第19話 新生活
それからは、めまぐるしい日々が続いた。
落合さんとの同居を承諾してしまったことから始まった、新しい家探し。
けれども、落合さんが「寝室は一つで良いですよね?」なんて調子に乗ったことを言い出したりして、なかなか真面目に考えてくれない場面も多々あった。
私はあくまで同居を承諾したのであって、同棲を承諾したわけではない。そこには大きな線引きがある。だから、たとえ一緒に住むことになったとしても、最低限のプライバシーは守られなければならない。
仕事の休憩時間や、帰宅後のわずかな時間を使って物件サイトを虱潰しに探し、土日は二人で内見を巡る。
そんな努力の末、落合さんの奮闘もあって、一週間で引っ越し先が決まり、十一月下旬――二週間後に引っ越すことが決まった。
今は、新しい家に置く家具を選ぶため、二人で家具屋さんを見て回っている。
「ソファはやっぱり三人掛けがいいですよねー。横になった時に膝枕してあげられますし、私もしてもらいたいですしっ」
「落合さん、そんなことばっかり言って。もっと実用的な理由で選びなよ」
「実用的じゃないですか! 膝枕、大事です!」
毎日するつもりなのだろうか。
たしかに落合さんの体は柔らかいけど、そういうことをいきなり始めるつもりは、私にはない。
……というか、今までそんなこと、考えたこともなかった。
だからこそ、ゆっくりと進んでいきたい。
そんなこんなで、二週間はあっという間に過ぎていった。
◇ ◇ ◇
「やぁーっと終わったぁ……!」
「疲れた……」
積み上がっていた段ボール。その最後のひとつを片付け、すべての荷解きを終えた落合さんが、満足げにため息をつく。私も、肩からどっと力が抜けて、自然と声が漏れた。
引っ越しなんて、大学を卒業して就職したとき以来、五年ぶり。
部屋が広くなったぶん、荷物も増えていて、思っていた以上に大変だった。
今回の引っ越し先は2LDK。それぞれの寝室と、共通のリビングがある。築五年でまだ新しく、駅から少し離れてはいるけれど、五十平米以上あって、かなりの広さがある。
家賃も二人で折半すれば、それほど高くはない。新しく購入したインテリアの出費を考えても、お財布事情的にはさほど痛くなかった。
――これが、二人で暮らすということなのか。
その実感が、じわじわと胸に染みていった。
「せんぱーい」
「な、なによ……」
ソファに座った落合さんが、ぽんぽんと自分の隣を叩いている。
私は一瞬戸惑ったものの、彼女の満面の笑顔に抗えず、そっと隣に座った。
「あっ……もう……」
「えへへ〜」
すると落合さんは、体を倒し、私の太ももの上に頭を乗せてきた。
近頃の彼女は、人に甘えることを覚えてきたようだ。
そして、そんな彼女の甘えを、私は嫌だと思っていない。むしろ、どこか嬉しい。
「先輩の膝の上、はじめて……心地いいです〜」
「そう、それは良かったわね」
私を見上げる彼女の視線と、頬に浮かんだ照れくさそうな笑み。
私はそのまま、指を彼女の髪に通し、動物を撫でるようにやさしく撫でてあげた。
「今日から、本当に二人一緒の生活がスタートするんですね」
「そうだね。まだ実感が湧かないよ」
「最近は常に一緒にいましたもんねー。だから、そんなに変わらないかも?」
「そういう意味で言ったんじゃないけど……まあ、いっか」
本当の意味で“実感が湧かない”というのは、二人で住むという“これから”のことだ。
朝起きても、夜寝る時も、落合さんが同じ家にいる。
いつだって、「先輩、先輩」と小動物のように駆け寄ってくる彼女が、すぐそばにいる。
まさか、家族以外の人と一緒に暮らすことになるなんて――
しかも、それが同性の相手になるなんて、想像もしていなかった。
だけど、不思議と……ワクワクしている自分がいる。
「はいっ。次は先輩ですよー」
「…………うん」
