事の起こり
この話はこことよく似た、違う世界の物語。
異世界の神話、夢のような……幻のような物語。
プロローグ・事の起こり
――目がさめた時、あたりは一面の闇だった。視界はぬったり、黒一色。ぬるりと闇がまといつく。裸の体にまといつく。
生ぬるい闇、闇、やみ……ただそれだけの空間に、自分がぽつんといるだけだ。あたりをいくら見回しても、ただ暗いだけで何もない。
(……ここはどこだ?)
心の内でつぶやきながら、己の体を見つめてみる。
細い手足に、豊かな乳房……下半身から生えている、少しよけいに思えるもの。真っ白な羽根が何枚も、華奢な背中を飾っている。
――ああ、生まれたばかりなんだ。きっと、自分は生まれたばかり。だって自分の中には何も『思い出』というものが見当たらない。
「……わらわは誰だ?」
初めて発したその声は、びっくりするほど美しく……だが返事はない。誰も問いには答えてくれない。あたりの闇にはもやもやとおぼろな力が満ちて、うごめいている気配がする。
(ああ、きっとあの力が寄り集まって形になって、自然と自分が生まれたのだ)
そう考えた魂は、ひとりぽつりとつぶやいた。
「……してみると、わらわは『神』というものか?」
神。かみ……生まれて初めて言う言葉だが、それでもその意味はありありと、魂に沁みて納得がいく。
何ひとつ存在しない世界に、初めて生まれた『形ある意思』。これが神でなくてなんだろう――。その考えに入り混じり、あるフレーズが頭に浮かぶ。
(サルシェン=サイビス)
そうか、これがわらわの名なのだ。ここにはわらわしかいない、浮かんだ言葉が他の誰かの名であるはずは……、
――そう思った瞬間に、まつ毛の先まで凍りつくような思いがした。
誰もいない。何もない。自分はひとりだ、独りぼっちだ――!
「……さみしい、淋しい……っ!!」
創らねば、何か、誰かを創らねば……!
そうだ、夫だ、夫がほしい! 孤独を埋めてくれる、愛しい相手……!
「…………っ」
息をつめて、大きく吐いて。
「……分からない……っ」
初めての泣き声がのどから洩れる、塩辛いものが目からあふれる。
ああ、神なのに。自分はきっと神なのに。自分のとなりにいてくれるべき、愛しい存在が描けない……。
「……そうか。わらわは、『万能』ではないのだな……」
自分の夫を創るどころか、想像することも出来やしない。出来損ないの、神なんだ……。
胸の内でつぶやくと、どろりとした何かが腹の中からせりあがり、生まれたばかりで消えてしまいたくなった。
嫌だ、闇に独りぼっちは嫌だ。夫でなくとも構わない、せめて何かを生み出したい――。そんな願いが、水の湧くように言葉となってあふれ出る。
「――光あれ!」
祈りにも似た言の葉に、闇の中から『光』が生まれた。光は闇を白くして、そこだけが希望さながらに輝いた。
……涙の流れた神のほおに、生まれて初めての微笑が浮かぶ。光にみちびかれるように、神は再び口を開く。
「――光の中から、炎あれ!」
ぼうっと光がふたつに分かれ、そのひとつから『炎』が生まれた。炎は白い光のそばで赤く激しく燃え盛り、ちろちろと闇を熱い舌で舐めている。
生まれた光と炎の中に、何だか何かいるようだ……そうっと上からのぞき込み、びくりと思わず身が引ける。
子どもだ。光と炎それぞれに、幼子がふたり眠っている……! 神はそろそろと身を近づけ、おっかなびっくりのぞき込む。
――美しい。不思議なことには、幼子たちはふたりともまるきり同じ顔立ちだ。同じ姿の幼子たちは、ふっくらした互いの手をしっかりと握り合っている。
「……うらやましいな。生まれてすぐに、対になる相手がいるとはな」
きっと自分の淋しさが、最初の子どもをこんな形に生んだのだろう。
「……よし。お前たちのようなふたりを『対の子』と……『双子』と名づけよう」
サルシェンがふたりを見つめつつ、とろけるような声音で告げた。
(わらわと同じ孤独など、この子らは味わうことはないだろう)
そう思うと、自然とほおが緩んでくる。
……まるきり同じ顔のふたりは、よく見るとわずかに違うところがあった。
どちらも頭上に光る輪があり、背中には羽根が生えている。だが炎の子の羽根の数は、光の子よりずっと少なく……光の子はただただ清いばかりだが、炎の子には淡いあわい穢れを感じる。
(そうか。わらわは知らぬ間に『最高に美しい存在』を創造しようと思ったのか)
おそらく『光の子』は闇の中にうごめく力の、清いものばかり使って生まれた。そうして漉しきれなかったにごりが、ほんのちょっぴり『炎の子』の内に凝んだのだろう。
(だが、何にせよふたりとも、わらわの愛しい子どもたちだ)
神は小さくうなずいて、光の子を指して柔らかな声でこう告げる。
「……お前の名はルシフェル。『神に祝福されし光』、神の長子のルシフェルだ」
ルシフェルは黄金の髪を揺らし、あくびをしてから目を開いた。まつげの彩る大きな瞳は、輝くような金色だ。
ルシフェルは母なる神に向かい、体ぜんぶで笑いかける。
母さん。かあさん……、
ルシフェルの笑顔はそう呼びかけてくるようで、目の裏がじゅうっと熱くなる。幼子のひたいを、指先でそうっと撫でてみる。その手をあったかい指でひしとつかまれて……、
涙があふれて、ほおを伝う。だがその涙はさっき流したものより、もっとあたたかいように思えた。
「……可愛いな……」
甘い声でそっとつぶやき、サルシェンは次に炎の子を指さした。
「……お前の名は、ミカエル。『神に祝福されし炎』、ルシフェルの弟のミカエルだ」
ミカエルは兄の真似をするようにあくびをし、綺麗な金色の目を開く。だが、彼はすぐに母なる神から目をそらした。
(にいさん。にいさん)
開いては閉じるぷっくりしたくちびるは、声なしでそう唱えている。ミカエルは熱っぽく兄を見つめ、兄とつないだ左手に幼い力を込めて、何度もなんども握っている。
「ふ……そうか。お前はわらわよりルシフェルが好きか」
そうつぶやくと淋しくなった。だがその淋しさは、ついさっきまでの孤独よりもずっと優しいものだった。
神はまた、ミカエルの右手も柔い手つきで握りしめる。ミカエルよりルシフェルの方とつないだ手が、いくらかよけいに心地良かった。
こうして世界は始まった。
己の創りたもうた世界がどれだけ歪んでいくものか――。
母なる神は、知るよしもない。