第35話 大切な人
――その日の夜は、ゆーちゃんと一緒に私のベッドの中で、眠たくなるまで延々と語り合った。
多分、彼女が話してくれたことがすべてではない。
けれど、それでもきっと、彼女がこれまで隠してきたことを、大体知ることができたのではないかと思う。
私一人のために、それだけの努力を重ねて、まるで人生を捧げるように、ずっと見守り続けてくれていたこと。
もう、それが重すぎるなんて思わなかった。
その気持ちが、ただただ純粋に嬉しくて。
彼女が今こうして目の前にいてくれること、それだけで十分幸せだった。
奇跡のような恩返し。
落合さん――いや、ゆーちゃんへの見方が変わるのは、仕方のないことだろう。
だから、私も一つだけ、決意したことを彼女に話しておこうと思った。
「東京に戻ったらさ、私――――」
私の言葉を聞いた彼女は、小さく頷いて、静かに私の決意を肯定してくれた。
これでようやく、肩の荷が下りた気がした。
言葉にして吐き出したことで、少しだけ楽になれた気がした。
すると、毛布の中からゆーちゃんの声がぽつりと漏れる。
「先輩……思ってたんですけど……私のことは、これからもずっと“ゆーちゃん”って呼ぶんですか? 正直、十年ぶりに呼ばれたから、まだちょっと慣れないというか、むず痒いというか……」
「落合さんのほうがいい? まあ、私もそっちの呼び方のほうが慣れてはいるけど」
「嫌ではないんです。だから、徐々に……慣れる感じで、呼んでほしいです」
「難しいこと言うなぁ。今の私はあなたみたいに器用じゃないんだから」
「先輩って、もともと器用でしたっけ?」
「うっ…………」
器用ではない。というか、むしろその逆だ。
キラキラしていて、最強だったあの頃は、ノリと勢いと持ち前の明るさでどうにかやれていた。
だから、家事や細かいことができなくても、特に困ることもなかったのだ。
「でも、昔の先輩なら、“ゆーちゃんって呼ぶ”って、グイグイ自分の意見を通していたと思います」
「まあ、そうかもしれないね。今はそんな風には戻れないけど……落合さんは、それでもいいの?」
「はい。私が一番仲良くなれたのは、昔の先輩じゃなくて、今の先輩ですから。――ね、詩暮ちゃんっ」
「調子に乗るな」
「あだっ」
三歳も年下の彼女に、突然「詩暮ちゃん」なんて呼ばれたせいで、私は落合さんの頭に軽くチョップを入れた。
その呼び方も悪くはないかもしれないけど、少し早い気もする。
いや、同級生の友達だって私のことを下の名前で呼んでいたのだから、普通ではあるのだけど。
でも、後輩にそう呼ばれたことは、これまで一度もなかったなぁ。
◇ ◇ ◇
「――ほら、これ持っていきなさい」
東京に戻る日がやってきた。
函館駅の改札を通る前、お母さんが私たちにお守りを渡してくれた。
「初詣に行ったって聞いたけど、お守りとか買ってないだろうって思ってね」
「お母さん、ありがとう」
「大事にしますっ」
渡されたお守りを受け取ると、私と落合さんはそれを大切にしまった。
すると、お母さんが、きっと最後にどうしても伝えたかったであろう言葉を口にした。
「詩暮、あなたが函館に帰ってこなくなってから、ずっと心配してたのよ。だから、あなたのことを想ってくれていた楪ちゃんが、私にとっては頼りだったの」
なるほど。落合さんは、お母さんにとって私の近況を知るための、唯一の情報源だったのか。
でも、私が潰れていたことは伝えていなかったらしい。
そうすれば、お母さんはきっと悲しむから。だから落合さんは、情報を取捨選択して伝えていたのだろう。
「こうして二人で帰って来てくれるなんて。まさか今だとは思わなかったけど、本当に嬉しかったのよ」
「うん……今度からは定期的に帰ってくるからさ。ほしいお土産があったら、早めに言ってね」
「そう? じゃあ家庭菜園はじめようと思うから、野菜の種ちょうだいな」