落合さんが起き上がり、今度は私の番とばかりに太ももを差し出してきた。
私は彼女の隣でそっと横になり、その太ももに頭を預ける。
「――ずっと気になっていたことがあるんです」
「なに……?」
彼女は、いつになく落ち着いた声で話しはじめた。
「私、先輩が会社で居心地が良くなるようにって、頑張ってきたつもりなんです。でもそれでも、先輩が会社に行く時、どこか顔色が優れなくて……」
セクハラもパワハラも、過重労働も、もうない。
けれど、それでもなお、私の足取りは重く、仕事への活力は戻ってこない。
「だから……無理、しなくていいんですよ?」
「どういう、こと……?」
落合さんの言葉はやさしくて、そして曖昧だった。
私が傷つかないよう、オブラートに包んで伝えてくれている。
だけどそのぶん、何を言おうとしているのか、すぐには分からなかった。
「こうして、一緒に暮らしはじめたじゃないですか」
落合さんは、私の髪にそっと指を滑らせる。
その心地よさに、瞼が重くなっていく。
「だから……これからは私が養いますから、会社……辛かったら、辞めちゃってもいいんですよ?」
――とんでもない話だった。
もし辞めてしまったら、私はニートじゃないか。完全に彼女に頼りきりになる。
それに、落合さんは転職したばかりで、まだ若い。給与だって、それほど多くはないはず。
二人の生活費をすべてまかなうなんて、現実的ではない。
「それは……難しいんじゃないかな。二人で暮らすのって、お金もかかるし……そう言ってくれるのはすごく嬉しいんだけどね」
「私、頑張りますよ。すぐ昇進したり……それに、これでもSNSの運用してて、フォロワーも結構いるんです。そっち方面でも、収入の準備できてます」
……なんだそれ。そんなにすごいの?
確かに落合さんは可愛い。
フォロワーがたくさんいても不思議じゃないけど、私にはまったく想像のつかない世界だった。
「私は、一人に負担なんてかけたくない。ご飯作ってもらったり、いろいろしてもらってるだけでも、十分なんだよ。これ以上……」
「じゃあ、少しの間だけでも、休憩するっていうのはどうですか? 心と体を休めて、元気が戻ったらまた働けばいいと思うんです。資格をとったり、今どきは家でできる仕事だってあるし」
「………………」
正直、私はもう、何度も“死にたい”と思ってしまっていた。
会社を辞めたいなんて感情では言い表せないほど、追い詰められていた。
上司の顔を見るのも嫌で、辞表すら出せずにいた。
今、会社に行けているのは――落合さんがいてくれるから。
彼女が毎日、隣を歩いてくれるから。
私は、本当に子供だ。
弱くて、壊れかけていて、甘えてばかりで――
「ぁ――――」
情けなくて、涙がこぼれた。
三つも年下の女の子に、慰められて、守られて――私は、なにをしているんだろう。
彼女のやわらかな指先が、そっと私の頬を撫で、流れた涙を掬う。
「ほら……ね? 頑張らなくてもいいんです。もっと、休んでください。先輩は、これまで一生懸命頑張ってきたんですから。自分のこと、目一杯、褒めてあげてください」
「ぁ……ぐすっ……ぅ……ぅ……」
今日から新生活。
もっと明るく、前向きに始まると思っていたのに――なんて、不甲斐ない。
「もう十二月ですよ。今日は鍋にしましょうか。先輩、私の作る鍋、好きじゃないですか」
……鍋じゃなくても、落合さんの料理なら何でも好きだ。
けれど温かい料理は、冷えきった心をそっと包み込んでくれる気がする。
「まだ四時です。少しゆっくりしたら、一緒にスーパーにでも行って食材を選びましょう」
「うん……うん…………」
腕で目を覆い、涙を拭う。
会社を辞めるかどうかは、まだ決まっていない。
だけど――彼女のやさしさに触れた私は、どこまでも、心があたたかくなっていくのだった。
――そして、その日の夕食は、涙すらふっとばすほどに辛くて熱々なチゲ鍋だった。




