イエスとユダ
『時は満ちた』。
神が放ったその一言で、受難の人生が始まった。イエスは人の世に人の子として生を受け、二十歳になった年から各地で『布教』を始めた。
布教を始めてほどなくして、十一人の直弟子が出来た。
イエス・クリス・テの信奉者も、飢饉時のいなごのごとく増えていった。
『イエスは神の子、奇跡の子。
そのしなやかな手で触れる、それだけでいかなる病も癒される。
イエスは神の子、奇跡の子。
悪魔に憑かれた者でさえ「悪魔よ、去れ」のたった一言で癒される。
イエスは美なるユダヤ人の王、救世主。
イエス・クリス・テそのお方こそ、我らを憎きローマ帝国の弾圧から、救ってくださる偉大なお方!』
……いつからかそんな戯言めいた歌が、ユダヤ人の間に歌われるようになっていた。
イエスは今、幼いころから住んでいたナザレを遠く離れ、カリオテという地方で布教している。
『汝の敵を愛せよ』。
『右のほおを打たれたら、左のほおも差し出しなさい』。
そんな適当な聖愛の言葉をふりまきながら、まるきりからからに乾いた心地で、己の信奉者を見やる。
――分かっている。
周りを取り囲むこの者たちは、イエスの言葉など聞いてはいない。
この者たちは、病を癒してほしいだけ。
身の内に巣食う悪魔を、払ってほしいだけ。
ローマ帝国に弾圧されている現状を、打ち破ってほしいだけ……。
(けれども、それもしょうがない)
内心でぽつりつぶやいて、イエスは天界でよく浮かべた、あのあいまいな微笑を浮かべる。
自分の言葉は嘘なのだから。
聖愛など、このイエス本人も理解出来ていないのだから。
当然だ。誰からも真実愛されたことのない者が、万人への愛など示せるはずもない。
天界での双子の兄も、自分を愛してはくれなかった。
長兄ルシフェルは堕天前、自分に穏やかに接してくれた。けれどそれは、世間的なお付き合いていどのものだった。次兄ミカエルに至っては、一度は自分を殺そうとまでした。
……ああ、天界で幼いころに、ほんのわずかなあいだ、ミカエルの向けてくれた優しさが、どれだけ自分は恋しかったか。こちらの頭を撫でてくれた、兄の優しい手のひらが、どれだけ自分は愛しかったか。
――やめよう、全ては遠い昔のことだ。彼はもう、自分を憎むことしかしてくれない。
そうして母なる神さえも、このイエスを『芝居の演者』『ただの駒』としか見ていない。そんな自分が、聖愛などを解せるわけが……、
(ああ、違うか。この世の母のマリア様は、ちゃんとイエスを『愛して』くれた)
皮肉混じりに考えつつ、イエスは黙って歩み続ける。十一人の直弟子と、多くの信者に取り囲まれ、自分を敬ういつもの歌を熱狂的に歌われながら。
そう、聖女マリアはちゃんと自分を『愛して』くれた。
『この子は私の子なのだ』と。
『愛しい愛しい私の子ども。少し特殊な能力を天から授かってしまっただけの、単なる子ども。他の誰の子でもない、神の子でもない、私の愛しいいとしい子ども』だと。
うっとうしかった。
わずらわしかった。
天界での記憶を持っている『神の子』に、人間の母の独りよがりな愛など、束縛にしかならなかった。
(だってそうだろう? 自分には天に真実の母がいるのに、どうして借り腹の母を愛せよう)
――たとえその『真実の母』が、自分を愛してくれなくとも……。
ぐるぐるぐるぐる、穏やかに微笑むイエスの内に黒々とした思いがめぐる。熱狂する群集を眺めつつ、内心でこう吐き捨てる。
今こそはっきり言っておく。
救世主イエスは、お前らのことなどどうでも良いのだ。
原罪の浄化? 聖なる生贄? そんな役目はどうでも良いのだ。自分は、イエスは、ただひとりに逢うために、この世に生まれ落ちたのだ。
