悪魔憑き
二人は息絶えたようだが、再起した異端審問官が三度剣を構え直した。
そのとき、ザザのそば、患者が寝ているはずの馬車からそれまでにない大きな物音が響いた。
「――ッ、あ……あ゛……!」
暴れ回るような音に、叫びとも悲鳴ともつかぬ声が混ざる。
ザザははっとして振り返った。
「待て、今――」
幌の側面が、内側から引き裂かれた。
裂け目から覗いたのは、人の手ではない。
節だった長い五指の先は黒ずんだ爪が伸び、皮膚は斑に硬質化している。
「な……んだ、あれ……」
目を向けたテムズの声が震えた。
"それ"は馬車の荷台を蹴ると焚火の傍に踊り出た。
身体を痙攣させ、不気味な音を立て、骨格が不自然に盛り上る。
背中を弓なりに反り、肩甲骨の下から“何か”が内側から突き上がった。
異様な気配が、はっきりと“形”を持ちはじめる。
ザザの喉がひくりと鳴った。
「……魔導病じゃ、ない……」
異端審問官が、初めて一瞬だけ動きを止めた。
「バカな……悪魔憑き……?」
その呟きは、疑問だった。
次の瞬間。
両手を縛めていた、拘束用の木製手錠が弾け飛んだ。
木片が弾け飛び、焚き火の火の粉が舞う。
男だった“それ”は、地面に四肢を突き、獣のような姿勢をとった。
人間の面影は、もうほとんど残っていない。
顔は歪み、眼窩の奥で赤黒い光が脈打つ。
口は耳元まで裂け、そこから垂れる涎が地面を焦がした。
「……う、そ……」
カナリヤの弓が、わずかに下がる。
“それ”は首を傾げ、焚き火と人間たちを見回した。
そして。
笑った。
言葉にならない咆哮とともに、
“異形”は最も近い存在――異端審問官へと跳躍した。
「下がれ!」
ジロットが叫ぶ。
異端審問官は剣を構えたが、
魔物の一撃は、人間の速度ではなかった。
爪が閃き、剣ごと異端審問官の身体を吹き飛ばす。
木に叩きつけられ、骨の砕ける音が夜に響いた。
——それでも、異端審問官は“死なない”。
だが、奇跡よりも早く、異形は異端審問官に詰め寄る。
勢いそのままに、鋭い爪が光を纏う男の胸を貫いた。
「神よ…導き、…ガハッ…っ、…。」
光が消失し、男が項垂れて絶命する。
爪を引き抜くと、異形は焚き火の方へ向き直った。
ザザと、密輸隊の面々を“獲物”として認識したのだ。
「……来るぞ!」
ルグルダマトが前に出る。
魔剣クロムレアが唸りを上げ、
飢えたような僅かな紫色の光を帯びる。
「ザザ! 呪文を!」
「……ッ、了解!」
ザザはその声に弾かれたように後退し、息を整える。
喉に言葉を乗せ、異界へと呼びかけようとするが呼吸が乱れる。声が震え、リズムを忘れる。
異形の咆哮が空気を裂いた。
その声には、
かつて“人間”だった頃の恐怖と絶望が、
そのまま歪んだ形で混ざっていた。
━━突然、異形の動きが止まった。
背中から飛び出した何かが、伸びた四肢が、縮んでいき、みるみる人の形を取り戻していく。
口から消え入るような音が漏れる。
「あ…がぁ…たず、ケ゚…」
やがて完全に元通りになると、その場へと倒れこんだ。
あたりに静けさが戻った。空気が澄み、焚火が爆ぜ、遠くで森を渡る風の音が聞こえる。
「戻った…?」
ジロットが呟く。
ザザは動悸を抑えこんだ。
呪文を唱えられなかった自分を恥じ、同時に、安堵した。
確かに、"彼"は助けを求めていた。
言葉がザザの内に動揺を広げていく。
「あきらかに…人でも、魔物でもなかったのに…。俺達はいったい、何を運ばされているんだ…?」
密輸隊の目の前に、男は静かに横たわっていた。




