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~人生はまだこれから~

 今日やってきた人たちはみな楽し気だった。定年退職してから世界一周したという人は、カメラに収めた写真を見せてくれた。「むこうでもプロ顔負けの写真を撮るんだ」とはりきって橋を渡っていった。「幼稚園からの大親友なの」とけらけら笑いながら手をつないでやってきたおばあさんたちもいた。ラーメン屋をやっていたというおじいさんは、また店を開くつもりだと言って暖簾を見せてくれた。


 どんよりと曇った空の下を流れる川は、相変わらず黒く淀んでいた。けれど、ぼくの心は軽かった。橋にやってくる人たちの通行手形を確認する川岸の番人の仕事はストレスフルだ。長蛇の列ができてしまい、並んでいる人から急かされることもあるし、予想だにしない通行手形を見せられて戸惑うこともある。

 けれど、今日みたいに笑顔の人たちが橋を渡って行く姿を見ると、ぼくまであったかい気持ちになる。たとえ記憶が戻らなくても、こうして働き続ける人生もいいかもしれない。そんなふうに考えてしまう。


 遠くから息せき切ってやってきた青年は、ぼくを見るなり背中を向け、逆方向に走り出した。


 ぼくは追いかけた。


「あの」


 声をかけると、青年は立ち止まってふりかえった。


「浩人っ。お前、いいかげんにしろよ」


 何か勘違いしている。それに、ぼくのことを浩人と呼んだ。


「ここまで来て俺のじゃまするのかよ」


「じゃま?」


「しらばっくれてんじゃないよ」

「本当にわからないんだ。ぼくの名前、浩人っていうの?」


「お前、マジで言ってんのか?」


 噛み合わない会話が続き、青年はようやくぼくに記憶がないことを理解した。ぼくは、青年から自分の名前以外のもっといろんなことを聞きたかった。けれど、青年はぼくから離れて行ってしまおうとした。


「帰っちゃうの?」


 ぼくが聞くと、


「お前がいるんじゃ仕方ないだろ」


 青年が半ばあきらめたような口調で言った。橋を渡りにやって来たはずなのに、ぼくがここにいたのがよっぽど気に入らないのだろうか。それなら・・・・・・


「お願いがあるんだ」


 青年の背中にむかって叫んだ。


「これを、この手紙を、宛名の人に渡してほしい」


 ずっとポケットに隠し持っていた封筒を出した。このまま来た道を戻るなら、青年は渡辺果林さんに会って、手紙を渡すことができるかもしれない。


「なにこれ。汚ねぇ字」


 表書きを見るなり青年が言った。


「墜落する飛行機の中で揺れながら書いたんだ」


 ぼくが言うと、青年は、角の折れ、しわになった封筒をまじまじと見つめ、ジャケットのポケットに収めた。


「くそっ。今度はお前がいない時にきてやるからなっ」


 青年はそう言ってもどっていった。青年の背中を見送ったあとで、ぼくは彼の名前を聞いておけばよかったと後悔した。浩人。彼が呼んだぼくの何度も頭の中でリピートした。少しもピンと来ない。青年は、ぼくに対していい印象を持っていないようだった。ぼくは、どこかで彼に嫌なことをしたのだろうか。


      ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 浩人はどうしてこんなものを持っていたのだろう。渡辺果林。ネットで調べたらすぐに出てきた。十年前に起きた飛行機事故の犠牲になった山中雅也さんの恋人だ。果林さんは、犠牲者の会に所属し、活動を続けているらしい。


 当初、雅也さんの家族でもない果林さんが会に参加することについて多くの反対があったそうだ。とくに雅也さんの家族からは猛烈に反対された。雅也さんが事故に遭ったのが、果林さんに会いに行った帰りだったということもある。果林さんに会わなければ、雅也さんは事故に遭わずにすんだ。最愛の息子を失った両親は、果林さんを責めることでしか現実を受け入れられなかった。


