~あなたの幸せを願う~
川が流れている。黒くうねるような川だ。川には橋がかかっていて、老若男女、大勢の人が川向うへ渡るため並んでいる。暗雲のたちこめる橋のたもとで、ぼくは川を渡る人たちの通行手形をチェックしている。それが、ぼくの仕事だ。
「通行手形を拝見します」
ぼくが言うと、たいていの人はすんなり見せてくれる。それは、写真だったり、日記だったり、洋服やぬいぐるみだったりもする。それについて、むこうから話してくる人もいれば、ぼくの方から質問をする場合もある。
「ほら、この子がひーちゃん。かわいいでしょう」
「娘が結婚して、孫が大人になって、ひ孫の顔まで見られたんだもの。わたしもそろそろだと思って」
つやのある白髪をシニヨンに結った和服のご婦人は、写真館で撮ったという家族写真を笑顔で見せてくれた。彼女を真ん中に、四世代がおさまった写真は、今にもおしゃべりが聞こえてきそうなくらいにぎやかな風景だった。
「それじゃ、行ってきますね」
ご婦人が言った。もう二度と帰らないのに、どうして「行って、きます」なのかぼくの中に小さな違和感が走る。
ていねいにお辞儀をして、ご婦人は橋を渡っていった。
強面の男は、感謝状を持っていた。
「昔はやんちゃもしたが、地元の小学校で校長までつとめあげたんだよ」
「肺炎をこじらせちゃってね」
「タバコ吸い過ぎってか、はは。年には勝てないね」
「消防団にも入っていて、ついこの間まで若い連中に混じって活動していたんだけどな」
「ちなみに、これ。その時の感謝状」
「素晴らしいですね」
ぼくが褒めると、男は自慢の筋肉を見せつけるように袖をまくり上げた。
「嫁さんには逃げられちゃったけどね」
「人生、悔いはないさ」
そう言って、男が笑う。真っ黒に灼けた肌に白い歯がキラリと光る。
「それならよかったです。では、どうぞ」
ぼくが案内すると、男は堂々とした足取りで橋を渡って行った。
こうしてぼくは与えられた仕事をこなしていく。多い日は、一日三千人以上がやってくる。立石さんとふたりでシフトをまわしているけれど、決して楽な仕事じゃない。中には通行手形を持たないで不法侵入しようとする人もいるし、ぼくだって行ったことのない橋のむこうのことを聞かれたりするのも困ってしまう。
一年前、橋の手前で倒れていたぼくを立石さんが見つけて助けてくれた。ぼくは頭に怪我をしていて、自分の名前も、どうやってここに来たのかも、それまでどんな暮らしをしていたのかも覚えていなかった。
そんな状態のぼくを橋のむこうに行かせるわけにはいかないと立石さんは考えた。それで、ぼくに川岸の番人をしないかと提案してきたのだ。ぼくの怪我が落ち着いて、髪も伸び、頭の傷も目立たなくなった頃のことだ。記憶はもどらないままだったし、行く場所も帰る場所もわからないぼくはこうして立石さんにお世話になることにした。
通行手形を確認するだけの簡単な仕事だと、たかをくくっていたら、大間違いだった。ひとりひとり持ってくる通行手形はひとつとして同じものがなく、それが確かに本人のものであるか確認するのは容易ではなかった。それに、橋を渡していいかどうか判断することも責任重大だった。
橋を渡していいのは、「覚悟ができている人」「後悔していない人」だ。少しでも渡るのをためらっていたり、やりとりで違和感を感じた場合は、たとえ通行手形を持っていたとしても絶対に通してはいけない。
そのことは、立石さんからも厳しく言われていた。もしも渡してはいけない人をむこう側へ渡してしまったら、世界は壊れる。立石さんは言った。それがどういうことなのかぼくは聞いてみたけれど、立石さんはそれ以上教えてくれなかった。ただその時の立石さんの表情がものすごい形相だったので、とにかく間違えないように仕事しなければと緊張だけがぼくの脳裏に刻まれた。
そのせいで、ぼくはつい慎重になりすぎてしまう。列がなかなか進まないので、しびれを切らした人から怒られることもたびたびだ。
「おい、早くしてくれよ」
「待っている人がいるのよ。早く行かせて」
あんまり人から怒られることばかり続くと、ぼくは落ち込み、嫌気がさして、仕事を投げ出したくなってしまう。今まで何度もやめようと思ったかしれない。けれど、仕事をやめるということは、立石さんの親切をあだで返すということだ。それに、記憶を失ったぼくには立石さんのところ以外他に行くあてもなかった。
「あせらなくていい。いつか思い出す日がくるさ」
立石さんはそう言って、ぼくの肩をたたく。
風が強くなってきた。
川のうねりが大きくなる。
持ち上げられた波が橋に届きそうだ。
その日、列の最後尾に並んでいたのは青いワンピースの女性だった。二十代か、三十代前半だろうか。橋にやってくる人たちの中では若い方だ。ゆるくカールした長い髪がゆれるたび、花のようないい香りがした。
「通行手形をお願いします」
ぼくは言った。
女性はだまっている。通行手形を持っていないのだろうか。
「名前は?」
聞くと、ようやく口をひらいた。
「日向まやです」
