第17話 あの日
――夢を見た。
あれは高校三年生の夏。
勉強も運動もなんでもできて、友人も多く、後輩にも尊敬されていて、あの頃の私はまさに最強だった。
梅雨の時期だが、北海道には梅雨がない。けれど、その日は雨が降っていた。
私はテニス部の部長で、最後の高体連に向けて毎日練習に励んでいた。
だが雨のせいでラケットを使った練習はできず、代わりに簡単な筋トレなどでその日を終えた。
そこは中高一貫の女子校で、中等部と高等部が隣接して建っている。
夕方、運動着から制服に着替えた私は、顧問と大会の相談をした後、一人で帰る途中だった。
「……ぐすっ……ぐすっ…………」
どこからか、嗚咽が聞こえた。
気になって周囲を見渡すと、中学と高校の境にある花壇――紫色のあじさいの茂みに、小さな背中を丸めた少女がいた。
「――君、大丈夫? 傘もささないでいたら風邪引いちゃうよ」
濡れた制服の肩越しに見えたその子の姿は、髪はボサボサで大きな眼鏡、背格好は小さいのに、全体的に丸みを帯びていた。
「だ、だれ……ですか? ……ぐすっ」
彼女が顔を上げると、泣きはらしたぐしゃぐしゃの目元が見えた。
私は部長という立場もあって、後輩を放っておけなくなった。
「あー、私は高等部の橘詩暮! 君の先輩だよ。中等部の子だよね?」
制服と見覚えのない顔から、中等部の子だとすぐにわかった。
「そ、そうですけど……」
「うん、まあ人には色々あるから何があったかは聞かないけど……家はどこ?」
「き、桔梗ですけど……」
私たちの学校は五稜郭近くにあるが、桔梗町はそこから少し離れている。
「ふむ……通学は?」
「バス、です……」
ずぶ濡れのままバスに乗せるのはさすがに気の毒だ。
そこで私は提案した。
「よし、うち行こう! シャワー浴びて制服乾かしてから帰ればいいよ。私の家、近いし!」
「えっ……えっ…………」
「ほら、タオル! 部活で使ったやつだけど、まずはこれで!」
私は強引に彼女の手を引き、学校を出た。
「おかーさーん! 後輩連れてきたけど、濡れちゃったからシャワー入るー!」
玄関先で叫ぶと、母が現れて驚いたように私を見た。
「詩暮、おかえりなさい……って、あんたまでびしょ濡れじゃない! なんのために傘持っていったのよ!」
「あはは……貸してあげたから〜!」
彼女だけが濡れてると恥ずかしいかもと考え、私は傘を貸して自分もずぶ濡れになっていた。
「ほら、洗ってあげるよ」
「あ、頭は自分で……」
「いいからいいから〜」
一緒にお風呂に入り、私は彼女の髪を丁寧に洗った。
「うーん、私の服は無理か……。ちょっとお父さんの服借りてくる!」
背が低くても体は横に大きめの彼女には、私の服は入らなかった。
既に亡くなっていた父の古着を貸すことにした。
彼女には父が亡くなったことは伝えなかった。ぎょっとするだろうし。
部屋に戻ってドライヤーで髪を乾かし、ヘアオイルやスキンケアもしてあげて――。
そして母が淹れてくれた温かいココアを一緒に飲んだ。夏だけど、雨で濡れた体を温めるにはちょうど良かった。
「君、中等部の何年生?」
「さ、三年生……です」
「へえ〜! じゃあ、私と入れ違いで高等部に来るんだね!」
「せ、先輩は三年生なんですね……」
「そうそう! あとちょっとで最後の高体連でさ! あ、応援来る? 来てよー!」
私はペラペラと喋り続けていた。
あのときの私は、自分でも知らぬ間に優越感に浸っていたのかもしれない。
だけど――
「――わ、わたし……いじめられてるんです」
しばらくすると、彼女はゆっくりと話しはじめた。
「食べるのが好きすぎて……でもやめられなくて……家のご飯も美味しくて……」
「へえ、お母さん、料理上手なんだ」
「はい……でも、太ったらデブとかブスって言われるようになって……三年生なのに友達もいなくて……高等部でもいじめられるのが怖いです……」
私は静かに聞いていた。
私には縁のなかったことだけど、別の意味でなら辛いという気持ちは少しだけわかった。
「君って、これからどうなりたい?」
私は男っぽい性格だった。だから答えを提示したがる性格だった。
「……痩せたい……です。でも……食べるのは……やめたくない、です……」
ならば、答えは一つ。
「運動、しかないよね」
「でも私……運動なんて……」
ネガティブな人はすぐ否定する。
だけど、私は彼女を見ていて一つ言いたいことがあった。
「君って丸顔だけど、パーツ整ってるし鼻も綺麗。痩せたら絶対美人になるって! ……お母さんの写真ない?」
「え……ありますけど……」
写真を見ると、確信した。
「ほら! 美人! 可愛い系だけど……若く見えるし! 痩せたら絶対お母さん似になるよ!」
「あっ、あっ…………そ、そんなに可愛いとか言わないでください……」
「いや、まだ痩せてないからね?」
ちょっとズレてるけど、彼女は少し笑った。
「よし、明日から運動! 摂取カロリー分は必ず消費する! 私忙しいからメニューだけ送るけど、さぼったらお尻叩きに行くから!」
「ふぇぇぇぇぇぇぇぇ〜〜〜〜〜!」
こうして私は、彼女の専属トレーナーになった。
なったのだが、彼女は食べる量が異常で、簡単には痩せなかった。
でも私は彼女が諦めることを諦めるくらいしつこくトレーニングを課していった。
鬼教官・橘詩暮がここに誕生したのだ。
――しかし、彼女と過ごしたのは、ほんの数ヶ月のことだった。
そのあと、彼女がどうなったのか知ることもなく、私は高校を卒業をし、そのまま大学のため上京することになった。
ほんのひとときの出来事だったからだろうか、あの日の私は、彼女との記憶を知らず知らずのうちに遠くへと追いやっていた。
◇ ◇ ◇
「……………うにゃ…………ん、ん…………」
カーテンの隙間から少しだけ月明かりだけが差し込む部屋。
「んーん…………私、寝ちゃった……?」
美味しいご飯とお酒の記憶。
夢を見たような気がするが、思い出せない。
トイレに立ち、部屋に戻ると、落合さんが隣で眠っていた。
そんな時、ふと気づいた。
「………………口の中気持ち悪い。歯、磨いてないかも」
彼女を起こさないように洗面所で歯を磨く。スッキリした。
「ん〜〜〜〜〜、寝るっ」
再び布団に潜り込んだ私は、夢の続きを探すように目を閉じた。