ユダ。
その名の女、自分の妹とめぐり逢うためだけに――。
「他のことなど知るものか」
思わず知らず、本心がくちびるからこぼれ出る。となりで歩む弟子のひとりが、びっくりしたようにまばたいた。
「……イエス様、どうなさいました?」
「いや、何でもない」
にっこり笑ってみせた瞬間、ほおをぽつっとしずくが打った。
ぽつ。ぽつ。
降り出した雨はみるみる激しくなって、矢のごとく荒野に降りそそぐ。慌てふためく群衆の中で、イエスはひとり冷めた目をして『天からの滝』に撃たれていた。
(ああ、まただ)
自分が何か、母なる神の気に障るようなことを考える。聞こえるか聞こえないかの声で、何か一言つぶやくと……とたんにこうして天気が荒れる。
本来なら、この地方は全体に雨が少ない気候。なのに自分が生まれてこのかた、豪雨の日が異常なほどに増えている。ああ、これが『救世主イエスへの、天からの荒い祝福』という訳か……お笑いだ。
心の内で吐き捨てたとたん、雨は倍増しに勢いを増す。
「イエス様! 早くどこか、雨をしのげる所へまいりましょう!」
逃げ惑いながら叫ぶ信者へ、黙って微笑って首を振る。
(少しだけ反抗的になっている)
散りぢりに走り去る群集を見ながら、心中でぽつりつぶやいた。
……自分が神に対してすさんだ思いを抱くようになったのは、いつからだろう。いや、ちゃんと分かっている。『ユダ』という名を耳に染ませた時からだ。
イエスはふうっと遠い目をして、ばらばらに逃げ去る群衆を見つめた。見つめながら、生贄になる運命を思った。
きっと自分が罪人として捕らわれる時も。周りの弟子と信者たちは、こうして逃げ去ってゆくのだろう。
(ひとりだな。自分は、どうしようもなくひとりだ)
天界にいた時と同じことを、人間界でもしみじみ思う。
この想いを癒してくれるその人を……。他ならぬ自分の救い主、ユダという名の女を、イエスは死ぬほど求めていた。
* * *
(雨だ……)
墓場の中で、女はひとりつぶやいた。
大岩に長年の風が吹きつけ、抉り抜いた天然自然の洞窟が、この地方の一般的な墓場である。その墓場を隠れ家として、女はカリオテに住んでいた。
「あめ、雨、びちゃ、びちゃ……ぴちゃ、ぴちゃちゃ……」
女は馬鹿か阿呆のように、たわいない歌を口ずさむ。むき出しに並ぶ棺のひとつを椅子がわりに、ひとりっきりで歌を歌う。
ふいに女が歌をやめ、怯えた様子で顔を上げた。人の声と、水をはねかす音がする。
(――隠れなきゃ。隠れなきゃ! 見つかったら犯される!)
棺の影に身をひそめ、息をつめて様子をうかがう。若い男どもがふたり、ぎゃあぎゃあ言いながら隠れ家の中に飛び込んできた。
「いやあ、急にひどい降りだな! これ見ろよ、下着の中までびしゃびしゃだ!」
「よせよ、そんなもん見たくもねえや!」
(雨やどりか……)
男ふたりのやりとりに、頭の中でため息をつく。
やだな。早く雨がやめばいいのに。
そんで、ふたりともとっとと出てってくれればいいのに。
……内心で毒づく女の耳に、男たちの声が響く。
「いやあ! しかしさ、すげえ美人だったな! 何だっけ、何て名前だっけか?」
「ややこしい名だよな、確か……『イエス・クリス・テ』? だっけ?」
「救世主だってよ、たいがい頭イカれてるよな! しかも女だぜ、女。あの細腕でローマ帝国潰す気なのかよ? せっかくの美人、見た目を生かして娼婦にでもなりゃ良いのによ!」
(救世主?)
聴こえた言葉に、ひとりひっそり首をかしげる。
イエス・クリス・テ……。女の人なの? 美人なんだ……。見た目じゃなくて、その人の中身が知りたいな。いったいどんな人だろう……?
