神のあやまち
たどり着いた楽園は、さながら美しい箱庭だった。
天界の生き物の永遠性と、生の儚さをあわせ持つ、春の日の夢のような場所。
(一度目を閉じて開いたら、全て消え失せてしまいそうだ……)
内心でつぶやいたルシフェルは、神に小声で問いかける。
「……あの、母様。ここにもやはり『死』は存在するのでしょうか?」
知ったばかりの言葉の響きは、何とも舌にほろ苦い。ルシフェルは神に教わった『貝がら』の絡みで、初めて『死』という概念を覚えたのだ。
「――今はない」
神の答えは、たった一言。そうして妙に思わせぶりだ。……ひらひらと飾り布をひらめかせ、サルシェンは息子を園の中央へみちびいた。
そこには一本の林檎の木があった。いかにも甘そうな赤い実を、たわわにその身にまとっている。その木の根もとに、生き物がひとつがい眠っている。
「……まるで羽根のない、天使のようだ……」
ルシフェルはふるると羽根を震わせてつぶやいた。
彼らの肌は透き通るように白かった。ふたりは何も身にまとってはいなかった。ためらいもなくさらした裸は、穢れのなさの証明だった。
妻らしき生き物はふわふわの長い金の髪、夫の方はヒヤシンス色の短髪で、ふたり手をつなぎ眠っていた。幸せな夢を見ているのか、ふたりして同じタイミングでふっと柔らかく微笑んだ。
「……これが『人間』というものですか?」
声をひそめて訊ねると、神はふらりと苦笑する。
「そう小声になることもない。わらわがこの手でふたりを深く眠らせた。めったなことでは目覚めぬよ……」
神の返事を耳にして、ほおにあいまいな笑みが浮かぶ。ほっとしたのとがっかりしたのと、半分ずつの気持ちを胸の内でもてあます。
(ふたりの目の色を見てみたかった……しかしなぜ神様は、ふたりを眠らせたのだろう……?)
心の内でつぶやくルシフェルに向かい、神は言葉を紡いでゆく。
「このふたりは、我らと違うてひとつの性しか持たぬのだ。ふたりがそろうて初めて完全になるのだよ。この金髪の娘は『イブ』……男の方には『アダム』という名をつけた」
神はルシフェルをアダムのそばへ座らせた。自分はイブのとなりに腰を下ろし、その金髪に手をかける。
「――殺そうと思う。アダムとイブを」
耳に鉄釘をぶちこまれた、ような感覚。気持ちが見る間に凍りつき、指先ががくがくと震え出す。
『殺す』なんて言の葉は、今までに聞いたこともない。その意味すら分からないのに、心がおののき、おののき揺れる。何なんだ、なんなのだろう、その意味は?
「こ……『ころす』……?」
「死ぬ運命のないこのふたりに、わらわが死をもたらすのだ」
神は冷ややかに言葉をこぼす。
ふわふわのイブの金髪を、あまりにも優しい手つきで撫ぜながら。
「ルシフェル、お前が不浄な霧にするのと同じだ。このふたりの魂ごと、力を込めて握り潰して、全てを無くしてしまうのだ……」
右手で金髪を撫ぜながら、神は左手をイブの心臓へと伸ばす。その指先に、こまかな雷の花が咲く。ぱちぱちと爆ぜる花びらが、イブの胸もとへと迫る。
『死ぬ』。
『殺す』。
あの暗く醜い霧のように、力を込めて握り潰す……!
「――止めてください!!」
内臓を吐くような悲鳴があふれて、神が静かに手を止める。ルシフェルは肩で息をしながら、言葉をごろごろ吐き出した。
……『殺す』と言われたその相手が、自分自身であるかのように。
「いったい何故、この生き物が殺されなければならないのです! 眠る姿を眺めただけでも分かるのに……アダムとイブが、限りなく善い者であることが! どうしてこれほど美しく、善い者たちを滅ぼそうとなさるのですか!!」
生まれて初めての反抗だった。噛みつきそうに母神をぎりぎり見つめると、母は黙って見つめ返して……感情の読めない瞳のままで、やがてぽつりとつぶやいた。
「ふたりが、美しすぎるからだ」
「…………え?」
「人間が、美しすぎるから……あまりに純粋すぎるからだ。ルシフェルよ……この生き物は、わらわの失敗作なのだ」
青年天使は目を見開き、ひとつ大きくのどを鳴らした。
美しすぎるから、純粋すぎるから――殺す? 意味が分からない、何よりありえない、このふたりが『失敗作』だと?
