最後の祈り
地上での最後の夜が来た。
十一人の弟子たちは、全員眠りについている。イエスは弟子たちの元を離れ、神へ『祈り』を捧げるために、ひとり岩山へ登り始めた。やがて頂上についたイエスは、下を見下ろして息を吐く。
――よし。ここならどれだけ声を出しても、弟子たちには聞こえなかろう。
軽くくちびるを噛んだイエスは、天を仰いでつぶやいた。
「母なる神よ。……自分はあなたを怨みます」
明けゆく空を睨みつける瞳には、暗い炎が燃えている。イエスは血を吐くような思いで『祈り』の言葉を吐いてゆく。
「神よ。自分は以前、『妹が欲しい』とあなたへ乞いました。ルシファーとミカエルは自分の兄です……けれど双子の兄たちは、自分を愛してはくれません」
ぐるぐるぐるぐる、体じゅうを熱が奔る。身の内が全部熱した泥になり、それを嘔吐するような気持ちで、煮えた言葉を吐いてゆく。
「自分は、妹が欲しかった。兄たちからは得られぬ愛を、そこから得ようと思ったのです。そうしてあなたは、自分にユダをくださいました……『大罪人』のユダをです!」
内臓が口から噴き出んばかりの勢いで、言葉がだくだくほとばしる。止められない、止める気もない、神を責めずにいられない。
「神よ、自分は言ったはずだ、『真の妹でなくて良い』と! だがあなたは『真の妹をやろう』と言った、『初めは人の子として創り、試練を授け、永いながい苦難の後に神の子としよう』と! なぜそんな酷いことをなさる、なぜ初めから神の子としてお創りにならぬのだ!」
のどが灼けつく、目の裏が爆ぜるほど熱くなる、塩辛いものが目から噴き出す。弔いの香油の香りが、なお燃えるように鼻につく。
「あなたのすることは酷すぎる! 『知恵の実の罪』を償う手段も、ユダに対するこの仕打ちも、ローマ帝国の支配下にあるこの地、この砂漠の民の現状も! あまりな現実にがんじがらめ、この自分には磔刑になって死ぬ道しかない!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、イエスは神を罵った。
少しでも神の機嫌を損ねるようなことを言えば、とたんに激しい雨が降り出す。恐ろしいほど天は乱れ、大いなる雷が地にくだる。
だが岩山で必死に『最後の祈り』をしても、まるで天候は変わらない。『今の話は欠片も耳に届いていない』とでも言いたげに――。
「ああ、何もかも分かっている! あなたはご自分のこさえる『芝居』を、面白くしたいだけなのだ! 神の子どもたち、末の子ユダ、あなたの『役者』が血の涙を流して『演技』をするのを、脚本家として、監督として、客席の一番上等な席からご覧になりたいだけなのだ!」
夜がしらしらと明けてゆく。空は赤く美しく、その雄大さはちっぽけな自分を嘲笑っているようだった。イエスはむせび泣きながら朝日へ指を突きつける。
「神など呪われよ、その栄光は地に堕ちよ! 万能を偽る『母なる神』は邪神の王だ! 自らが創りしものの生血にまみれた、呪うべき邪神の王なのだ!」
初めてだった。地上から天界までの距離のへだたりがあるにせよ……己の母に、思いの丈をぶちまけたのは、真実これが初めてだった。
「……どうして、何も言わぬのだ……『お前の妹を救ってやろう』と、『ユダへの試練をやめにしよう』と、どうして言ってくれぬのだ……!」
涙でぐちゃぐちゃの視界の中、がっくり岩場にくずおれる。突きつけた指をしなだれるように引っ込めて、胸の前で手を組んだ。
……嘘のように、体から熱が引いてゆく。溜め続けた想いをありったけ吐き出した今、身の内に残っているのは、はかり知れない悲しみだった。
芯からの怒りは、全て天へと訴えた。けれど運命は変わらない。変える気がないのが、神の思し召しならば――、
祈るしかない。あとはもう祈るしか。それしか知らなかった、愛しいユダと出逢うまで……だから祈る。ひしと手を握り、ひたすら祈る。
「……母なる神よ、どうか、どうかユダが、試練に耐え抜いてくれますよう……最後の審判の来る時まで、魂まですりきれて消えてしまいませんよう……」
彼女は地獄で、さぞ重い『罰』を受けるだろう。その清らな魂さえも、さんざんに責め立てられて痛めつけられてしまうだろう。
――それでも、どうか。
「どうか、彼女が『神の子』となるその時まで、魂そのものが滅してしまいませんように……」
絞り出すような言の葉が、桃色のくちびるを伝う。
ユダで頭がいっぱいだった。みずからの死を前にして、ユダだけで頭がいっぱいだった。
後はもう言葉にもならず、命をかけた祈りを終えて……神の御子は別人のように穏やかなしぐさで涙を拭い、白くすらりと岩山の頂上に立ち上がる。
「――時が来た」
ひとりつぶやくその声音には、もう怒りも絶望もない。ただ御子としての静かな威厳が、白いほおへ浮いていた。