耳をすませる女の耳に、男たちの声が響く。
「いやいや、さすがにその言い草はねえだろう! そんな台詞、信者たちの耳に入っちゃただじゃ済まないぜ?」
「ビクビクすんな、オレたちの他にゃあ誰もいねえよ、こんな墓場に!」
「いや、まあそりゃそうだけどさ、万が一ってこともあるし……」
口ごもった男の方が、仕切り直しに言葉を吐いた。
「いや、でもイエスって方は、実際たいしたお方らしいじゃねえか。どんな病人も触れるだけで治しちまうし、悪魔憑きも『悪魔よ、去れ!』の一言でぽーんと治っちまうって話だぜ?」
「関係ねーよ、オレたちゃ病人でもねえし、悪魔憑きでもねぇんだから。ま、信者になったら抱かせてくれるってんなら、話は別だがな!」
下卑た男の笑い声を聞きながら、気持ちがすっと波の引くように冷めてゆく。
……ふうん。
じゃあおれには関係ないや。だっておれは、『悪魔の子』だから。
少し輝いた女の瞳が、またぼんやりと霞んでゆく。
……イエス・クリス・テ。救世主。
でもおれのことは、きっと救ってくれやしないや。悪魔憑きは癒してくれても、きっとおれは足蹴にされる。『悪魔よ、去れ』って吐き捨てられて、きっとその手で殺される。
……だって『悪魔の子』っていうのは、つまりは悪魔そのものだから。
女はそれきりふたりの話に興味を無くした。ひとりひっそり息をひそめて、くだらない雑談を撃ち叩く、豪雨の音を聞いていた。
半時間ほどで雨は上がり、男たちはようやく隠れ家を出ていった。
女はそのまま棺のかたわらに横たわり、よどんだ金色の目を閉じる。すぐさま夢も見ない眠りに堕ちて、かすかな寝息を立て出した。
……棺桶にすら納めてもらえぬ、生まれたての死体のように。
* * *
疲れたな……。
満月の輝く夜空の下に、イエスは深く吐息をついた。
人いきれにまみれて過ごすと、とても疲れる。イエスはいつも微笑して、周りの者に優しく聖愛を説き続けて、でも本当はいつでもひとりになりたかった。
天界では『神の御子』、この地上では『救世主』……身分ばかりに気をとられ、『敬愛して』くれる連中に囲まれて、気力は削られる一方だ。
気力を削られ、疲れているのに、横になっても寝つけなくて。夜中こっそり宿の寝床を抜け出して、ひっそり暗い世界を歩く。いつしかそれが習慣になってしまっていた。
「……早く、ユダに逢いたいな」
ぽつりその名をつぶやくだけで、胸の内にほんのり温い灯がともる。
『ユダ』。
自分を真実、心の底から愛してあいしてくれる人。
……けれど、ユダと出逢えたとして、本当に彼女の手を引いていいのだろうか?
そんなことをすれば、そこで運命の猶予期間は終わってしまう。イエスが彼女を布教の道に引き込んで、彼女を愛したら終わり。
それがきっかけとなって、悲惨な運命がユダを襲う。『イエスの真の妹になる』には、ユダは永く悲惨な試練に、打ち克たなくてはならないから。
「……そうか。ユダと逢っても、知らないふりですれ違うことも出来るのか……」
言葉はくちびるを離れると、きらめくような絶望に変わる。目の裏が白くきらきらするような、胸に氷を抱いたような、不思議な感覚がイエスをつつむ。
平凡に幸せに暮らしているだろう『妹』と、これきりずっと出逢わないまま。知らないふりで、一目遠くから眺めるだけで、あきらめて……あきらめる? 出来るのか、お前に? 孤独にさいなまれるお前に?
物思いにとりつかれ、墓から蘇った生まれたての死体のように、ふらふら月夜の下を歩く。ひとりきり、ただただ歩み続ける。
……あてもなくふらふら歩くまま、知らぬ間に墓場の近くへと行き着いた。野生の桑の木が道ばたに一本大きく茂っている。
(……あれ?)
