第18話 決断
目を覚ますと、私と同じ布団には、浴衣を大きくはだけさせた落合さんがいた。
…………なぜ?
わざとでも、わざとじゃなくても、こういうことをしそうなのが彼女だ。
昨日、一度目を覚ましたときには、こんな状態ではなかったはずなのに。
でも、私自身もお酒を飲みすぎたせいか、その後は今の今までぐっすりと眠りこけていたようだった。
「……ん…………おはよーございます、せんぱい♡」
「うん、おはよう」
化粧をしていなくても綺麗な彼女のすっぴんを、カーテンの隙間から差し込む朝日が優しく照らしていた。
寝起きの甘ったるい声が耳元に響き、この子の彼氏になれた人は、きっと幸せだろうな……と、ふと感じた。
私は彼女をそっと押しのけて少し距離をとると、もう少しだけ眠ることにした。
起きた後は、夕食と同じく室内に運ばれてきた朝食をいただくことになった。
なんと、海鮮丼にできるような新鮮な海の幸がたっぷりと並んでいて、昨日あれだけ食べたはずなのに、朝から胃袋が強烈に刺激された。
寿司桶に山盛り入っていた白米も、ほとんど落合さんがおかわりして食べてしまった。
最近はその豪快な食べっぷりにもすっかり慣れてきたので、それくらいでは何も言わない自分がいた。
朝食を終えると、旅館を出る前に、朝風呂へ向かうことにした。
この時間帯に入る露天風呂は格別で、眠たかった目もぱっちりと覚めた。
「先輩……昨日と今日、とっても楽しかったです。あとは帰るだけですけど、家に帰るまでも旅行ですから、まだまだたくさん楽しみましょうね」
露天風呂に一緒に浸かりながら、山の景色を見つめたまま、落合さんがそんなことを言った。
「うん。私も都会から離れたからか、ずっと気持ちが軽くなった気がするよ。今回の旅行は、落合さんへのお礼ってつもりだったけど、結果的には私自身のためにもなったみたい」
「それなら私も嬉しいですっ」
「ちょっと……暑苦しいよ……」
落合さんは湯船の中で、私の右腕に絡みつくように寄りかかってきた。
朝と同じように押しのけようとしたけれど、彼女が笑っていたから、少しだけこのままでいることにした。
◇ ◇ ◇
帰りの電車。
隣同士で並んで座るロマンスカーの車内。
朝にたっぷりと寝たはずなのに、落合さんは私の右肩に頭を預けて眠っていた。
窓の外には山だけでなく、川や畑も広がっている。
季節柄、緑は少なめだけど、それでも自然があるだけで目に優しい。
都会に近づくにつれてこうした景色は減っていくけれど、残り少ないこの時間をできるだけ味わいたいと思った。
落合さんが喋らないと、本当に静かだ。
それが良いことなのか悪いことなのか、自分でもよくわからないけれど、彼女が話し出すと、内側から何かが湧いてくるように元気になっていく。
「はあ…………」
思わず、ため息が漏れた。
このため息には、いったいどんな意味があるのだろう。
けれど、それと同時に、この一ヶ月ちょっとの記憶が一気に蘇ってくる。
自分の時間すら持てないほど、仕事に忙殺される毎日。
家に帰っても、ただ寝るだけの日々。
着る服は、次第に安物の着回しがきくシンプルなものばかりになり、学生の頃、輝いていた自分の姿は、もうどこにもなかった。
同僚からのセクハラ、上司からのパワハラ、心も体も限界で、何も考えられず、誰かに助けを求める気力すら湧かなかった。
そして、衝動的に飛び込んだ線路。
楽になれる――そう思ったのに、そうさせてくれなかったのが、落合楪だった。
彼女が現れてから、社内は一変した。
私が嫌に思っていた上司や同僚が次々と辞め、仕事は随分とやりやすくなった。
それでも、仕事へ向かおうとすると心が締めつけられ、嫌な記憶が蘇る。
そんな時、私の心の拠り所になってくれたのが、落合さんだった。
彼女は、私のことを知っているらしい。
でも、私は彼女のことを、ほとんど知らない。
天使のような、母親のような、それでいて三つも年下なのに包容力があって、時には子供っぽい一面も見せる。
そんな彼女のことを、私はどう思っているのだろう。
彼女から向けられる強い好意は、もう十分すぎるほど伝わっている。
じゃなければ、女同士でキスをするなんてあり得ない。
時代は変わってきたとはいえ、それでもまだ少数派だ。
だけど彼女は、私を恋愛対象として見ている。
「…………」
少しだけ、未来を思い描いてみた。
毎日のように彼女が家にいて、美味しいご飯を作ってくれて、一緒に食卓を囲む。
