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最後の晩餐

 その日のばんさんはかつてないほど盛大だった。


 あらゆる料理にあらゆる酒、巨大に細長いテーブルに、立ち並ぶ数えきれぬほどの……。


 天界の全ての天使が、神のもとへ集まった。にじ色の花の群れ咲く園、その中心に座りし神は、となりのイエスを手で示す。


「――見よ。わらわの右の座で微笑む、この美しき羽根なき乙女を」


 天界の全天使のまなざしが『御子』のイエスへそそがれる。神はたっぷりと間をおいて、高らかにこう宣言した。


「わらわは改めて皆へ告げよう。……この者こそがわらわのいと、わらわの心にかなう者。このイエス・クリス・テこそが『神の跡を継ぐ者』だ!」


『イエス様は、その任にはふさわしくない』

 ……そんな大それた意見を唱える者など、いるはずもない。それは美しい祝福の調べが、天使たちの口から()()()()とあふれこぼれてゆく。


(クリス・テか……天上の言葉で『愛されし者』という意味だ。この方のふたつ名にぴったりだ)


 喜ばしい。喜ばしいと心中で何度もおのれに言い聞かせ、ルシフェルはイエスの方をうかがった。イエスは穏やかな微笑を浮かべ、水のように涼やかに賛美の歌を聞いている。


 ……大人なのだ、この方は。

 今日の昼間にわたしに見せた、弱気なところは影もない。彼女はひとなみに傷ついて、ひとなみに弱いひとだけれども、己の感情を抑えるすべを知っている。


(それに、ひきかえ……)


 内心でため息をつきながら、対面の弟の顔を見る。ミカエルは明らかにふてくされ、イエスをきつくめつけている。目のふちは生々しく赤く腫れあがり、あきれるほどに痛々しい。


 ああ、まるで子どもだ。

 年の差はどうあれ、イエスより明らかに中身が幼い。


(わたしが、甘やかしすぎたせいかな……)


 ひそかに嘆くルシフェルに、神がみずから裂いたパンを手渡した。ルシフェルはパンをひとかけちぎり、となりの天使へ残りを渡す。ひらひらと優美な手つきで、天使から天使へと白いパンが行き渡る。そのしぐさのおしまいに、神がふいに口を開いた。


「この中に、わらわを裏切る者がある」


 心が()()割れた想いがした。

 サルシェンはこちらへはまるで目を向けず、正面を見たままで言い続ける。


「その者はわらわの裂いたパンを持つ。このパンを口にする者のうち、誰かが今夜わらわを裏切る……」


 流れていた賛美の歌が、うろたえたざわめきに変わってゆく。戸惑う天使たちの視線を浴びつつ、神は冷ややかに言いきった。


「それが誰のことを指すのか、当の本人は痛いほど知っておるはずだ」


 ――そうだ。

 わたしは痛いほど、それが誰かを知っている。


 胸もとをきつく押さえながら、ルシフェルは心の内でつぶやいた。となりにいる神の目を見る、視線はまるで交わらない。


 ……目と目を合わせてしまったら、互いの瞳に後悔を見てしまうから……?


 胸の内で想いつつ、まゆをひそめてじっとうつむく。沈んだ顔をゆるゆる上げると、対面のミカエルと目が合った。


(駄目だ。食べちゃ駄目だよ、兄さん!!)


 ひとかけでもパンを口に入れてしまえば、神の予言は真実になる。彼女は『このパンを口にする者の、誰かが裏切る』と言ったのだから。


 目で訴える弟にルシフェルは行動で答えてみせた。むしろ見せつけるように、己の口へパンのかけを押しこんだ。


(わたしは、ずるい)

 心のどこかで『その日』を先延ばししようとしていた。堕ちることならいつでも出来ると、反逆の幕開けを渋っていた。そんなわたしの心を読んで、神はこのように言われたのだ。


 ルシフェルはパンのひとかけを、砂を噛むように呑み込んだ。あとはもう何にも口に出来なくて、そっと宴席を抜け出した。


「おいおい、何だ? もう酔ってるのか?」


 むせび泣き出したミカエルに、仕事仲間のラファエルが笑いながら絡んでいた。


『神の言葉は、小さなたわむれ』……そう受け取った天使たちが、再びさらさらと歌い出す。甘い雪のような調べが、深くふかく、ルシフェルの胸を貫いた。


* * *


 ケシの花々が風に揺れる。

 涼やかな青い花に埋もれて、ルシフェルはうつろに目を開いていた。


 堕ちてしまえば、もうこの花ともさよならだ。今の内に目に灼きつけておこうと思うのに、その美しさにも精神こころは動いてくれなかった。それどころか見れば見るほど、気持ちは深く沈んでゆく。


 ――青い花。『青』と言いつつ、目に見れば透けるほど深い水色の……ああ、体の内側からこの深い色でいっぱいになり、花びらと散って消えていけたら……!


