神の器
森はすでに夜の底へ沈みつつあった。腐葉土を静かに踏み込む音が、焚き火のぱちぱちという微かな爆ぜ音に混じって消えていく。
野営地は小さかった。幌馬車が二台、輪を描くように並べられ、その内側に焚き火がひとつ。密輸隊は交代で休息をとり、残る者が周囲を警戒している。
ザザは"患者"の寝ている馬車のそばに腰を下ろしていた。中から、時折うわ言のような声が漏れ出てくる。
「…あが…あ…。…やめ…くる…な…。」
魔力は込めずに、小声で呪文の復唱をしていたザザは耳をすませた。それは夢とも現実ともつかない声だった。
「また、だな。」
低く呟いたのはルグルダマト。
剣を膝に置き、森の闇を睨んでいる。
「悪魔憑き、ってやつか?」
眠りかけていたテムズが片目を開けて聞いた。
「教会の言い分ではな。」
ジロットが焚き火の向こうから応じる。
「だが、依頼主は“新しい魔導病”と見ているらしい。だから俺らに金を払った。」
ザザは馬車の中の気配を探った。
微かに“異界”に似た気配が感じられる。
魔導によるものではなく、しかし確かに“向こう側”と繋がっているような感触。
━━これは、明らかにただの病気じゃない。
「気味が悪ぃ。だから魔導や教会の類は好きじゃねぇんだ。おちおち眠れやしねぇ。」
ルグルが身を震わせる。
「泣く子も黙るルグルダマト様が、随分弱気じゃない。」
サラサが薬草箱を手に幌の中から出てきてそう言った。
「衰弱していく一方。精神錯乱とも、魔導病とも違う。悪魔憑きはまだ見たことがないけど、本当にそうなのかも。」
その時だった。
森の奥、風のないはずの木々が、ざわりと揺れた。
カナリヤが弓を構え、低く言う。
「……来る。」
次の瞬間、焚き火の向こうに三つの“影”が現れた。
黒い外套。
胸元には銀の輪環。
手には細身の剣。
ひとりが、静かに歩いてくる。
「けっ、本当に異端審問官が来るとはな。」
ルグルダマトが吐き捨てるように言った。
影は止まり、淡々と告げた。
「その荷台の中身を引き渡せ。
悪魔に蝕まれし魂は、我々教会の管轄である。」
ジロットは立ち上がると、とぼけた笑みを浮かべた。
「待ってくださいよ。一体何のことです?」
「無駄だ。我々は"あれ"を感じとれる。」
束の間の睨み合いから、ジロットの口元が歪んだ。
「…冗談じゃねぇ。」
剣を抜きながら一歩前に出る。
「まだ小銭しか貰っちゃいねぇんだ。山が待ってるもんでね。残念だが、こいつは他所行きだ。」
「神に背き、異端を匿うというか。愚か者め。」
ルグルダマトが魔剣を抜き放ちながら答えた。
「知ったことかよ。それより、その剣はお飾りか?え?さっさとおっぱじめようや、坊さん方。」
しばしの静寂の後、剣が一閃した。
ジロットが反射的に弾き、ルグルダマトが踏み込む。
魔剣が異端審問官の胴を深く斬り裂いた。
肉が裂け、血が噴き上がった。
━━確かに、斬った。
だが。
異端審問官は、倒れなかった。
一拍の後。
裂けた腹部が、淡く光り始める。
祈りの言葉が、掠れた声で紡がれる。
「……セラの光よ……」
肉が、閉じていく。
骨が、元の位置に戻っていく。
ルグルダマトの目が見開かれた。
「……冗談、だろ……?」
男は何事もなかったかのように、再び剣を構えた。
その瞳は澄んでいた。
恐怖も、怒りも、そこにはない。
ただ、使命だけがある。
ザザは、背筋に走る寒気を噛みしめた。
━━奇跡。それも戦闘の最中に。
━━これが、教会の“完成形”。
焚き火の光の中で、“死んだはずの人間”が、後方に控える二つの影に片手で合図を送った。影がゆっくりと姿を表してくる。
「やるぞ!てめぇら!」
ジロット、ルグルダマト、テムズがそれぞれ一人を相手取り金属音を響かせた。
ザザが後方に位置し呼吸を整えると詠唱を開始する。
「γΔΔο…τΔξιιλ…」
リズム、発音、音程、抑揚、目の前の状況に左右されずに練習通り、通常通り、意識を集中させながら唱えていく。
それに気づいた異端審問官の一人が淡々と告げた。
「魔導士がいる。詠わせるな。」
ジロットが相手にしていた男が一歩後方に退くと、サザに向かってナイフを構えた。
カナリヤがすかさずその男へと矢を放ったが、男は矢を受けながらも表情一つ変化させずにザザへと投げた。
サラサが咄嗟に手にしていたブロードソードでそれを弾くが、一つが腕に刺さる。
ザザはそれを見ながらも、防御は成功したと判断することで動揺の起こりを鎮めて平静を保った。
「ξιιακ…ηηηαφ…!」
詠唱をとめるとジロットたちに目配せをする。
それを認めたジロットは、測るように一拍間をとってから一喝した。
「散れ!」
三人が一斉に後方へ飛ぶと、ザザは最後の一句を唱え、体内の魔力を解放した。
瞬間、三人の異端審問官たちが爆炎に包まれた。
のたうち崩れ落ちながら、その身体を燃やしていく。肉と髪の焼ける臭いが鼻をついた。
炎が消失すると、火傷まみれの男が膝をついていた。
ジロットが様子をうかがっていたが、再び男の全身が淡い光に包まれる。
「マジかよ…」
ゆっくりと立ち上がると、髪とローブの多くが消失したとはいえ、元通りとなった涼しい無機質な表情を向けていた。
「くそったれ……これは人間じゃねぇ。
“死体”に奇跡を詰め込んだだけの器だ。」