「……ご冗談もたいがいになさい。あなたは全知全能の神でおられる。そのあなたがあやまちを犯すなど、」
「いつわらわが、己の万能を誇ったか!!」
きんとした叫びが、天使の耳をつんざいた。今は神こそが追い詰められた目つきをし、すがるようなまなざしでじっとこちらを見つめている。
……ついさっき、こんな目を見た気がする。
ああ。ああ、そうだ。さっきのイエスの目つきと、似ている……。
ぐらぐらする頭でまるでぼんやり考える、鮮やかに赤い神の口が、花咲くようにかあっと開く。
「……わらわが自ら、『我は全知全能の神』などと、口にしたことがかつてあったか……!!」
絞り出すような問いかけが、ルシフェルの胸をぎりりと抉る。
(――ない)
そんな記憶は、自分の中に見当たらない。
いくら探ってもさぐっても、記憶の欠片も浮いてはこない。
(されば、母様は万能の神ではないのか。周囲の者にただひたすらに崇められて、『全知全能』のふたつ名を、否定も出来なくなっていたのか……)
地面がいやにふわふわする。座っているのも苦しいくらい、胸にもやもや霞がかかる。
『自分の中で光り輝いていた存在』が、少し色あせてしまったようで、それでも、やっぱり愛しくて……天使が声もなくうなだれる、神はぽつぽつと語り始める。
「……そうだ、わらわは万能ではない。そうしてこのふたりは『清すぎる失敗作』なのだ。ひたすら素直に、わらわの言葉に従うだけの『聞き分けの良い家畜』同然の存在なのだ」
ルシフェルがゆるゆると顔を上げ、打ちひしがれて母を見つめる。……見返す神の両の瞳は、やっぱりイエスのあの目を思わせて。
「……人間は、このままでは天使の高みへ至れない。どこまでいっても清いだけの『聞き分けの良い家畜』のままだ」
「だから、ふたりを殺すのですか」
ささやくような問いかけに、神は黙って目を伏せる。
「アダムとイブが助かる道は、『死』の他にはないのですか」
「……ひとつだけ、ある」
神がぽつりとつぶやいた。
それと同時に、真紅のリンゴが自然とぽとり、地に落ちた。神はゆるゆるとリンゴを拾い上げ、ルシフェルの目の前にかざしてみせる。
「このリンゴは、食べれば知恵を得る『罪の実』だ。このリンゴを、ふたりが口にすれば良い」
「……罪の、実を……?」
戸惑うルシフェルへ向けて、神は言葉を重ねてゆく。
「このリンゴを口にすれば、ふたりは知恵をつけ、穢れに堕ちる。その上で、再び清い存在に戻れれば……遠い未来に、人間の魂は天使へと転生出来るのだ」
「ならば、今すぐにでも……!!」
「ふたりは食べぬよ、知恵の実を。わらわが堅く禁じたからな」
息子の言葉を封じておいて、神が歪んだ笑みを浮かべる。それはまるで自らを嘲るような笑みだった。
「『ふたりが進んで禁を破ってくれるか』と、わらわはひそかに期待して、実を食うことを禁じたのだ。アダムとイブの純真さを、あまりに軽く見ていたのだよ……今やふたりは『罪の実』に手さえ触れようとしないのだ」
そう吐き捨てる神の姿が、哀れなくらいに小さく見える。誰にも弱音を吐けなかった『全能神』は、流れぬ涙の代わりのように、荒れた口調で言い重ねる。
「彼らは愚かしいまでに素直だ。かつて禁じられたことは、ふたりにとっては絶対だ……『だって神様、この実を食べれば死ぬのでしょう?』……ふたりはそう言い張って、実を食おうとはせんだろう」
「……わたしが言えば? 禁忌を定めたあなたではなく、天使であるわたしが言葉をつくして誘ったならば、彼らは食べるかもしれません」
