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~あなたの味方でいる~

 ちらちらと雪の舞う日にその人はやってきた。コートの襟をたて、背中をまるめ、砂の混じった氷を踏みしめながら歩いてきた。右手に黒いアタッシュケースをしっかりと握っている。橋の手前までやってきたその人はぼくに気づかずそのまま橋を渡ろうとした。


「すみません。通行手形をお願いします」


 ぼくはあわてて声をかけた。

 その人が、驚いたように顔を上げ、何のことだかわからないといった表情でぼくを見た。


「通行手形を拝見します」


 ぼくはもう一度言った。


「ああ」


 その人が地面にひざをつき、アタッシュケースを開けた。札束がぎっしりと敷き詰められているのが目にはいって、ぼくはびっくりした。


「いくら必要なんだい?」

「え?」

「通行料ならいくらでも払うよ」


 ああ、この人は勘違いをしている。


「あの、通行料じゃなくて、通行手形なんです」


 ぼくが言うと、その人は少しだけ憂いのある顔をして言った。


「残念ながらそんなものは持ち合わせがなくてね。どこで売っていたのだろうか。通行手形を売っていそうな店は通ってこなかったな」


「とにかく、金は払うよ。ここを通してくれないか」


 通行手形のない人に、橋を渡ってもらうわけにはいかない。けれど、この人はそれらしいものをひとつも持っていなさそうだった。


「えっと、あの、その、お金、立石さんに聞かないと」


「なんだって? 君はその立石っていう人に聞かないと仕事のひとつもできないのか」


 おだやかだった声が急に険しくなって、ぼくはうろたえた。立石さんに教わらないと自分では判断できない。その人の言う通りだった。


「通行料をいくらにすればいいかなんて簡単に計算できるだろう」


 その人は言った。


「総工費と将来の維持費を考えて、通行する人がどれくらいいるか予測すれば、通行料なんてすぐに計算できる。利益もちゃんとのせて、だ。そんなこと、ちょっと考えれば中学生だってわかるさ」


 あきれられていることは一目瞭然だった。けれど、ぼくにはどうしようも判断がつかないし、うっかり橋を渡してしまったあとで立石さんに叱られるのもいやだ。それに、ぼくひとりで判断し、失敗するのがこわかった。立石さんから「もう仕事を任せられない」と言われてしまったら、それこそぼくは行き場を失ってしまう。


 ちょうどその時、散歩から帰ってきた立石さんの姿を見つけ、ぼくはほっと胸をなでおろした。小屋に向かっていく立石さんをつかまえて事情を説明した。


「そうだねぇ。たしかにこれは通行手形とは言えないねぇ」


 立石さんは言った。それから目の前の紳士に向かって、


「お金には名前が書いていないし、きっとむこうでは使い物にならないでしょう」


 と言った。すると、その人の顔つきが一層険しくなった。


「失礼にもほどがある」

「これは正真正銘わたしが稼いだ金だ」


「わたしがどんな思いで働いてきたか、君たちにはわからないんだ」



      ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 相羽壮介は、裕福な家庭に生まれた。けれど、壮介が小学校へあがったばかりの頃、父親が事業で失敗し、一家は転落した。都心の自宅を売却し、一家は郊外のアパートへ越した。壮介は転校を余儀なくされ、仲のよかった友達と離れ離れになった。

 仕事が見つからず、父親は飲酒やパチンコに明け暮れた。今までのような贅沢な暮らしができなくなり、母親は毎日不満ばかり吐いていた。「こんなボロ家じゃ料理も掃除もしがいがない」と言い、台所に立つこともなく、部屋は散らかり放題だった。


 家でろくな食べ物にありつけなかった壮介にとって、給食は貴重な栄養源だった。夜おなかがすかないように、給食は食べられるだけ食べた。おかわりに並び、クラスメイトの嫌いなおかずや残したもの、とにかくなんでも食べた。


 そのうちに、壮介は「ゴミ箱」というあだ名で呼ばれるようになった。薄汚れたTシャツとズボンに穴の開いた靴下をはいた壮介のことを誰も友達と認めてくれなかった。壮介とすれ違うとき、女子は鼻をつまんで通り過ぎた。給食室に片づける残飯を男子はおもしろがって壮介に食べさせようとした。


 みんなの輪の中に入って、ゲームをしたり、遊んだりしたかった。けれど、壮介を取り巻く世界は優しくはなかった。まわりの子供たちの普通や当たり前は、壮介にとって何ひとつ当たり前ではなかった。

 みんなはゲームを持っている。けれど、壮介は持っていない。みんなは家に帰ればご飯がある。けれど、壮介にはない。清潔できれいな服を着ることも、野球やサッカーの習いごとも、壮介にとってはかなわないことだった。

