~愛の記憶~
川は流れ、人はみな橋を渡っていき、ぼくだけがここにとどまっている。川岸の番人の仕事をはじめてどれくらい経ったのだろう。朝と夜を繰り返し、立石さんと交代で橋のたもとに立ち、ぼくはもう数えきれない人たちを見送ってきた。
「あせることはない」
記憶がもどらないままくすぶっているぼくに、立石さんは言う。
「それに、君がいて助かっている」
はじめこそ立石さんにそう言われると嬉しかった。けれど、今は感謝の言葉をいくら並べられても少しも嬉しくない。
立石さんにとって、ぼくは都合のいい存在なのだ。ぼくがシフトに入れば、立石さんは自由になれる。料理しようが、散歩しようが、仕事を忘れて気ままに過ごせるのだ。立石さんは、いっそこのままぼくの記憶がもどらないで、いつまでも川岸の番人でいてくれればいいと思っているにちがいない。
橋を渡る人の波が途切れ暇になると、ついひねくれた思考ばかりが浮かんでしまう。
黒く淀んだ川は、日によって様々な表情を見せる。風のない日はとろとろと眠気を誘うようだし、嵐になれば、波しぶきをあげ荒れ狂い、立っていることもままならない。橋が崩れ、呑みこまれてしまうんじゃないかと恐ろしくなる。川は、どこからはじまって、どこへ流れつくのだろう。
橋を渡って行く人たち。どこへも行けないぼく。ポケットに手をやると、あの日川へ流さなかった手紙がカサカサと音をたてる。
はじめて、立石さんにかくしごとをした。
今日はもう誰も来ないだろうか。そう思って、片づけ物をしていると、遠くからやってくる人影が見えた。橋を渡るのに門限などないのに、その男は閉店間際の店にかけこんでくるみたいに息せき切って滑り込んできた。
「ここは、どこだ」
思ったより背が高い。強そうな男だった。肩のあたりから腕にかけて筋肉が隆々と盛り上がっている。首に、十センチほどの傷があった。皮膚がめくれあがり、えぐられたような深い傷はあまりにも生々しくて、ぼくは思わず目をそらした。
「通行手形を確認します」
そう言った瞬間、罵声が飛んできた。
「どこかって聞いてるんだよっ」
身がすくんだ。頭がきーんと鳴る。
「すみません」
「は? 答えられねぇのかよ」
「それは、ぼくにもわからなくて…その…橋を渡るのに、通行手形が…」
「そんなもん、あるわけねぇだろ」
「馬鹿にしてんのか?」
「貴様、何の権利があってそんなことやってんの?」
いきなり胸ぐらをつかまれ、棒立ちになった。殴られると思って目を閉じたその時だった。
「おいおい、乱暴はよしてくれよ」
立石さんだった。男は立石さんを一瞥すると、ぼくの背中をぐいっと欄干に押し付け、手を離した。
「その傷、ちゃんと手当てしたほうがいい」
男の首筋を見て、立石さんが言った。
「こんなの、なんともないし」
男はそう言って、わざと傷口を掻きむしって見せた。裂けた皮膚からとろりとした膿が出て、真っ赤な血が滲んだ。
「傷ついたままじゃ橋は渡ってもらえないんでね」
そんなルール、初めて聞いた。
「悪いが交代まで、もう少し待ってくれ」
そう言うと、立石さんは男を連れて小屋へ向かって歩き出した。まさか傷が治るまで男を家に置いておくつもりじゃないだろうか。いったい何を考えているのだろう。こんな乱暴な男と一緒に寝泊まりするなんて、ぼくはぜったいに嫌だ。
ほどなくして、立石さんが戻ってきた。
「疲れて眠ってしまったよ」
「起きたらスープをあたためてやってくれ」
ぼくにあの男をもてなせというのか。あんな目に遭ったのに。
「いやだ。あんな人」
思ったより大きな声が出てしまった。
「そんなこと言うもんじゃない」
「君はまだあの男のことを何も知らないのに」
ぼくよりあの男の肩を持つのか。
だったら、ぼくじゃなく、あの男と一緒に川岸の番人をすればいいじゃないか。腹の底から怒りが湧いた。このままどこかへ行ってしまいたかった。けれど、記憶を失ったぼくに他に行くところもなく、立石さんの小屋に戻るしかなかった。