 雅也さんの両親と果林さんが和解できたのは、事故から五年以上たってからだった。その年、はじめて果林さんは、雅也さんの両親から追悼式に出席することを許された。果林さんは、これまで以上精力的に活動するようになった。空の旅へ出かける人に酸素マスクや救命胴衣の装着の仕方を教えたり、犠牲になった家族のグリーフケアに心を尽くした。果林さんの笑顔に背中を押され、多くの家族が前向きに生きることができているという。


 ふん。

 そこまで読んで、パソコンを閉じた。


 どうして俺じゃなかったのだろう。


 どうして死んだのが俺ではなく、雅也さんだったのだろう。雅也さんみたいに愛されて、必要とされている人が亡くなって、俺みたいにいらない人間がこの世に生き残っていることにいら立ちを覚えた。

 俺を死なせてくれない神様を恨めしく思った。


 手紙の住所を探し出し、アパートの101号室に「渡辺」の表札をさがした。けれど、そこにはもう別の名前が書かれていて、果林さんは住んでいなかった。アパートを管理している不動産屋に行き、すでに果林さんが引っ越していることがわかった。転居先を聞いたが、個人情報だからと言って教えてもらえなかった。

 それで、犠牲者の会の代表に連絡した。渡辺果林さんあての手紙を預かっていると伝言を残すと、すぐに果林さんから折り返しの連絡があった。


 翌日、果林さんが指定した喫茶店で待ち合わせた。


 重たい扉を押し開けると、思いのほか大きな音でベルがカランカランと響いて胸がどきりと波打った。レトロな雰囲気の店だった。重厚感のある木製のテーブルに赤いベロアのソファ。ステンドグラスのランプが座席を照らしている。


 ぐるりと店内を見回した。奥の席に、ひとりで座っている女の人を見つけた。すぐに果林さんだとわかった。ネットに顔写真を載せていたから。俺に気づくと、果林さんは立ちあがって頭を下げた。ふわっとしたワンピースを着ているからはっきりとはわからないけれど、おそらく妊娠しているようだった。


「幸せなんだな」


 彼氏を事故で亡くしたというだけで、どこか暗いイメージを想像していただけに拍子抜けした。わざわざやって来た自分が馬鹿らしく思えた。


 手紙を渡すと、果林さんは心底驚いていた。


「どうしてこれを」


 そりゃ、こっちのセリフだと思いながら、友達に頼まれたと伝えた。果林さんは目に涙を浮かべ手紙を読んだ。


「わたし、生きていてもいいのね……」


 自分だけ生きて幸せになることに、ずっと罪悪感があったと果林さんは言った。俺はどこか冷めた気分で、これ以上泣かれたりしたら面倒だなと思っていた。

 目の前にカフェオレが運ばれてきた。カップを両手で大事そうに包み、果林さんが口をつけた。


「ありがとう」


 果林さんは、俺に何度も礼を言った。それから手紙が見つかったときのことを知りたがった。飛行機が墜落した現場へ何度も足を運び、雅也さんの手がかりを何年も探したけれど何ひとつ見つからなかった。未だ遺体も見つかっていない。それなのに、手紙が見つかったのは奇跡だという。


「わかりません。俺は、ただ預かっただけなんで」


 それしか言えなかった。


「そのお友達、どんな人なの?」


 果林さんがしつこく知りたがったので、しかたなく俺は浩人のことを話すことになった。


「浩人は大学時代の同級生で、会社の同僚です」


      ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 浩人とは大学時代、学食で出会った。他に席はあいていたのに、浩人はわざわざ俺のとなりにやってきて話しかけてきた。


「ここ、あいてる?」

「鈴森君、宮脇教授のミクロ経済学をとってるよね」


 浩人は俺にノートを見せてほしいと言ってきた。風邪をひいて、先週の授業を欠席してしまったから。俺が渋々ノートを見せてやると、浩人はリュックからノートを出して写し始めた。