 そうやって考えているうちに、ひとつだけ壮介も持っているものに気づいた。みんなが持っていて、壮介も持っているもの。


 教科書だった。


 壮介は勉強に熱中した。教科書で飽き足らず、図書館に入り浸るようになった。とくに夏場冬場の図書館は冷暖房がきいていて家にいるよりずっと快適だった。図書館に居れば、「ぼっち」だと後ろ指さされることもない。安心してひとりでいられるのも心地よかった。


 中学になると、壮介のように誰からも相手にされない人間を仲間にしたがる人種がいた。煙草を吸って、バイクを乗り回しているような連中だ。そういう人たちを、壮介は見向きもしなかった。偉そうにふるまっていてもたいていは勉強のできない底辺のやつらだと思っていた。


 壮介は必死で勉強を続けた。その甲斐あって、高校、大学へは特待生で入学できた。卒業すると、給料がよいというだけでIT企業に就職し、壮介は家を出た。


 仕事にも熱心に取り組んだ壮介は、学生時代に培ってきた知識とキャリアを存分に発揮し、五十五歳で社長の座まで上り詰めた。壮介が企画した新しい事業はどれも成功し、経営は順風満帆だった。


 壮介は人生のすべてを仕事に費やした。仕事は裏切らない。頑張れば頑張っただけ自分に返ってくるのが気に入っていた。


 一度だけ結婚を考えた女性がいた。けれど、その女性も結婚したら母親のように金の無心になるだろうと思うと、壮介はどうしても一緒になることを考えられなかった。


 壮介は必死で働いた。仕事以外の時間は、無駄だとしか思えなくなった。壮介は、稼いだお金で散財することもなく、贅沢もしなかった。預金通帳の残高が増えるたび、壮介は自分が誇らしかった。

 ただお金を持っている。そのことが壮介を安堵させ、幸せを感じるのだった。


 六十五歳になった時、壮介は次の世代へ社長を引き継ぐことにした。同じ頃、両親が相次いで亡くなった。訃報を聞いて、壮介は何十年かぶりに実家にもどった。誰ひとり弔問客のいない小さな葬式を済ませると、壮介は肩の荷がおりた気がした。


      ◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「大切なお金なのですね」


 立石さんが言った。壮介さんが顔をあげ、立石さんを見つめ、ゆっくりとうなずいた。それからアタッシュケースを閉じ、銀色のカギをカチャリとかけた。苦労して稼いだお金なら通行手形になるのかもしれない。ぼくは、ぼんやりとそんなことを思っていた。


「そのお金を誰かのために使うことは考えられないでしょうか」


「え?」


 その声が壮介さんのものか、ぼくのものか、あるいは二人同時だったのか区別がつかなかった。誰かのためにって、お金を使うって、いったいどういうことだろう。


「あなたの力を必要としている人たちがいるのではないでしょうか」


「慈善事業に寄付するとか、そういうお話だったらお断りします」


 壮介さんがきっぱりと言った。橋を渡ってしまえばもう使いものにならないというのに、壮介さんはよっぽどお金に執着があるのだ。


「わたしは誰かのほどこしを受けたりせず、自分の力でのしあがってきたんだ。誰だって、やろうと思えば自分でなんとかできるはずだ」


      ◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 部屋に入るなり、壮介はあっという間に子供たちに囲まれてしまった。子供の扱いに慣れていない壮介は、どうしたらいいかわからず両手をあげたまま身動きがとれずにいた。


「ねぇ、本よんで」

「このくまね、ミリーちゃんっていうの」

「サッカーできる?」


 前後左右からバラバラの声が混ざって聞こえ、何を言っているのかちっともわからない。


「ほらほら、みんな落ち着いて」

「相羽さんが困っているでしょう」


 笑顔で子供たちに話しかけているのは掛川美鈴だ。園長だというから、もっと年端のいった人を想像していたら、若い女性だったから驚いた。まだ二十代だろうか。


 今日、壮介は「きぼうの家」を視察にやってきた。社長を引き継いだ高橋から、社会貢献活動をしたいと相談されたのだ。会社に社会貢献なんて必要だろうか。壮介は疑問に感じたが、会社のイメージアップにもなるからと高橋はきかなかった。


 活動先の候補に、「きぼうの家」があった。運営しているのは、立石麗子財団。娘時代から長くテレビや映画で活躍している女優だ。ギャラをバンバン稼いでいるから、よほど金が余っているのだろう。だったらうちの会社がわざわざお金を出す必要などないのではないか。


