・第六話
ふらふらとアパートを出て会社に向かう。もの凄く疲れた。
朝食は美味しかったけれど、やっぱりこの状況はまともじゃない。
一体何なんだ、あの子は……そういえば名前すらも教えて貰っていない。
その事を聞こうと思ったけれど、そんな事をする前に出勤の時間になってしまった。仕方無くそれらの質問を後回しにして家を出た。
しかし足取りは重く、やはり気分が乗らない……気分も良く無いし、今日は会社を休もうか、とすら思ったくらいだ。だけど……
友津は軽く息を吐いた。
家の中にいても、あの得体の知れない少年と一日中顔をつきあわせねばならないのだ。 だったらまだ、仕事に行った方がマシだ。友津は軽く息を吐いて、ゆっくりとした足取りで会社へと向かう。
アパートから歩く事数十分。駅に到着して電車に乗る。
そのまま電車で三駅ほどの距離にある会社に到着する頃には、ひとまずはあの少年の事は頭から消えていた。今はとにかく仕事に集中しないと。友津は軽く頭を振り、会社に入っていく。
それほど広くないオフィス。
あまり多くは無い社員。はっきり言って小さい規模の会社。そこが今の友津の職場だ。
別にこの会社がどうしても良かった訳じゃない。自分が暮らしているあのアパートより近くて、自分の学力で入れそうな会社がここしか無かったというだけだ。それに最近では、この会社も悪く無いと思っている、仕事は楽だし、それなりに給料も貰えて生活も出来る。
それで十分だろう。
友津は微かに笑う。
それで十分だ。
この会社にも友人と呼べる存在はいない。自分にはそれが相応しい……ここで目立たない様にして、そのまま一日を過ごせればそれで良い。そうして仕事が終わって帰宅した後は、あの部屋で一人でぼんやりと過ごせれば……
そこまで考えて、友津はまた気が重くなるのを感じた。
今日は……
家に帰れば、あの得体の知れない少年がいるのだ。しかもその事を誰にも話してはいけないだなんて……
一体……あの少年は何なのか……
誰にも言えないで、一体いつまで……
いつまであの少年に耐えれば……
友津は目をぎゅっと閉じた。
とにかく三日間。
三日間耐えれば……
友津は息を吐いて、とにかく仕事に集中しようと、パソコンに向かおうとした。
だけど。
「せんぱーい!!」
底抜けに明るい声が、いきなり背後から聞こえて来た。
友津は軽く息を吐く。あの少年の事を考えていた時とは理由は違うものの、それでも嫌なため息だ。
ゆっくりと面倒そうに振り返る友津の目に映ったのは、一人の女性。
女性……というよりは、『女の子』という方が正しいのかも知れない。正確な年齢は知らないが、多分自分よりも年下だろう。それでも肌の色つやも良く、会社だというのにきちんと化粧もし、髪も整った女性。年齢の割に幼さを感じる顔立ちも、社内の若い男性達の心を掴んで離さないようだ。
「……何か用?」
友津は、冷たく突き放すような口調で言う。こいつはどういう理由かは知らないが、毎日こうして仕事そっちのけで自分に絡んでくる。正直鬱陶しいという感覚以外は全く無いのだが、いくら冷たく突き放すような態度をとっても、こいつはちっとも自分から離れようとしないのだ。
「……林道さん?」
言いながら友津は、こいつの名前を思い出していた。
林道佐恵。
それが彼女の名だ。
正確な年齢は知らない。これまでどんな人生を歩んで来たのかも知らない。知っているのは自分の後輩社員であり、多分自分とは全く真逆の、みんなに好かれて、みんなに愛される人生を歩んで来たのだろう、という事だけだ。ついでに言えばもう一つ、変に自分に懐いている、という事も知っている、理由は知らない。どうせ……
友津の心の中に、昏い感情が生まれる。自分の様な、所謂『陰キャ』と一緒にいれば、自分の明るさや楽しさがより引き立つ。そして……
皆からも、自分の様な暗い人間でも決して拒絶せずに、仲良く出来る人間だ。
そういう風に、皆に思ってもらえて自分の株も上がる。
そういう事だろう。そういう人間が何人か、友津の近くに寄ってきた事がある。
そんな事をする人間は、せいぜい学生時代にしかいないと思っていたけれど、会社に入る様な年齢になってもまだいるものなのだな。
友津は、軽く呆れた。
「えー?」
女子社員。
林道佐恵は、にこにこしたままで言う。
「用事が無いと、先輩に話しかけちゃいけないんですか?」
「こっちは今仕事しているからね、仕事に関係ない用事なら……」
友津が冷たい口調で言う、佐恵は楽しそうにクスクスと笑いながら、ぎゅっと背後から首に腕を回して抱きついてきた。
「仕事に関係ありますよー」
ぎゅっ、と抱きつき、ご丁寧に髪の毛の匂いまで嗅いで来る佐恵に、友津は一瞬ぎょっとした。
「ちょっと、何してるのよ?」
さすがに嫌悪感を感じ、引き剥がそうとするが、彼女はますます強く抱きついてくる始末だ。
「……こうして、せんぱいのいい匂いを嗅がないと、私は仕事が出来ないんです」
「バカな事言ってないで、さっさと離れなさい」
友津はぴしゃりと言い放ち、ぐいっと強引に佐恵を引き剥がした。全身にぞわぞわした悪寒が走る、裸にされたあの時の感覚が蘇る。
「えー」
佐恵は、不満そうに口を尖らせる。
「バカな事してないで、仕事をしなさい」
その言葉に、佐恵は渋々と言った様子でようやく離れていった。
友津は、またしてもため息をついた。




