上、誠意を持ってそれを伝えるほかない。」
「王家の権威を貶めるだけです…!それにいったい何の意味が?」
「星冠院の机上が、現実の全てなのか?俺はそれをこれから確かめたい。」
マルグリットの拳に力が入った。
「無論、この場を練習などとは考えていない。話は確実に星冠院へ持って帰る。それと、最低限こちらからの出せるものとして、界溢の前線に討伐士として赴く旨を伝えるつもりだ。」
「なっ…!」
断じて認められないと思ったが、それ以上の言葉は出てこなかった。この青年は、分かった上で失敗をしようとしている。それがどうしても必要なものであるかのように。そうであるならば、彗機卿である自分は、もう見守るしかあるまい。マルグリットはそう決着をつけると、静かに微笑んだ。
早くも剣を振るうことになるなと、革鞘越しに伝わる重みを確かめるように、マルグリットは愛剣に視線を落とした。