まばたくイエスの栗色の瞳に、動くものの影が映る。
誰かいる。桑の木から実をむしっては、次々むさぼっているようだ。
(不用心だな……こんな夜中に、人が出歩いているなんて)
まるで自分を棚上げにして考えて、イエスが人影に歩み寄る。影はこちらに気づいたようで、びくっと大きく身震いした。逃げ時を失ってしまったのか、そのまま動きが止まってしまう。びっしり茂った桑の葉に隠れ、その顔立ちは分からない。
(肌が、黒いな……)
人影をじっと見つめつつ、思わず内心でつぶやいた。
黄ばみきったぼろぼろの衣、棒のように細い手足。そのくせ胸と尻回りには、女のイエスさえどきっとするほど豊かに肉がついている。
腰の辺りに巻いた縄から、古い革袋が下がっている。水が入っているのだろう。持ち物らしい持ち物は、その革袋ひとつきり……。そうして月の光を受け、桑の葉のあいだからちらちらのぞくその肌は、焼け焦げたように真っ黒だった。
「……お前、名は? こんな夜中に何をしている?」
そう訊ねると、女は小さな声で答えた。
「食事を、しておりました」
「食事? 桑の実ばかりを、こんな夜中に?」
「……はい。おれは、夜中にしか表を出歩けないんです。おれは『悪魔の子』ですから」
言いながら女がふっと桑の葉を、黒い左手で押しのけた。月の光にさらした顔に思わずはっと息を呑む。
(――美しい)
長いまつ毛。荒れてはいるが、桃色のくちびる。
そうして何よりなつかしい、白銀の髪と金色の瞳! 双子の兄たちを想わせる、美しすぎる髪と瞳のその色合い!
間違いない、これこそが神の言っていた『見ればすぐ、妹と分かる見た目』なのだ!
「お前が、ユダか……!」
思わず口にしたその名前に、相手はゆっくりとうなずいた。
「見れば、旅のお方のようですが……あなたもおれのうわさは、お耳にされていたのですね」
「……いや? どういうことだ? うわさなど知らぬ、そも何故だ? どうしてお前は『悪魔の子』などと呼ばれるのだ?」
せっつくように訊ねられ、ユダは淋しげに苦笑した。うわさを全部知っていながら、嬲っていると思ったらしい。
「よく見てください、この瞳を。この髪を。それにこの醜くくすんだ肌の色を」
ユダは己の胸もとへしんなりと手を置いて、淋しい歌のように明かした。
「獣みたいな金の目に、老人みたいな白い髪。闇染めみたいな黒い肌。おれは、生まれつきこんな姿をしていたんです。とても人には見えないから、この地方の人は皆、おれのことを『悪魔の子』って呼ぶんです」
「……親は? 家族は?」
「おれはずうっと独りです。父さんは、おれの生まれる前に病で死にました。母さんは、おれを産む時に、お産が重くて死にました。おれは両親のひとり娘……他に身よりもありません」
一瞬言葉を失って、それを気づかれぬように、イエスは静かな口調で訊ねる。
「……それなら、いったいどうして暮らしているのだ」
「昼の内は、人目をさけて墓場にいます。他の人に見つかると、ひどいことをされるから……。日の沈むまでは、革袋の水だけ飲んで、それで何とかしのぐんです。夜だけこうして外に出て、木の実を食べたり泉の水を汲んだりします」
「……冬には、どうやって暮らしている?」
「……冬は……」
ユダはぐっと黙り込み、己の胸もとをきつく押さえる。噛みしめたくちびるから血が出そうなほど、激しくくちびるを噛んでいる。
――ああ。
厳しい冬、木々に実もならぬ冬、ユダはきっと。どこかの家の馬小屋に寝起きさせてもらう権利を、わずかなパン屑をもらう権利を、きっと、その体で……、
ああ、何ということだろう。『一目で妹と分かる』その特別な見た目のために、お前は酷い目に遭っていたのか……!