「LINEで送るよ」

 そう言って、俺が写メを撮ると、

「いいの? ありがとう」

 浩人は子供みたいな顔で笑った。


「ぼく、文学部一年の川本浩人。鈴森君、下の名前はなんていうの?」

「和哉。鈴森和哉。経済学部の一年」


 それにしても、どうして俺の名字を知っていたのか尋ねたら、

「前に教授に難しい質問されて答えていたでしょう」

「頭いいなって思って。ノートを見せてもらうなら絶対鈴森君にしようと思っていたんだ」


 それから授業のたびに浩人は俺のとなりに座ってきた。ほかに話し相手がいないのかと思っていたら、案外友達は多いようで、浩人と並んでキャンパスを歩いていると、何人もの学生が浩人に声をかけてくるのだった。


 すれ違いざまに、授業の後どこどこの店で待っているとか、今度の休みに河川敷でバーベキューをやるからLINEするとか、そんな会話がある。


「和哉君も行かない?」


 浩人に何度か誘われたけれど、俺は全部断った。就職のために資格試験の勉強をしなければならなかったし、誰かとつるむ気なんてさらさらなかった。みんなが俺をとっつきにくい付き合いの悪いやつだと噂していることも知っていた。誰とでも仲良くなれる浩人のことがうらやましかった。入学してから友達らしい友達ができなかった俺は、浩人と一線を引くことでしか自分を守れなかった。


 就職活動が忙しくなると、キャンパスで浩人と会うこともなくなった。だから、三笠商事の入社式で、再び浩人と会った時は驚いた。


「なんでここにお前がいるんだ」


 思わず叫びそうになったくらいだ。


「和哉君も三笠だったんだね」


 そう言って差し出してきた浩人の右手に気づかないふりをした。お前と一緒にするな。そう思っていた。

 三笠商事は国内で指三本に入る一流総合商社だ。三笠に入るため、俺は必死で勉強し、資格をとってきた。それなのに、いとも簡単に三笠商事に入ってきた浩人が許せなかった。

 唯一、配属先がちがったことだけが、俺のプライドを保ってくれた。浩人が配属されたのは庶務課だった。花形の企画開発課の俺とは仕事内容も任された任務の大きさもちがう。


 俺はがむしゃらに働いた。浩人を見返してやりたい気持ちがあったし、浩人と俺とでは棲む世界がちがうことを見せつけてやりたかった。


 仕事は想像以上にきつかった。会議も多く、資料作りやプレゼン準備に追われた。大量の資料を読み込んで、徹夜で仕上げた企画もすんなり通ることなんてほとんどなかった。


「この企画、今までになかった商戦っていうのはわかるんだけど」

「ちょっと先が見えてこないんだよね」

「それに、この数字、ちょっとシミュレーションが甘いと思うよ」


 企画のダメ出しが俺への批判に変わっていったのはいつ頃からだろう。


「鈴森君、この間も会議で同じこと言われたよね」

「全然直ってないじゃないか」

「これじゃ時間の無駄だよ」


 俺はもう必要とされていない。そう思うと、今まであれほど頑張れた仕事が手に着かなくなった。打った文章を何度も消して、打ち直しているうちに結局一文も書けず夕方になってしまうことが頻繁に起きた。夜もちゃんと眠れず、食事も喉を通らなくなった。身体がやたらと重く感じられ、朝起きて支度をするのもしんどくなっていた。


 たまにオフィスですれ違う浩人は気楽そうだった。いつも何人かで廊下にポスターを貼ったり、倉庫の備品を補充していたりしていた。

「いいよな、お前は気楽で」

 嫌味のひとつでも言ってやりたかった。


「和哉君」

「なんだか顔色が悪いよ」

「ねぇ。企画開発課ってものすごく忙しいんでしょう」

「ぼくでよかったら話を聞くよ」


 しつこく声をかけてくる浩人を俺は無視した。すれ違っても気づかないふりをして通り過ぎた。浩人は相変わらず空気の読めない奴で、俺が無視しているのにおかまいなしで「一緒にごはんをたべよう」とか買ってきたおにぎりを渡して来たりした。浩人が寄ってくるたび俺はイライラを募らせた。


