~選ばなかったもの~
橋を渡って行った青年は拍子抜けするくらい明るかった。見せてくれた通行手形は安全ピンのついた四角いビニールの名札が三枚だった。
久保あさひ
木村あさひ
和泉あさひ
それぞれ名字のちがう名前が書いてあった。青年は、小学校のあいだに名字が三度も変わったと言う。あさひの母親は惚れっぽい性格で、出会った相手に夢中になるたび結婚と離婚を繰り返した。
久保さんは声楽家だった。
木村さんは法律家だった。
和泉さんは教師だった。
母親の一番はじめの結婚相手があさひの生物学上の父親だ。けれど、本当の父親が誰かなんて、あさひにとっては意味のないことだ。あさひは三人の父親それぞれに似ているところがあったし、三人のおかげであさひの人生は豊かなものになった。
「三人そろって見舞いに来てくれたそうですよ」
ぼくが青年から聞いた話をすると、
「声楽家と法律家と教師が一同に会したら、さぞかしにぎやかだろうね」
立石さんはそう言って笑った。
記憶を失ったぼくは、いまだに自分の名前を思い出せない。思い出して、自分がとんでもなく性悪な人間だったらどうしようと思うと、思い出すことさえ恐怖だと感じてしまう。けれど、こうして明るく朗らかな人に会うとほっとする。
あさひ青年のように前向きに生きられたらいい。
灰色の空を覆った雲が、めずらしく太陽をのぞかせていた。雲の切れ目からひとすじの光が水面を照らしていた。川はあいかわらず沼のように濁っていたけれど、光が当たったところだけ黒曜石みたいにキラキラと輝いていた。
白い日傘をさしたおばあさんが橋にやってきたとき、ちょうど立石さんと交代するところだった。
「ま、まこと・・・・・・?」
おばあさんと向き合ってすぐ名前を呼ばれてびっくりした。けれど、おばあさんの視線はぼくを通り越して、立石さんを見ていた。
「・・・・・・まこと」
そう言えば、立石さんの下の名前を聞いたことがなかった。立石さん、まことって言うんだ。頭の中でそんなことを考えていたら、
「失礼ですが」
怪訝な顔で立石さんがそう言ったので、ぼくはさらにおどろいた。おばあさんが勘違いしているのか、それとも、立石さんが覚えていないのか。
「そうよね」
「はじめましてだものね」
おばあさんが日傘をたたんだ。その顔に見覚えがあったが、すぐには思い出せなかった。七十。いや、もしかしたら八十を超えているかもしれない。背筋はしゃんとしていて、色白で肌もきれいだけれど、よく見ると目じりや口元にしわが目立つ。
ああ、そうだ。この人は女優さんだ。見覚えがあると思ったのは、テレビや映画に出ているのを見たことがあったからだ。たしかおばあさんの名前は・・・・・・。
「立石麗子。あなたの母です」
「えっ」と思わず声が出てしまった。おばあさんが、まっすぐに立石さんを見つめている。どういうことだろう。立石さんは母親の顔がわからないのだろうか、青い顔をしていた。
「申し訳ありません。交代の時間なんで」
「君、あとをたのむ」
ぼくに言い残すと、立石さんは背をむけて行ってしまった。目の前で感動の再会シーンが繰り広げられると思っていたのに、いなくなるなんて。いったい二人の間に何があったのだろう。
取り残されたぼくは、どうすればよいかわからなかった。
「おどろかせてしまってごめんなさい」
はじめて、おばあさんがぼくを見た。
「あの、女優さん、ですよね」
どうしてぼくは、こんな時にどうでもいいことしか言えないのだろう。
「そうよ」
遠慮がちに、おばあさんが答えた。けれど、その顔は、正真正銘女優の立石麗子だった。
「あの、ここにいらしたということは、橋を渡られるのでしょうか」
「ええ、もちろん」
通行手形は持っているのだろうか。
「通行手形を・・・・・・」
途中まで言いかけた時、麗子がさえぎった。
「そんなものないわ」
「わたしはね、まことを連れて行きたいの」
言葉を失った。今まで数多くの人がぼくにいろんなことを言ってきた。どうしたらいいか対応に困ることもあったけれど、なんとか橋を渡ってもらえた。けれど、こんなのはじめてだ。目の前の女優は、ここから立石さんを連れていくという。
◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇
はじめから女優になるつもりはなかったのよ。ただ、子供のころから誰かを喜ばせるのが好きだったの。わたしが歌ったり、踊ったりすれば、まわりの大人が笑顔になった。
父が戦争からとうとう帰って来なくて、弟とわたしを育てるのに母は働きづめだった。いつも疲れていて、笑った顔なんて見たことがなかった。その母が、わたしの踊りを見て笑ってくれたの。学芸会の花咲か爺さん。わたしはすずめの役だった。主役でもなんでもない。チーチチチって両手を広げてただ踊るだけの、たったそれだけの役。それでも母はわたしが踊ってみせると愉快そうに笑ってくれたの。
うれしかった。いつしかわたしは女優になりたいと思うようになった。独り立ちして、母に楽させてあげたかったし、ほかにとりえもなかったから。オーディションと名の付くものには全部行ったわ。でもね、すぐに女優になれるわけなんかなく、オーディションは落ちてばかり。合格しても、もらえる役は「通行人A」とかセリフのない役ばかりだった。
章宏さんと出会ったのはそんな時だった。章宏さんは、演劇好きの大学生で、よくわたしを舞台に連れて行ってくれた。舞台を見に行った日は、お互い時間を忘れて語り合った。あの頃は、夢ばかり見ていたわ。いつか章宏さんと一緒になって、彼の演出する舞台にヒロインとして立つ。本気でそう考えていた。
でもね。章宏さんには、結婚を約束した人がいたの。彼は財閥の御曹司だった。お家を継がなければいけない身よ。もう彼とは別れよう。そう決めた矢先だった。おなかの中に小さな命が宿っていることに気づいたのは。
ひとりで産み育てることも考えたわ。章宏さんとは結婚できなくていい。章宏さんが残してくれた宝物を守り、この手で育てる。そうすれば章宏さんをずっとそばに感じて生きていける。それでいい。そう思っていたのに。
神様は意地悪ね。妊娠が分かった時、オーディションに合格したの。当時一世を風靡していたアイドルの永見慶子ちゃんがヒロインのドラマよ。脇役だったけれど、物語のキーになる役で、ドラマの全回に出番があった。
それで、わたしはどうしたと思う?