どうしようもない思いを抱え、すがる目つきでユダを見つめる。ユダの目には、怯えきった仔犬のような戸惑いがある。
『どうして見も知らぬ旅人さんに、隠れ場所まで打ち明けてしまったんだろう? この人が他の人にしゃべったら、どうなっちゃうか、分かんないのに……』
そう語る金の瞳には、いまだ清さがあふれていて。
分かった、もう他に道はない。
ともかくも今の不幸から、この乙女を救わねば。
(もしもこのまま放っておけば……おそらくユダは不幸に溺れて、清い魂を穢してしまう。『最後の審判』で悪しき魂とされてしまえば、待っているのは永遠の地獄での責め苦……)
そこまで考えて思いつめて、イエスは分からなくなった。
腹の底からぽかぽか心地よく温かくなり、みるみる火のついたように痛いくらいに熱くなる。笑いたくて、泣きたくて、天へこの指を突きつけて神へ何かを叫びたい……、
気持ちがぐちゃぐちゃでめちゃくちゃで、もうどうして良いか分からない。分からないまま気がつけば、両の手で思いきりユダを抱きしめていた。
「……良くぞ、生まれてきてくれた」
『ありがとう』と『ごめんなさい』がごっちゃになって、思わずそんな言葉がこぼれた。
自分のわがままな願いがきっかけで、そんな苦しい思いをして。
でも自らの死を選ばず、ひとりっきりで今まで生き抜いてきてくれて。
「……ありがとう……」
ユダが小さな悲鳴を上げて、絡む腕から必死に逃れる。その場にへたへたとしゃがみこみ、潤んだ目をしてこちらを見上げる。
――どうしていいか、分からないよ。『ありがとう』なんて言われたのは、本当にこれが初めてだから……そう語る金の瞳から、透けるしずくがあふれ出る。
「……なんで……?」
「……なんで、とは?」
「なんで、そんなこと、言えるの……? おれ、おれ、『悪魔の子』だよ……? 皆がみんな『何で生まれてきたんだ』って……『生まれてこなきゃ、良かった』って……!」
「それはそう言った奴らの方が違うのだ」
イエスがふいに表情を硬くして、強い口ぶりで言いきった。
「艶のある夜色の肌、はちみつ色の金の瞳、初霜のごとき白銀の髪。その美しい見た目だけで『悪魔の子』などと決めつけるとは。そのような者こそ、真実『悪魔の申し子』だ」
ユダが泣きながら息を呑む。
自分の価値観が引っくり返り、醜いと思っていた自分の容姿を美しい表現でほめられる。ユダは金の目を何度もなんどもまばたいて、目の前の白い衣の女を見つめる。
「……あなたは、なんなの……?」
今さらながらの問いかけに、思わず微笑がほおに浮かぶ。
「――自分は、イエス。ナザレのイエス・クリス・テだ」
ユダが大きな金の瞳を、これ以上ないくらい見開いた。思わずひれ伏すユダの肩に、ありったけの想いを込めて手を触れる。
「おいで、ユダ。今からお前を、イエスの十二人めの弟子としよう」
空いた手を優しくさしのべて、神の子は確信に満ちてこう告げた。
「ユダ。お前は『悪魔の子』ではなく、いずれ神の末の子となるだろう……」
嘘ではない。
嘘ではない。
だが、そこに至るまで、お前がどれだけ酷い試練を受けなければならないか、今は言わない。今は、言えない。
少しだけひずんだ笑みを浮かべつつ、イエスが白い手でユダをうながす。その右手に、ユダが左手を恐るおそる差し伸ばす。
白い右手と黒い左手が、柔く優しくつながれた。
「……すまない……」
未来の悲劇を予感して、イエスの口から思わず言葉がこぼれ出る。
不思議そうに首をかしげた『妹』が、にじんだ瞳で微笑んだ。天上にいたころの兄たちを思わせるような、あまりにも美しい笑顔だった。
兄たちが互いにたがいを見交わす時の、愛にあふれた笑顔だった。ついに自分には向けられなかった、うらやましくてたまらなかった、あの笑顔……。
『手に入れたのだ』と思った。ついに手に入れた、最愛の妹、その笑顔。
――また、もうじきに、失うけれど。




