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星天の座  作者: ハル
セラの目、界の影
3/10

エレノア


 エレノア・エク・セスティーナは、セレスティア王宮の離れの窓辺に一人腰掛けて、庭を抜けていく風の音に耳を澄ませていた。


 テーブルにはシワのよっていない、白く新しい帳簿や報告書の束が置かれている。待ち時間に丁度良いかと持参したが、まだ一度もちゃんと目を通すことが出来ないでいた。


 読まずとも内容は分かっている。ろくな報告はない。収穫は減り、犯罪は増えた。野盗の増加、密輸の横行、魔物の被害報告、商連の要求。数え上げればきりが無い。


 "黒の戦争"と呼ばれる大界溢(だいかいいつ)から十年。ヴァレンティアの傷は癒えるどころか、あちこちに膿みが溜まっているのが見てとれた。しかし彼女の今抱える憂慮は、それらではない。その傷を、これから更に抉りかねないもの。塩を擦り込むような危険。古い友人━━ダンカート王の余命だった。


 彼女は今日、何度目とも分からない溜息をついた。


 重い気分を何とか振り払おうと、再び窓の外を見ると、柔らかい風がメレルードの花の香りをつれて来た。


 少し甘く、爽やかな香り。


 その香りは彼女の中の大切な記憶と結びついている。彼女は不意に、若い頃、彼がメレルードが一面に咲き誇っていた野原に自分を連れ出し、名を贈ろうとしてくれたことを思い出していた。新月で星のよく見える夜の事だった。


 星と魔導の大国であるアステリア王国には、古くから思い人に名を贈る風習があった。星の下、意中の相手の手をとり跪いて、二人だけの名を囁く。


 星秘名ほしびなと呼ばれ、受け入れられれば、二人きりのときにその名を呼ぶことが許される。拒まれれば、二度とその名を口にすることはできない。受け入れられたとしても、公の場で口にするようなことがあれば名誉を傷つけたとして決闘沙汰になりかねない程、この土地の人間の愛と絆において重要とされている。


 お互い確かに惹かれ合いながらも、家柄と立場から受け取る訳にはいかなかったその名は、結局その後、亡くなった夫をはじめ誰にも呼ばせることなく今日まできた。もう一人、自分に同じ名を贈ろうとした人物にも。


 「ページを捲るように、過ぎ去っていってしまうわ。」


 エレノアは自重気味に軽く呟いた。


 なぜたまには、神はめくるその手を止めてはくださらないのだろうか。モンバルソンヌの谷間、ザティの丘陵、王宮のテラス。


 感傷的なのは身近な人間に迫った死と、この花の香りのせいだろうか。そう考えるとエレノアは目を閉じた。思い出したくはなかった。それは心地よいからこそ、痛みに変わった。


 規則正しいノックの音が響いた。覚悟していたとはいえ、迫るとやはり心臓を締め付ける。


 「はい。」


 驚きを抑えながら返事をした。


 従者が一人入室し、礼をして抑揚のない静かな透き通った声で告げた。


 「ダンカート王がお見えになりました。」


 「承知しました。」


 一言返答すると従者は頭を下げ、部屋を出て行った。


 再び扉が開き、一人の従者がお茶を持参し、もう一人の従者に支えられて王が覚束ない足取りで入ってきた。時間をかけて、用意してあった椅子へと腰を下ろす。


 エレノアはその変わりように恐怖した。

 痩せ細り、肌色は青ざめて、目は落ち窪んでいる。白い髭は艶を失ってタワシのように方々に伸び、頬骨の出を際立たせていた。


 ほんの半年前まで威厳に満ち溢れ、堂々たる威風を纏っていた壮年の男は、一人だけ時を早めたかのように、老人よりも老人に変わり果てていた。唯一、思慮深いその瞳の鋭い輝きだけを残して。