男が目を覚ましたのは、夜中の二時で、ぼくは立石さんに言われた通りミルクスープをあたためて出してやった。また男に乱暴されるかもしれないと思うと手元ががたがたと震えた。
「あのじいさんが作ったのか」
「うまいな」
そう言って男は一気にスープを平らげた。
「おまえ、なんも覚えてないんだってな」
「・・・・・・」
「ずいぶん都合がいいんだな」
「え?」
目の前の男が、嫌いだと思った。
「明日の朝早いから、ぼくはもう寝ます」
そう言って、ぼくは部屋に逃げ込んだ。すぐに寝ようとしたけれど、なかなか寝付けない。布団にくるまって丸くなり、耳を塞いだ。しばらく台所を行ったり来たりする男の足音が聞こえていたが、やがて寝室の扉がバタンと閉まる音がした。やっと静かに眠れると思ったのに、今度は男のうめき声がうるさくて眠れなかった。怒っているのか、泣いているのかもわからない男の叫び声は、どんなに耳を塞いでも耳の奥まで響いてきた。
◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇
五歳の時、施設に入れられた。親父の暴力から逃れるためだったが、希望して入ったわけじゃない。暴力なんて、いつか俺が親父より強くなればいいだけのこと。
だから、俺は暴れまくった。学校ではこわい者なしだった。俺がちょっと机を蹴飛ばしただけでクラスのやつらは怯んだし、なんだって俺の言うことをきいた。
十歳で俺は平山家の養子になった。平山夫婦には子供がなく、跡継ぎを欲しがっていた。中学を卒業すると、平山のおっさんに連れられて工場に出入りするようになった。少し手ほどきを受けただけで、俺はめきめき上達した。板金や塗装も、分解整備も、大人顔負けの上手さで仕上げることができた。おっさんがほめてくれると嬉しかった。俺は仕事に夢中になった。
「さすが社長の息子さん」
工場の誰もが俺を一目置いてくれる。悪くない気分だった。平山のおばさんは、前にも増して俺の体を気遣うようになった。ちょっと切り傷をつくったくらいで大げさに心配した。
一度、血が滲んだ指先をぺろっと舐めてそのまま仕事を続けようとしたら、平山のおばさんが救急箱を持って飛んできた。
「絆創膏はっておかなきゃ。ばい菌が入ったら大変」
おばさんはそう言って、絆創膏の箱を取り出し、ふたを開けようとした。
「いいです。俺、自分のあるんで」
俺はズボンのポケットから絆創膏の箱を出した。子供の頃、母にもらった絆創膏だった。父に殴られたあと、「大丈夫、大丈夫」 まじないのようにそう言って、俺の額に、腕に、膝に絆創膏を貼ってくれた。
ずっとポケットに入れたままだったから、箱はつぶれかけていたけれど、指先にちょうどいい大きさのものが何枚か残っていた。
それを見て、平山のおばさんは目を丸くした。
「あらだめよ。それじゃ、古くて汚いわ」
ドスッと何かが吹っ飛んだ感触があって、気づいたら平山のおばさんが棚にもたれかかって倒れていた。それで、自分がおばさんを殴ったんだとわかった。両手で顔を覆い、おばさんは小走りで部屋を出ていった。
おっさんに怒られるかもしれない。俺は覚悟していたけれど、叱られなかった。殴られたことを、おばさんはおっさんに言わなかった。
食卓には、いつも通り三人分の夕食が用意されていた。
平山のおっさんが病気で亡くなって、二十歳で俺は会社を引き継いだ。平山自動車整備工場には血の気の多い人間ばかりが働いていた。外国籍の奴もいたし、公にはされていなかったが前科者もいた。もめごとが絶えない職場だった。
亡くなった平山のおっさんが彼らをどんなふうに扱っていたのかなんて知る由もなかった。問題を起こした奴らとおっさんが面談室で長い間話しているのは何度も見たことはあったけれど、何を話していたかなんて、興味すらなかったし、俺にとってはどうでもよかった。
だから、俺が奴らを黙らせるには暴力しかなかった。言うことを聞かない奴らを俺は徹底的に懲らしめてやった。俺のやり方に反発してキレた奴が会社を去り、代わりに根性のありそうな奴を採用する。そんな繰り返しだった。