一緒に出かけて、こうしてたまに旅行もして。寝食を共にするうちに、私は少しずつ笑顔を取り戻して――
いずれ彼女は指輪を差し出し、二人だけの教会でウェディングドレスを着て、何かを誓い合う……。
きっと、彼女が描いている未来は、そんな感じなんだろう。
私は……なにを考えているんだろう。
こんな未来を思い浮かべている時点で、私もそれを望んでいるということじゃないか。
『――――先輩。私たち……一緒の家で暮らしませんか?』
昨日、泥酔して朦朧とした意識の中、最後に聞こえた落合さんの言葉。
あれだけ飲んだのに、忘れていない自分がいた。
きっと落合さんは、私が覚えているとは思っていないだろう。
そして、悪くないかもしれない――そう思っている自分がいることに、私は驚いている。
未来を思い描いたのは、たぶん、そういうことだ。
だから、私は――――
「――いいよ。私でいいなら……一緒に住もっか」
眠っている彼女に向けて、そっと同居の提案に応じることにした。
でも、それは今すぐじゃない。
まだ出会って一ヶ月しか経っていない。だから、もう少し彼女を知ってからでもいい。
まともに異性と付き合ったこともない私だ。
女性となんて、未だにちゃんとは考えられていない。
だから同居も、もう少し先で――そう思っていたのに。
「――ホント、です、か…………?」
ふっと右肩が軽くなった。
「お……落合さん……起きて……!?」
彼女は瞳をうるうるさせながら、私の顔を見上げていた。
「嬉しい……嬉しい嬉しい! 今すぐ一緒に暮らしましょう! 私、すぐに二人のための良い家を探しますから! お洒落な家具なんかも一緒に探して……それで、それで……」
「ちょっと、落合さん落ち着いて! わ、私はそんな今すぐに同居しようだなんて思ってなくて……」
「いーえ、言質とりましたから! 私は決めたらもう止まりませんよ! それに今一緒に暮らそうが、あとで暮らそうが変わりません! それなら、今すぐのほうが絶対に良いです! ほら、私のご飯も毎日食べられますよー?」
落合さんは興奮しながら、矢継ぎ早に言葉を並べる。
私は手を額にあて、頭を抱えた。
確かに同居することは了承した。でも、今すぐなんて心の整理がつかない。
「わ、私たちはまだ出会って一ヶ月! だからそんな同居とか早すぎて……」
「先輩――」
急に、落合さんの口調が真剣なものへと変わった。
その迫力に圧されて、私は彼女の言葉に耳を傾けるしかなかった。
「先輩は、私みたいな人間がいることも知らずに、一度は命を捨てようとしましたよね?」
それは、あまりにズルい言い方だった。
「私がどんな想いで先輩の元に来たのかも知らずに……それなのに、あんなことをして……」
彼女がいなければ、今、私はここにいなかった。
彼女が私のことをどう思っているのか、全部はまだわからない。
でも、彼女が私を助けてくれたことだけは紛れもない事実で、今はもう死にたいとは思っていない。
「だから、だから………私は、先輩の命をもらったも同然です! 先輩は私に魂を売り渡したんです!」
ちょっと違う方向に話が向かってる気もするけど、言いたいことは、まあ……わかる。
この世にいなかったはずの私の魂を、彼女が引き止めてくれた。
つまり彼女が私の命を握っている――そんなことはないと思いたいけれど、感覚としては確かに近いかもしれない。
「もう、そういう言い方はズルいよ……」
「だから、先輩は私の言うことを聞いてくださいっ! 今回、今回だけで良いですから…………」
たぶん、この今回だけは、きっと今回だけでは終わらない。
それでも、彼女がしてくれたことを考えれば、彼女がとても優しい人間だということだけは、はっきりとわかる。
「――――」
さっきまで喜びにあふれていたその顔が、今では今にも泣き出しそうな表情になっている。
今同居するのか、後で同居するのか、それだけのことなのに……。
私は、観念した。
だって、彼女の悲しそうな顔なんて見たくないから。
私が好きなのは、彼女が天真爛漫に笑っている顔。
そういう顔が、一番似合っていると思うから――
「わかったよ……わかったから……泣かないでよ…………」
「せんぱぁい…………頭、撫でてください…………」
「はぁ……なんで、こうなっちゃったんだろ……」
私は彼女に言われるがまま、優しく頭を撫でてあげた。
すると、落合さんの表情は少しずつ和らぎ、やがていつもの笑顔が戻っていった。
こうして私は――
まだ出会って一ヶ月ほどの落合さんと、同居することを決めたのだった。