 「足を運ばせてすまぬな、エレノア。」


 声を聞き、あぁ彼だ、と思った。声は多少掠れてはいたが、間違いようがなかった。


 「ダンカート、今度ばかりは死んでしまうものかと思いましたよ。」


 王は声もなく笑うと、「これからもう間も無くかもしれんぞ」と悪戯に言った。


 エレノアは普段あまり冗談を言わない彼がこんなことを言う事に、ひどく不吉なものを感じて不安になった。誇り高い彼が、すでに敗北を認めているようで。


 「馬鹿なことを言わないで。世界は十年前から変わってしまって、まだまだあなたにはやることがあるでしょう。」


 「そうだな、変わってしまった。皆失うに失った。そして戻せるものすら、まだ戻せてはいない。」


 エレノアは不安と焦燥から、言うべきではない事を言ってしまうのを抑えることが出来なかった。後悔よりも、口にすることでせめて神だけにでも聞いてほしいという願いが勝った。


 「もうすぐ星冠院も再開され、あなたが必要になる。」


 ダンカート王は暫く口を噤んだ。


 不安の色を浮かべている友人に、落ち着く間を与えてやりたかった。お茶を少しすすり、乾いてひび割れた唇を湿らせると、王はゆっくりエレノアを見据えて口を開いた。


 「世継ぎを決めかねておる。古い友人であるそなたの意見を聞きたかった。」


 エレノアは落胆とともに視線を落とした。恐れていたことが目前にあり、直視できなかった。


 死霊のように見る影もなく衰えて、ずっと先のことだと漠然と夢想に止めていたことが現実となりつつある。子供の頃から幼馴染として育ち、青春をともにしてきた長年の友。教会の奇跡も治療出来ないと断じた。神の意志とだけ口にする。


 涙が溢れそうになるのを、深く呼吸することで必死に抑えた。指先が、僅かに震えていた。


 「ルークは長子だが妾の子。思慮深く武勇もたつが、正直者ゆえ、敵も多く国も荒れるだろう。さりとてアルフォンスはまだ幼く、諸侯の忠誠を試す事になろうが、情けないことに余にその自信がないのだ。銀星公は摂政の座に手をかけるやもしれん」


 言われずとも、エレノアはよく承知している。


 王の諮問機関たる星冠院で長年宰相を務めてきた身だ。


 伝統により長子を立てるのが筋だが、その血統と正当性から物言いは多いだろう。"黒の戦争"での活躍から軍部の支持が強いゆえに、ヴェルディアとの和平がより困難になる可能性も高い。


 一方、格式高い貴族連中と教会はその正当性から嫡男アルフォンスを推すだろう。そして王の弱り目は、あの男の野心を確実に肥えさせる。


 どちらにせよ国は割れる。


 そんなことは分かっている。


 ただ、エレノアはその局面に友である自分を一人にはしないで欲しい、ただそれだけだった。


 暫く悩んだが、昔のようにあっけらかんとして言った。


「イヤね。自分で考えなさい。私はあなたのお姉ちゃんじゃないの。しっかりなさい、堅実王様。」


 ダンカートは満足そうに笑った。


 言ってしまえば、楽になる。しかし宰相である自分が言えば、国を割る。王もそれが分かっているから、笑った━━笑うしかなかった。


 エレノアのそれが精一杯だった。


  ◇


 暫くして、従者とともに長子のルーク王子がダンカートを迎えに来た。


 エレノアと目を合わせると、来ていることを知らなかったと見えて少し驚いていた。丁寧にエレノアに挨拶し、父を支えて退出していく。


 黒髪の美しいこの青年は、大界溢で亡くしたエレノアの長男カインとは無二の親友であり、エレノア自身もダンカートの子であるルークに対して、我が子同然に愛情を注いできた。


 夫を亡くした時も、カインを亡くした時も、子供ながらに優しく元気づけようとしてくれた。


 彼は病に犯されている王に代わって、これから代理摂政の座に就く。


 そして彼を見るたびに、守らなければと、彼女の中で均衡が微かに傾く音が聞こえる気がしていた。

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