わたしはね、女優を選んだの。
とにかく必死だった。魂をこめて演じたドラマは、毎回大盛況だった。監督からは主役の慶子ちゃんを喰っちゃうような演技はしないでくれなんて嫌味も言われたし、慶子ちゃんのファンからカミソリの入った手紙も届いたりした。けれど、わたしはあきらめなかった。
ドラマのおかげでわたしは次の作品にも呼ばれるようになったの。そこからはトントン拍子。ドラマや映画、舞台もカレンダーが真っ黒になるくらい仕事が舞い込んできた。どんな役にも真剣に向き合い、わたしにしかできない演技をしてきたつもりよ。だから、わたしは命の幕がおりるその瞬間まで、現役で舞台に立って居られたの。それってしあわせなことよね。
まこと。産んでやることができなかった子に名前をつけて、心の中でずっと呼んでいた。一日足りとも忘れたことはないわ。
女優として、数えきれないほどいろいろな役を演じてきた。女だけじゃない。男にも、鬼や精霊にもなった。
けれど、まことの母親にだけはなれなかった。そのことが、悲しい。
命に恵まれなかった子は
川のほとりで見守っている
会えなかった人たちが
橋のむこうへ渡って行くのを
霧島さんっていう脚本家が、デビュー前に書いたというシナリオを読ませてもらったことがあるの。その言葉通り、いつかまことに会えると信じて生きてきた。
その願いがようやく叶った。
もう二度と離れたくない。今度こそまことと一緒に行く。わたしが、そう決めたの。
◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇
立石麗子の身の上話に胸がしめつけられる思いがした。その一方で、あまりにも勝手な話ではないかとも思う。麗子は立石さんを連れて行くと言い張って動かない。当の立石さんは小屋へ帰ってしまった。
どうしたらいいのだろう。
「会わせて」
「もう一度、まことに会わせて」
とりあえず親子で話し合ってほしい。ぼくは、立石さんを呼びにもどった。
「立石さん」
あたたかい湯気の立ちのぼる台所で、そっと背中に声をかけた。
「麗子さんが、会いたがっています」
立石さんが振り返って、ゆっくりとうなずいた。
もしも立石さんが橋の向こうへ行ってしまったら。
そう思うと、急に不安が押し寄せてきた。ぼくひとりでは川へやってくる人たちのことを到底全部対応できない。それに、仕事帰りの疲れた身体に沁み渡る、立石さん特製のミルクスープだって食べられなくなる。
立石さんに行ってほしくないのに、「行かないでください」と止めることもできず、ぼくは橋へ向かって歩いていく立石さんの背中を追いかけた。
「さきほどは、失礼いたしました」
麗子さんと向き合うと、立石さんはゆっくりと身体を折り曲げた。
「うれしかったわ。わたしが想像していた通りの大人になってくれて」
「まこと」
「あなたのことを思わない日なんてなかった」
「これからはずっと一緒に・・・・・・」
麗子さんが右手を差し出す。点々とシミのある、痩せて骨ばったその手を立石さんはしばらく見つめていた。けれど、その手をとることはせず、立石さんが口を開いた。
「一緒には行きません」
立石さんが、深々とお辞儀をした。
どうして? 信じられない。
麗子さんと一緒に行かないなんて。
やっと出会えた母親なのに。
一方で、立石さんが残ってくれることになって、どこかほっとしている自分がいた。ぼくは、なんて自分よがりでわがままなのだろう。
少しだけ自分がいやになった。
「見ての通り、わたしにはここでの務めがあり、必要としてくれている人がいます」
立石さんが言った。
「それはあなただって、同じだったはずです」
立石さんは顔をあげ、まっすぐに麗子さんを見つめている。ゆっくりと、麗子さんは差し出していた手をひっこめる。
「お母さん」
立石さんが呼んだ。やさしく、おだやかな声だった。麗子さんの表情がふっとゆるむ。やわらかな風が、ふたりをやさしく包むように流れていった。
麗子さんが日傘を広げた。ぼくたちに背を向け、薄日の差す橋を渡って行く。
お母さん。
たった一度だけ、立石さんが呼んでくれたその言葉が通行手形となった。
川岸に花が咲いているのを見つけた。大切なものをこぼれないよう掬っているような赤い花。曼殊沙華だ。