 目を閉じて芯からねがうこちらの肩に、ふいに誰かの手が触れた。ゆるゆるふり返り見てみれば、髪の触れ合うほど近く、ひとりの美天使がうやうやしげに微笑んでいる。


 瞳は熟れきったいちご色。

 ふっくりしたくちびるは、血を()()()()と塗りつけたよう。

 きゃしゃな胸もとへ垂れる巻き毛は、しどけなく酔った乙女の肌の色……。


「……ベリアルか」


 ベリアル。

 その言葉は、天界の言葉で『無価値』を意味する。ひどい名前ではあるけれど、美しいだけの彼には良く似合う。ベリアルは絡みつくような笑みを見せ、こくりと色っぽくうなずいた。


「ええ、僕ですよルシフェル様……どうなされました? うたげの初めに抜け出されるとは。お加減がよろしくないのですか?」

「どうもしない、大丈夫だ」


 ルシフェルが身をひくそぶりで起き上がる。ベリアルは、『天使の中で一番の美を誇る者』……香り立つやくを塗りつけた造花のような、いかがわしげな美しさ。


(魂がぜんであるときに、その美は初めて意味を持つのだ。こいつのような『空っぽの美しさ』には吐き気がする――)


 ルシフェルは内心で吐き捨てて、すっと相手から目をそらした。ベリアルはそれでも、ぬったりとしたつやっぽさで視界のはしでんでいる。


 ――びた笑顔だ。へつらうような。


 いつもそうだ、誰にでもそうだ。相手を選ばずまとわりつく、手あたりしだいの甘えようが、こちらにはたまらなくうっとうしい。


「ルシフェル様、ご気分が優れないのでしたら、僕がお体をみほぐしてさしあげましょうか? お体がほぐれて満たされたなら、ご気分もよろしくなるかもしれませんよ」


(ああ、うるさい――)

『放っておいてくれ』と思わず口に出そうとして、ルシフェルはふと思い直した。


(……そうだ。ベリアルは明らかにくない者だ……わたしが神を『裏切った』なら、この者はおそらくわたしに味方する。ならば、まずこの者に動いてもらおう。この天使をきっかけとして、ここからは反逆の徒としてふるまおう……)


 そう考えたルシフェルは、口もとにわざと歪んだ笑みを浮かべる。


「ベリアルよ。お前、イエスが神の跡を継ぐのに不満はないか?」

「……はい? それは、どういう……」

「イエスが神になったとして、彼女に従う気などあるのか? ()()よりも神を継ぐのにふさわしい者が、お前の目の前におるというに」


 美天使が、いやらしいいちご色の目を見開いた。……その目の内にひたひたと、奇妙な喜びが満ちてゆく。


「ベリアル、今の我の言葉をそのまま他の天使に伝えよ。この言葉にうなずく者があるのなら、今すぐに彼らをこの場へ連れて来い!」


 演技で放った命令に、ベリアルは花咲くように夜の空へと飛び去った。その後ろ姿を目で追って、ルシフェルはほの暗い吐息をついた。


「これで、よろしいのですね? かあさま……」


 誰にも届かぬつぶやきに、ケシの花がかすかに揺れた。


* * *


 ルシフェルは、自分の目が壊れたのかと疑った。


 夜空が白い。恐ろしいまでの数の天使が、ベリアルを先頭として向かってくる。夜の闇を羽根ところもで白く染め抜き、こちらに向かって飛んでくる。


「……こんなにいるのか? 神のお言葉を、のイエスを認めぬ者が、これほどまでに多いのか?」


 その数はもちろん少ない方が良い、百人もいればそれで良い。それでも多すぎるくらいだと、ルシフェルは予想していたのだ。


(なのに、何なのだこの数は! 全天使の三分の一はあろうかという、不浄な天使のこの多さは何なのだ!)


 うろたえるルシフェルの目の前に、白の塊が次々に翼をたたんで降り立った。


 ああ。ああ。

 ケシの花が踏まれてゆく。美しいものが、美しくない者たちの手にかかり、無残に殺されて消えてゆく。


「ルシフェル様、この天使たちをごらん下さい! 夜空に光る星々も青ざめるほどのこの数を! これだけ多数の天使たちが、あなた様こそ『次代の神様』にふさわしいと、芯から信じているのです!!」


 ベリアルがその細い手で天使の群れを示しつつ、つややかな声を張り上げる。


 己の嫌悪する者に、神に対する思い上がりを讃えられる――せり上がる吐き気とめまいをこらえつつ、ルシフェルは偉ぶって口を開く。


しょくん、よく集まって来てくれた! みなも知っての通り、今夜神は改めてイエスを『次代の神』とした! しかし、しかしだ! はたしてあの者に『万能の神』などが務まるか?」