「今!? ……まあ、帰ったら調べてみるよ」
突然のお願いに驚いたものの、お母さんのしてほしいことは、できるだけ叶えてあげたいと思った。
唯一の家族である私が東京に戻れば、お母さんが寂しくないはずがない。
でも、お母さんは昔から、そういった寂しさを表に出さない人だ。
だからこそ、「元気にしてる?」とはメッセージをくれたが、「帰ってこないの?」なんて言葉は一度も口にしなかった。
私は、そんなふうに気を遣いすぎるお母さんのことが、心の底から大好きだ。
こうして帰ってこられたからこそ、その思いを再確認できた。
最後に、お母さんとハグをした。
落合さんも同じように、優しく抱きしめられていた。
「楪ちゃん。この子のこと、よろしくお願いね」
「はい! 私に任せてください! 先輩は、私が幸せにします!」
「ふふ……なら安心ね」
そうして言葉を交わし、私たちは改札を抜けて、駅のホームへと向かった。
帰りも行きと同じく、新幹線での移動。
約四時間の旅になるが、落合さんはまたしても駅弁を買い込んでいた。
「――帰省、終わっちゃいましたね」
お昼ご飯を食べた後、ほっと一息ついたタイミングで、落合さんが呟いた。
「うん……でも帰ってよかったよ。帰らなかったら、たぶんいろんなことを受け入れるのに、もっと時間がかかっていたと思うから」
落合さんの正体。
それを自分自身で思い出せたことに、意味があったと思っている。
もし、彼女から話を聞いただけなら、「そうだったんだ……」で終わっていたかもしれない。
でも、学生時代を過ごした函館の母校に、自分の足で行けたからこそ、強くあの日の記憶が蘇ったのだと思う。
「でもさ、落合さんにとっては、あの学校って嫌な思い出しかないんじゃないの?」
母校を一緒に巡ったとき、落合さんはどんな気持ちでいたのだろう。
いじめられていたことを考えれば、特に教室になんて、行きたくもなかったのではないだろうか。
「確かにそうです。良い思い出はほとんどなくて……辛い思い出の方が多かったと思います。でも……先輩に出会えた。それだけで、私はあの三年間が救われたんです」
簡単には消えることのない、辛い記憶。
私にもある。会社で過ごした辛い日々は、今でも鮮明に蘇る。
苦しくて、悔しくて、泣いても涙が乾くだけ。
頑張っても報われず、何のために生きてるんだろうなんて考えてしまっていたから。
「だからいいんです。……それに、学校に行ったおかげで先輩は思い出してくれたんですから」
「落合さんがそう思っているのなら、私も安心だけど……」
「はい……」
窓の外に広がる景色。
東北を過ぎると、白い雪の風景が次第に少なくなっていき、まるで現実に引き戻されるような気分になった。
それと同時に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
休みが明けたら、また仕事に行かなければならないんだという感情が、じわりと押し寄せてきた。
そんな私の左手が、ふいに包まれた。
心の中を察したのだろうか。落合さんが、安心させるように手をそっと重ねてくれていた。
「大丈夫ですよ。先輩には、いつまでも私がついていますから」
「……じゃあ、風邪引いちゃだめだよ。私のために、無理はしないでね」
「心配性ですね。でも、心配されるのはとっても嬉しいです。また、先輩のおかゆが食べたいですから」
「料理スキル……あげておくね」
「ふふ、期待はしないでおきます」
窓側の席に座る落合さんの髪が、冬晴れの太陽に照らされて、やわらかく光って見える。
こつんと私の肩に頭を預けた彼女は、目を閉じたまま、囁くように言った。
「――今日も、先輩のこと、大好きです……」
何度も伝えてくれる好きの言葉。
ずっと大切にしたいと思えるようになった人――落合さんはそのまま、東京駅に到着するまで、ぐっすりと眠りについた。




