事の起こり
ただただ目に染みる暗闇の中、たったひとりの自分がいた。
何にも覚えていやしない、自分の名前も分からない。生ぬるい闇、闇、やみ……ただそれだけの空間に、ひとりぽつんといるだけだ。あたりをいくら見回しても、ただ暗いだけで何もない。
(……ここはどこだ?)
心の内でぽつりつぶやく。他に何にも見るものがないから、自分の体を見つめてみる。
細い手足に、豊かな乳房……下半身から生えている『何だかよけいだ』と思えるもの。真っ白な羽が何枚も、華奢な背中を飾っている。己の体つきにすら、まるで親しみが持てなくて……、
――ああ、生まれたばかりなんだ。きっと、自分は生まれたばかり。だって自分の中には何も『思い出』というものが見当たらない。だから心がまっさらなんだ。
「わらわは、誰だ?」
自分でじぶんの声に驚き、思わずのどに手を触れる。美しい声だ……だが返事はない。誰ひとり問いには答えてくれない。あたりの闇にはもやもやとおぼろな力が満ち、うごめいている気配がする。
ああ、そうか。きっとあの力が寄り集まって形になって、自然と自分が生まれたのだ……そう考えた魂は、ひとりぽつりとつぶやいた。
「……してみると、わらわは『神』というものか?」
神。かみ……生まれて初めて言う言葉だが、それでもその意味はありありと、魂に沁みて納得がいく。
何ひとつ存在しない世界に、初めて生まれた『形ある意思』。これが神でなくてなんだろう――。その考えに入り混じり、あるフレーズが頭に浮かぶ。
(サルシェン=サイビス)
そうか、これがわらわの名なのだ。ここにはわらわしかいない、浮かんだ言葉が他の誰かの名であるはずは――そう思った瞬間に、まつ毛の先まで凍りつくような思いがした。
誰もいない。何もない。自分はひとりだ、たった独りだ!
吐き気のするほど淋しくなる、のどがきゅうっと詰まってくる――創らねば、何か、誰かを創らねば! そうだ、夫だ、夫がほしい!
……現れよ、孤独を埋めてくれるひと、自分にとっての愛しい相手……!
考えて、考えて、かんがえたけど……目の前に誰ひとり現れない。想像も出来やしないのだ、己の夫というものが。のどにくしゃくしゃ想いが詰まる、塩辛いものが目からあふれる。
ああ、神なのに。自分はきっと神なのに。自分のとなりにいてくれるべき、愛しい存在が描けない……。
「そうか……わらわは、『万能』ではないのだな……」
自分の夫すら創れない、想像することも出来やしない。神の出来損ない……内心でそうつぶやくと、どろりとした気持ちになった。生まれたばかりで消えてしまいたくなってくる。
嫌だ、闇に独りぼっちは嫌だ。夫でなくとも構わない、せめて何かを生み出したい――。そんな願いが、水の湧くように言葉となってあふれ出る。
「光あれ!」
祈りにも似た言の葉に、闇の中から『光』が生まれた。光は闇を白くして、そこだけが希望さながらに輝いた。
ああ、明るい……心持ちまで照らされて、塩辛く濡れたほおに生まれて初めての微笑が浮かぶ。光にみちびかれるように、神は再び口を開く。
「光の中から、炎あれ!」
ぼうっと光がふたつに分かれ、そのひとつから『炎』が生まれた。炎は白い光のそばで赤く激しく燃え盛り、ちろちろと闇を熱い舌で舐めている。
生まれた光と炎の中に、何だか何かいるようだ……そうっと上からのぞき込み、びくりと思わず身が引ける。
「……こ、子ども……!?」
確かに子どもだ、赤ちゃんだ。光と炎にひとりずつ、ふたりしてすやすや眠っている……! 思いもよらない創造に、神はそろそろ身を近づけ、おっかなびっくりのぞき込む。
――美しい。不思議なことには、赤ちゃんたちはそっくりだ。見分けのつかないくらいのふたりは、ふっくらした互いの手をしっかりと握り合っている。
「……『ふたりでひとつ』というわけか。うらやましいな……そうだ、お前たちのようなふたりを、双子と名づけよう……」
良いことだ。わらわと同じ孤独など、きっとこの子らは永遠に知らず、いつでもふたりで過ごすだろう……そう思うと、自然とほおが緩んでくる。
……まるきり同じ顔のふたりは、よく見るとわずかに違うところがあった。
どちらも頭上に光る輪があり、背中に羽が生えている。だが炎の子の羽の数は、光の子よりずっと少なく……光の子はひたすら清らで、炎の子にはほんのわずかな穢れを感じる。
(そうか。わらわは知らぬ間に『最高に美しい存在』を創造しようと思ったのか)
おそらく『光の子』は闇の中に満ちる力の、清いものだけ使って生まれた。そうして消しきれなかったにごりが、なごりのように『炎の子』の内に沈んだ……。
だが、そんなことは良いのだ。ふたりともわらわの子ども、わらわの愛しい双子たちだ……神は小さくうなずいて、光の子を指して柔らかな声でこう告げる。
「お前の名は、ルシフェル。『神に祝福されし光』、神の長子のルシフェルだ」
ルシフェルは黄金の髪を揺らし、あくびをしてから目を開いた。まつげの彩る大きな瞳は、輝くような金色だ。ルシフェルは母なる神に向かい、体ぜんぶで笑いかける。
母さん。かあさん……!
ルシフェルの笑顔はそう呼びかけてくるようで、目の裏がじゅうっと熱くなる。幼子のひたいを、指先でそうっと撫でてみる。その手をあったかい指でひしとつかまれて……、
涙があふれて、ほおを伝う。だがその涙はさっき流したものより、もっとあたたかいように思えた。
「……可愛いな……」
甘い声でそっとつぶやき、サルシェンは次に炎の子を指さした。
「お前の名は、ミカエル。『神に祝福されし炎』、ルシフェルの弟のミカエルだ」
ミカエルも兄そっくりのあくびをし、綺麗な金色の目を開く。だがすぐにこちらから目をそらし、兄を熱っぽく見つめだす。
(にいさん。にいさん)
開いては閉じるぷっくりしたくちびるは、声なしでそう唱えている。ミカエルの瞳いっぱいに、ルシフェルしか映っていない。
「ふ……そうか。お前はわらわよりルシフェルが好きか……」
そうつぶやくと淋しくなった。だがその淋しさは、ついさっきまでの孤独よりもずっと優しいものだった。
神はまた、ミカエルの右手も柔い手つきで握りしめる。ミカエルよりルシフェルの方とつないだ手が、いくらかよけいに心地良かった。
こうして世界は始まった。
己の創りたもうた世界がどれだけ歪んでいくものか――。
母なる神は、知るよしもない。