言った瞬間、神の表情がぐしゃりと歪む。握った紙くずみたいに歪んだ顔をリンゴの陰に隠しつつ、母神は再び口を開く。
「この口で一度『罪』と定めたものは、何をどうしても『罪』なのだ。……わらわを生み出した混沌には、はかり知れない力がある。こうなった以上、わらわが口先だけでつじつまを合わそうとすることを、混沌にあふれる力は赦さない」
リンゴのふちから、神の瞳がかすかにのぞく。美しい切れ長の目もとは、リンゴにも負けぬほど赤くあかく色づいている。
「……罪は罪、罰は罰。この実を口にしたならば、ふたりに『寿命』という名の死の運命がふりかかる。もうこの楽園にもいられない。遠い未来の幸せのため、アダムとイブと彼らの子孫は、言い知れぬ苦難を背負うはめになる……」
艶やかな赤い果実に、サルシェンの爪が食い込んでゆく。赤い皮の向こう、白い果肉が清らかな傷となって現れる。
その白が綺麗だと思いつつ、何も言えない、何も聞けない。
「そうして、ふたりが罪を知り、罰を受けることで……一部の天使も不幸を味わうはめになる」
「……どうして?」
舌足らずな問いかけが、ようやくのどを通ってこぼれる。……リンゴの肌に、神の爪が深くふかく食い込んでゆく。
「天使たちが、人間のために地獄に堕ちねばならないからだ」
「…………じごく?」
「ああ。罪を知った人間たちの中から、いつか必ず『罪深き者』が現れる。犯し、壊し、殺すことを何よりの快楽とする者が……」
神の言葉に、ルシフェルはゆっくりとまばたいた。
そんな魂が生まれるなど、とてもとても信じられない。けれど母様が仰るのだから、それは本当のことなのだろう。
サルシェンは凍えた吐息のように、続く言葉を吐き出した。
「そのような者たちは、死後も清い場所には行き着けぬ。罪深き者は死して後、地の底で永い罰を受けねばならぬ」
「……その罰の舞台が、『地獄』という場所なのですか?」
かすれた声でしぼり出すように問いかける。神はうなずき、えずくそぶりで言葉を吐いた。
「遠い未来、人間は『最後の審判』を受ける。善人は天使に転生し、悪人は永久の罰を受ける。それまでの悪人たちの牢獄、審判で悪とされた魂の永遠の檻……それが、地獄だ……」
(気を失ってしまいたい)
ルシフェルは、心のすみで思わず知らずつぶやいた。
(今耳にした『地獄』とは、どれだけ悲惨な場所なのか。もしわたしが人間に罪を教えたら、人間の子孫のいくらかは、そのためにそこで永いながい時を過ごさねばならぬのだ)
今人間の始祖が殺されて、ここで命を終えるのと。
永いながい悲しみと苦しみの末の末、多くの魂が天使の高みに至るのと。いったい、どちらが幸せなのだろう――?
脳の溶けるほど考える、まるで答えには行きつけない。そんな苦悩に追い打ちをかけ、神は言葉を叩きつける。
「その地獄を管理する者が必要なのだ。管理する者たちの長、『魔王』という存在も……だが、誰ひとりそんな役は望むまい! 住み良い天界を離れ、暗黒の世界に往こうとする物好きなぞ、天使の内には誰もおるまい!!」
破れかぶれに首をふり立てた『母なる神』が、潤んだ声でつぶやいた。
「……ましてや、その長たる魔王になろうとする者なぞ、誰ひとり……」
神のうめくようなつぶやきに、穏やかな風の音がかぶる。ほがらかな小鳥のさえずりが、ふたりの耳を他人事のように流れていく。
神もルシフェルも、言葉を忘れたかのごとく、長いこと口をきかなかった。ただただ小鳥の歌だけが、楽しげにちりちりと耳をすべって流れていった。……