 死にたい。

 死んでしまいたい。


 もう限界だった。今日こそ飛び降りようと腹を決め、やってきた屋上に浩人が現れたときは驚いた。


「和哉君」

「だめだよ。早まっちゃ」


 俺のやろうとしていることがわかるなんて、浩人にしちゃ上出来じゃないか。そりゃあ、お前は気分がいいだろう。俺に指図なんかして。心配するようなふりをして、心の中では俺のことをあざ笑っているんだろう。

 周りからちやほやされているお前にわかるわけがない。俺の苦しみなんて、何ひとつわからないんだ。


 俺はかまわず前を向いた。空は遠く、青くかすんでいた。無機質な四角いビル群がどこまでも続いていた。


 こんな人生、終わりにしてやる。

 さらばだ。


「和哉君、待って」


 俺が飛び降りようとした瞬間だった。

 浩人が俺の腕をひっぱった。物凄い力だった。


「うるさいっ」


 声を荒げ、思い切り浩人の腕をふりほどいた。


 バンッ。

 地響きがした。ぐわんとねじれるような感覚が頭の中を走り、一瞬何が起こったのかわからなかった。

 我に返り、そっと下をのぞくと、浩人が血を流して倒れていた。


 取り返しのつかないことをしてしまった。


 怖くなって、俺はその場に座り込んだ。全身の力がぬけて、立ち上がることができなかった。駆けつけた救急隊員に支えられ、俺は救急車に乗せられた。


      ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「浩人っ」

「浩人っ」

 声が聞こえる。どこで、誰が呼んでいるのだろう。ぼくの背中で、川はおだやかに流れている。


「浩人っ」

「浩人っ」


 水音に反射するように、何度も聞こえた。浩人。数日前に見送った青年は、ぼくのことをそう呼んだ。ああ、青年は無事帰れただろうか。果林さんへ手紙を渡してくれただろうか。


「浩人っ」

「浩人っ」


 ここはどこだろう。真っ白い天井。そして、ぼくを見降ろしている顔、顔、顔。


「気が付いたのね。よかった」


 両手で顔を覆い、いきなり泣きだしたのは母だとわかった。額に汗をにじませているのが父。心配そうにぼくを見ている妹。

 それから、困惑したような表情で、ぼくを見つめていたのは——


「和哉君……」


「ごめん、浩人。俺、本当にごめん」


 和哉がそう言って、頭を下げた。それで、ようやく思い出した。ぼくは会社の屋上から落ちたのだった。思い出したとたん全身がズキズキと痛みだした。そっと布団を覗くと、胸や脚に包帯がグルグル巻きにされていた。

 差し出された和哉の手を握り返す。その手のぬくもりから和哉にも、ぼくと同じ、いや、それ以上に大きな痛みがあると感じた。


 生きているということは、痛みを伴うことなのかもしれない。


「屋上に、蝶が飛んでいたんだ。つかまえようと思って手を伸ばしたらバランスくずしちゃってさ」


 思いついたことを言ってみせたら、妹の顔がぱっと明るくなった。


「どんなちょうちょがいたの?」


「あんたって子はいつまでも子供みたいなんだから」

「本当にもう、心配かけないでよ」


 母はもう怒っているのか泣いているのかわからない顔で言い、父は黙ったまま母の肩に手をおいた。


「そうだよ。しんぱいかけないでっ」


 母の真似をして、妹がバンバン布団をたたいたので、「痛てて…」とぼくは悲鳴をあげた。びっくりした妹はあわてて手を離した。


「ごめん、浩人。俺のせいで…」


 本当にあったことを話そうとした和哉をぼくは制した。そんなこと今さら話す必要なんかない。和哉も、ぼくも、ふたりしてここへ無事戻ってきたのだから。


「俺、会社をやめようと思ってる」

「今度こそ、俺だけが誇れることをちゃんと見つけたいんだ」


 そう言う和哉が英雄に見えた。和哉の目の前で親指を立てて見せた。ぼくだって、と思う。ぼくだって和哉に負けないくらい、ぼくの人生をちゃんと生きたい。


 通行手形を見つけに行くんだ。


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