 壮介が文句を言うと、


「社会貢献活動は単に寄付をするだけではありませんよ」


 高橋はそう言って、壮介に「きぼうの家」を一度見てほしいと頼んだのだった。


 想像していたよりずっと明るくにぎやかな施設だった。部屋の壁紙も黄色やピンクで明るい雰囲気だったし、何より子供たちが元気いっぱいだった。食堂のホワイトボードには、子供たちの字で「あいばさん、ようこそ」と書かれており、折り紙の花や動物で飾られていた。よく見ると、「あ」と「よ」の字が鏡文字になっていた。


「おれ、これ書いた」

「あたしはこの字」


 ホワイトボードを指さし、子供たちが口々にさけんだ。ちゃんとした字を教えてやりたかったが、壮介は子供たちに声をかけるまでもなく、用意された椅子に座らせられてしまった。


 子供たちの歌で歓迎を受けた壮介は、なんだかくすぐったいようなうれしい気分になった。


 それからは子供たちのリクエストに応えるので大忙しだった。壮介は、絵本の読み聞かせに、お絵かき、キャッチボールにゴム飛びまでやった。時間はあっという間に過ぎた。


「今日はありがとうございました」


 控室に戻った時、美鈴が冷たいお茶を出してくれた。すっかりのどが渇いていた壮介は、出されたお茶を一気に飲んだ。


「わたし、出戻りなんです」


 顔を赤らめて美鈴が言い、肩をすくめた。美鈴はきぼうの家で育ち、十八歳で卒所したという。


「うまく社会になじめなかったんです。友達ができてもうまく付き合えなくって。ほら、みんなちょっと仲良くなると、家族のこととか話すじゃないですか。施設で育ったこと、誰にも言えなくて。自分だけ話さないのってフェアじゃないよなって思っちゃって。そんなふうにしていたら、いつの間にかみんな、わたしから離れていってしまいました。もう無理だって、死ぬことばかり考えていました。」


「そんな時、当時の園長先生からここで働いてみないかって言ってもらえて。わたしは、きぼうの家に救われたんです。でも、ここにいる子供たちには、わたしのようになってほしくないんです。ここにいたことなんて忘れるくらい、ちゃんと幸せになってほしいって」


「でも、自分が園長になってよく思うんです。この子たちがいろんな事情でうまくいかなくて戻ってきたときも、わたしだけはいつだってこの子たちの味方でいようって」


 美鈴が目に涙を浮かべていた。


 味方……


 壮介は思い出した。


「わたしは壮介の味方だよ」


 そう言ったのは、壮介の同僚で、恋人でもあった蒼井みどりだ。壮介が昼ご飯も食べずに仕事をしていると、おにぎりやパンを差し入れくれた。壮介が考えた企画がなかなか通らず行き詰っている時も、「わたしはそれ、絶対いいと思うよ」と励ましてくれたのもみどりだった。


 小学生の頃、転校した壮介にやさしく接してくれたのは中村学だった。

「おれ勉強きらいだし、教科書なんかいらないんだ」

 そう言って壮介の机に教科書をすべらせ、

「体育も音楽も苦手だしな」

 と言って壮介に体操着やリコーダーを壮介に押しつけた。


 そんなことばかりしているから、学はいつも先生に叱られたり、友達からからかわれていた。それでも学はいつだって「がはは」と笑っていた。


「壮介は頭がいいから総理大臣になるかもな」


 まじめな顔でそんなことを言ったりもした。学のことを頭のわるいふざけたやつだとばかり思っていたが、今思えば、学は壮介が新しいクラスに溶けこめるようわざと笑われるようなことをやっていたのかもしれない。


 いつだって壮介のまわりには味方がいた。ずっとひとりだと思ってきたけれど、気づいていなかっただけだ。


      ◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 ふたたび橋にやってきた壮介さんは、アタッシュケースを持っていなかった。


「通行手形を確認します」


 ぼくは声をかけた。緊張で、少しだけ声がふるえた。


 壮介さんが、そっと手のひらを開いて見せてくれたもの。それは、金の折り紙で作られたメダルだった。首にかけられるよう赤青白の三色のストライプのリボンがついていた。


 メダルの真ん中の白い部分に、子供の字で「ありがとう」と書いてあった。「あ」が鏡文字になっている。


「きぼうの家に行ってきたよ」

「そこでもらったんだ」


「ありがとうございます」

「では、どうぞいってらっしゃい」


 壮介さんを見送った。橋の欄干に積もった雪が日の光を浴び、キラキラ輝いていた。まるで、ランウェイのようだ。まっすぐに伸びた壮介さんの背中を、ぼくはいつまでも見送っていた。


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