「いえ、本田です。本田、まやと言います」
「あの、やっぱり、日向でいいです。日向まや」
あわてた様子で、女性は一度言名乗った名字を訂正した。何か事情があるのかもしれない。
「通行手形をお願いします」
ぼくは、もう一度言った。
まやさんが、握っていた手をひらく。
一瞬で世界がぱっと明るくなって、目が眩んだぼくは思わずぎゅっと両目をつぶった。
キラキラと光を放ち、照らしているもの。それは、ダイヤの指輪だった。まやさんの手のひらで輝いている。
まやさんは、結婚の約束をしていたにちがいない。それなのに、たったひとりでここへやって来た。いったいどういうことだろう。
「一度だけ、言ってみたかったんです」
まやさんが言った。
「彼の姓で、本田まやって」
「なんだか照れますね」
そう言って、まやさんは指輪を握りしめる。辺りがまたどんよりと暗くなった。まやさんの指のあいだから、閉じ込められた光が息をするように漏れている。
「右折しようとした時に、直線でやってきた車にぶつかってしまって」
「全部わたしの不注意だったんです」
「気を失って、救急車で運ばれて、力尽きました」
その日、まやさんはいつも通り彼の家へ来るまで向かう途中だった。翌日には結婚式を控えていて、ふたりでウェルカムボードを描く約束をしていたという。
「なんで、事故に遭っちゃったんだろ」
まやさんが言った。
「なんてこと言っちゃったんだろ」
泣いているのかもしれない。肩がふるえている。けれど、まやさんはうつむいていて、表情は見えない。
ぼくはどうしたらいいのだろう。
「病院の手術室に運ばれていく時、一瞬だけチャンスがあったの」
「わたしは気失っていたけれど、その時だけ意識がもどって、彼と目が合ったの」
「その時、わたしが彼になんて言ったかわかる?」
ぼくは、首をふった。助けて、とかそういうことだろうか。
「わたし以外、誰とも結婚しないで、って。一生だよって」
驚いたけれど、まやさんの気持ちはわかる。それだけ彼のことが好きだったんだ。
「何であんなこと言っちゃったんだろう」
「縛りつけるつもりなんて、なかったのに」
まやさんは、後悔していた。
婚約指輪を握りしめ、まやさんは川の向こう岸を睨んでいた。
橋を渡してはいけないと思った。
まやさんは事故に遭ったのだから、橋を渡ってもらう必要がある。けれど、そうできない時、川岸の番人であるぼくはどうすればいいのだろう。
「このままあなたを渡らせるわけにはいきません」
声がして、ふりむくと立石さんが立っていた。いつの間に、来ていたのだろう。
「あなたが事故に遭ったことは変えられません。けれど、橋を渡る前に、あなたはやるべきことを終わらせなければなりません」
「ほんの少しだけ、時間を巻き戻します」
立石さんが祈るように手を合わせた。ぎゅんっとつむじ風が吹いたかと思うと、一瞬で風はまやさんを呑み込み、消し去っていた。
◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「まやっ、まやっ」
名前を呼ばれて目を開ける。ぼんやりと道広の顔が見えた。大きな目、しゅっとした鼻、ためらいがちな唇。それから、いつだって困ったような顔をしているㇵの字型の眉毛。
ああ、そうだ。わたしはこの人に会いに行く途中だったんだ。
「大丈夫だからな。まや、絶対に大丈夫だから」
道広はなんて馬鹿なことを言うのだろう。わたしのこと、大丈夫だなんて。わたしはとっくに大丈夫なんかじゃない。ずっとあなたのそばにいたい。けれど、川岸の番人と約束をしちゃったの。
わたし以外誰とも結婚しないで。一生だよ。
本当は言いたかった。けれど、捨てられた子猫みたいに泣き叫ぶ道広の顔を見ていたら、そんなこと言えなくなってしまった。
ああ、わたしがいなくなっても、この人がずっと幸せだといい。
そう思った。
だから、最後の力をふりしぼって、願いをこめた。
「いい人ができたら、恋愛して、ちゃんと結婚して、幸せになって」
「わたしのために、人生をあきらめたりしないで」
息が苦しい。意識が朦朧としている。ああ、きっともう時間だ。
「そんなこと言うな。まや、目を覚ませっ」
「まや、まやぁぁぁ」
道広の声がだんだん遠くなっていく。
◇◇ ◇ ◇ ◇ ◇
橋のたもとにもう一度やってきた時、まやさんはすっきりとした顔をしていた。
「通行手形を拝見します」
まやさんが、握っていた手をひらく。ダイヤモンドの煌めきが、一瞬で世界を明るく照らした。まるで手のひらに太陽を乗せているみたいだった。婚約指輪はこれから先ずっとまやさんのお守りになるのだろう。
「拝見しました」
ぼくが言うと、まやさんは指輪にチェーンを通し、ペンダントにして首にかけた。まやさんの胸で、ダイヤの粒が輝いている。まるで呼吸をしているみたいだ。
「いってらっしゃい」
ぼくが頭を下げると、まやさんは、しっかりと前を向いて歩き始めた。川の流れはおだやかだった。まやさんのまっすぐに伸びた背中が見えなくなるまで、ぼくはずっと見送っていた。