仕事は常に人手不足で忙しかった。辞めていった奴らがやり残した仕事を俺が夜中までやる羽目になった。「無理はいけない」と平山のおばさんは言ったけれど、預かった車を期限通りに仕上げるにはそれしかなかった。昼と夜との境目がわからなくなり、工場で寝泊まりする日がほとんどだった。
車の下に潜り込んで作業をしていた時、いきなり襲われた。抵抗のしようがなかった。俺の首に刃をつきたてたのは、かつての従業員だった。「平山社長を返せ、返せ」と叫んでいた。たしか、名前はドゥク……いや、ドクだったかもしれない。
目の前が真っ暗になった。
◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇
いやな夢だった。
首筋に痛みを感じ、思わず手でさすった。鏡を見たけれど、傷はなかった。十分寝たはずなのに、ひどく疲れていた。
「交代だから、行ってくる」
男の寝ている部屋にむかってドア越しに声をかけた。返事はない。部屋は静かでうめき声も聞こえない。ほっと胸をなでおろした。
川岸に行くと、立石さんは一服していた。
「おはようございます」
ぼくがあいさつすると、すぐにあの男の様子を聞かれた。立石さんが、ぼくより男のことが心配だったのかと思うとがっかりした。けれど、そんなことを口にして子供じみていると思われたくない。
「スープは食べました」
ぼくは言った。
「でも、夜はうなされていて、うめき声が何度も聞こえました。おかげでちっとも眠れませんでした」
ちょうど橋を渡る人がきてしまったので、ぼくは、立石さんからねぎらいの言葉ももらえないまま仕事をはじめることになった。
男が心配で、すぐに小屋へ戻るだろうと思っていた立石さんがしばらく残ってぼくの仕事を見ていたのは意外だった。
「こいつがわしのひ孫。わしに似て、いい男だろう」
真っ黒に日焼けした白髪まじりの頭の男が写真を見せてくれた。
「あっちで主人に会えるかしら」
「また恋に落ちたりしてね」
「ふふふ」と笑いながら、小花模様のワンピースのおばあさんが橋を渡って行った。
絵を描くのが趣味だという人も、むこうで野球チームに入れるかどうか聞いてくる人もいた。
切れ目なく人はやってきて、橋を渡って行く。
「渡っていいか」
ふりむくと、いつの間にここへ来たのだろう。男が立っていた。ぼくが動揺を隠せないでいると、立石さんがゆっくりとうなずいた。
「通行手形を拝見します」
声が震えた。おそるおそる男を見上げると、首筋に小さな絆創膏が一枚だけ貼られていた。大きすぎる傷は当然ちっともふさがっていない。余計に痛いんじゃないかと思った。
「これでいいか」
男が見せてくれたもの。それは、つぶれかけた箱に入った絆創膏だった。ずっと大事に持っていたのだろう。ぼくにはそれがわかった。
「仕事は続けっからな。怪我した時のためによ」
照れながら、男が言った。
「平山のおっさんにも会いてぇけどな」
「会えたらどうしますか」
橋のむこうをじっと見つめている男に、立石さんが聞いた。
「一から修行したいかな」
そう言って、男は橋を渡って行った。少しだけ猫背の、筋肉の盛り上がった男の背中が見えなくなるまで、ぼくは立石さんと並んで見送った。
「立石さんはどうしてぼくを雇ってくれたんですか」
ずっと聞いて見たかったことを、初めて聞いてみた。
「そうだな。どうしてだろうな」
立石さんはそう言って、川と同じ色の空を見上げた。
「ぼくは、自分が犯罪者だったんじゃないかって思います。無差別殺人したあげく自殺をはかったとか、違法薬物に手を出して何もかも現実がわからなくなったとか。ぼくが通行手形を持っていないのは、そういうことだと思います」
「はは。君はおもしろいことを言うね」
立石さんは笑ってとりあってくれない。
「あの男が通行手形を持っていてよかったと思います」
「ぼくは、男がうらやましいです」
今日も大勢を見送り、ぼくだけがここに残った。
川はおだやかに流れ、どんよりと曇った空を灰色がかった雲が流れていく。移ろう世界で、ぼくだけが置いてきぼりだ。