 きゅっと声をしぼったとたん、観衆がぐっと身を乗り出す。恐いほどの関心に、ルシフェルはいっそ嫌気がさしつつも、そぶりも見せず両の手を大きく広げてみせる。


「ああ、イエス・クリス・テ! 見るからに非力な、美しいだけのあの乙女! あのような者より神にふさわしい大天使が、諸君らの目の前にいるはずだ!!」


 そう言って観衆に見せつけるように、ルシフェルは十二枚の翼を広げた。よこしまな天使たちがあまりの昂奮に声を上げ、てんでに拳をふり上げる。


 声高らかに『反逆の理由』を連ねつつ、ルシフェルは心の内で悶えるように泣いていた。


(ああ、そうか)

 踏みつけられて殺されたのは、青いケシの花ばかりでない。自分の心も踏みつけられて殺されたのだと、演説の終わりにやっと気がついた。


 花は天上の生き物だから、明日にも再び芽吹くだろう。けれど、わたしの心の方はどうだろう。いつか芽吹いて、花をつけてくれるだろうか。


 反逆の徒に囲まれてたたえられつつ、胸の内でつぶやいてみる。


 ――そんなことはありえないと、本当は痛いほど知っていた。


* * *


 ミカエルの胸は荒れていた。


 宴席はとうに片づけられ、今は神を中心に張りつめた空気が満ちている。ふっととなりへ目をやると、ラファエルがすみれ色の目を伏せていた。つい先ほどのはしゃぎっぷりが嘘のように、ひやり青ざめた顔をしていた。


 全天使の三分の二が集まる花園で、神はおごそかにこう告げた。


「皆みな、良いか。ルシフェルがわらわにほんを企てている。今この場におらぬのは、彼の側についた者らだ。明日にもルシフェルは戦を仕掛けてくるだろう。明日からはこの天界が、戦の場へと変わろうぞ」


 サルシェンの言葉が、ひざまずいてこうべを垂れるミカエルの耳を抜けてゆく。耳に残って響くのは、自分を誘った美天使ベリアルの言葉。


『自分の兄のルシフェルの方が、神の世継ぎにふさわしい……あなた様はそのように、お思いになっておられませんか?』


(思っている。今でも、強く)


 他ならぬ兄さんそのひとに、禁じられているけれど。あの時、ベリアルに応えていたら……ぼくはこれから先もずっと、兄さんのそばに居られたろうか?


 今さらに迷い続けるミカエルに、神が凛々しく言葉をかける。


「ミカエル。たった今から、お前には反逆した兄の代わりを務めてもらう。誇り高き炎の天使ミカエルよ、お前を『大天使長』に任じよう」

「……は」


 流れでうなずくミカエルに、神は重ねてこう告げた。


「新たな大天使長よ、お前に初の任務を命ずる。明日からの戦、ぜんなる天使の将軍となり戦を勝利へみちびくが良い」


 それは『兄さんを打ち倒して地獄へ追いやれ』ということか?


 ――思わずきつくくちびるを噛む、血の出るほどに噛みしめる。


 嫌だ……あぁあ、でも! そうなれば誰が兄さんを追い堕とす? 嫌だ、そんなの! 兄さんが弱さを装って、他の誰かに『打ち負かされて』地獄へ堕ちてゆくなんて!! そんなのは嫌だ、もっと嫌だ!!


 ぐずぐずになる胸の内、()()と絶望的な希望がひとすじ湧き上がる。


 ……ああ、そうだ。

 もしぼくが兄さんを倒したら、その武勇は『天界の語り草』になる。地獄へ堕ちて魔王となって、もう二度とは帰って来れない兄さんと、逸話の中なら一緒にいられる。


 たとえ、『永遠のかたき同士』とうたわれても――。


「この初仕事、『ルシフェルの双子の弟』のお前には辛かろう。受けてくれるか。ミカエルよ」

「……はい。このミカエル、善なる天使の軍勢を率い、必ずや味方を勝利へみちびきましょう」


 かすかにひくつき震える声で、ミカエルは神に『誓って』みせる。サルシェンは今やもう仮面のような無表情で、ひどくゆったりとうなずいた。神は舞うように細い手を揺らし、宙空から美しい一振りの剣をつむぎ出す。


 その刀身にその装い、ミカエルの愛剣とほぼたがわぬ美しさ。


 ただ、つかを彩る炎をかたどった刻印だけが違っていた。神の剣に花を添えるは、細い十字架のモチーフだった。


「ミカエル。明日からの戦には、お前の剣は使わずと良い。今わらわが創り出したこの剣のみを使うが良い」


 ミカエルは黙ったままでこうべを垂れ、その剣を押しいただいた。


 ……その一瞬、視界のすみでイエスが()()った気がした。いつもの穏やかな笑みとは違う。少しみだらで、すさんでいる笑みだった。


 ミカエルの目線に気づき、イエスはふっと真顔に戻る。自分の感情を恥じたように、静かに顔を伏せてしまう。


(やきもちだ。僕と兄さんに対しての)


 どうしてかミカエルはそう思った。でもそう感じた理由も、妹のすさんだ笑顔の故も、彼には少しも分からなかった。

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