失楽園
(兄さん……)
そう呼ぶ声を、聴いた気がした。思わず目を上げてみたものの、なつかしい顔はそこにはない。蒼い星の楽園のかたすみ、やはり自分しかそこにはいない。
「……馬鹿だな。あいつが、ミカエルが……こんなところに居る訳も……」
つぶやくルシファーの背中を飾る、十二の白い羽が揺れる。今のルシファーは昔と変わらぬ、天使の姿に変化している。魔王のままの姿では、美しすぎる楽園の土は踏めなかった。
日ざしは白く暖かく、花々は甘い蜜の香を吐き、湖は澄みきり、動物たちはみな和やかで……いたたまれない。自分は、今の自分はもう、ここにふさわしい存在ではない。
ずうんと重い気持ちを引きずり、ルシファーは楽園の中央、知恵の木のある場所へ、ひと足ひと足進んでゆく。たどり着いたその木蔭で、アダムとイブは楽しげに語り合っていた。
「イブ、お前は本当に美しい。『俺の体の一部からお前が生まれた』など、とても信じられぬくらいだ」
「ふふ、あなたは本当にわたくしを喜ばせるのが上手だわ」
「心外だなぁ! ご機嫌取りなんかじゃない、お前は本当に美しい。その美しさ、柔く優しいその心根! お前の全てが羨ましくてならぬのだ!」
『耳がくすぐったくてたまらない』と言いたげに、イブが笑って身をよじる。
可愛らしいやりとりに、思わずふっと微笑む、とたん『魔王の役目』を思い出し微笑がほおで凍りつく。
ああ。
ああ、そうだった。
わたしは、この純粋極まるふたりを、穢さなくてはならないのだ。
やりたくない、穢したくない、心の声を押し殺し、魔王は美しい蝶へと化ける。アダムでもイブでもいい、どちらかひとりを惹きつけて、この場から遠ざけようと思ったのだ。
(『ふたりは、ふたりでいることで完全になる』と、神は以前に仰った。どちらかひとりをこの手で誘惑する方が、彼らふたりを同時に誘うよりたやすいだろう)
そんなねじれた考えをするようになった自分を、めちゃくちゃに叩き壊したい思いがする。己への嫌悪を身にまとい、チョウはひらひらとふたりの周りにまといつく。
イブの瞳は、萌え出した草の新芽の色。
アダムの瞳は、空と海とが混じったような深い青。
それを目にして、みしりと何かが音を立てた。心で聴いた、己の胸の音だった。
(このふたりの瞳の色を、見てみたいとは思っていた。しかしまさか、こんな状況で目にすることになろうとは……)
「ああ! なんて綺麗なチョウチョ……!」
イブがうっとりと声を上げ、チョウに誘われて歩き出す。アダムはにっこり笑いながらその後ろ姿を見送った。
「迷子にだけはなるなよ、イブ!」
イブはおざなりにうなずいて、うっとりと一羽のチョウを追いかける。そんなイブを楽園のすみまで誘い出し、ルシファーは彼女をまいて楽園の中央へ舞い戻る。それから今度は、もう一度天使の姿に変化して、アダムの前に現れた。
イブが戻ってきたかと振り返り、アダムは思わず息を呑む。
「……美しい……」
ぽつりとこぼれたつぶやきに、胸を抉られる思いがした。
違う。
この姿は、この美はまったくの偽りだ――。
そう否定出来るはずもなく、ルシファーはほろ苦い笑みを浮かべた。
「アダムよ、わたしは天界に住まう者。万能の神に創られし、天使と呼ばれる存在だ」
「……てんし……?」
「そうだ。アダムよ、わたしは『ある真実』を告げに来た。目の前にそびえる林檎の木……その実を食らえば、お前は天使になれるのだ」
アダムの体が、それこそ雷に撃たれたごとく跳ね上がる。彼は声もなく、つくづくと知恵の木を見やる。穴の開くほど眺めた後に、もう一度ルシファーをじっと見つめて、いかにもおずおず口を開いた。
「……けれど、神様はこの実を食べてはならないと……食べたら死んでしまうのだと、確かにそのように仰いました」
ルシファーはころころと笑ってみせて、緩やかなしぐさで首をふる。
「はは、アダム……それは神様の言葉遊びだ。死ぬというのは『人間として』という意味だ。その実を食せば、確かに『人間としてのお前』は死ぬ。そうして今よりもっと尊い、天使の高みへ至れるのだ」
(――嘘ではない)
内心で血を噴くほどにくちびるを噛み、脳裏いっぱいに繰り返しくり返し繰り返す。
嘘ではない。嘘ではない。
今お前が穢れることは、遠い未来に天使の高みへ至るため――……!
「アダムよ。……その実を口にしたなら、お前はもっと尊くなる、もっとずっと良いものになる」
張り裂けそうな胸を抑えて、なおも言葉を重ねてゆく。黙り込んだアダムはふっと顔を上げ、偽りの天使へ問いかけた。
「…………俺が、この実を口にしたなら……俺もあなたのように、美しくなれますか?」
頭を鈍器で殴られたような心地がした。
美しい?
魔王のわたしが、美しい?
魔王のわたしが変化した、偽りの姿が、それほどまでに美しい?
言葉を失うルシファーに、アダムはどこか思いつめた様子で訊ねる。
「俺も、天使のあなたのように……イブのように、美しいものになれますか?」
ルシファーが金色の目を見張る。
ああ。ああ。
この生き物は、自分の存在に劣等感を抱いているのだ。『美しい妻と自分では、つり合わないのでないだろうか』と。
(――アダムよ、違う。この姿は、この美は全くの偽りなのだ。わたしは……わたしは)
ルシファーはほんの一瞬、自らの今の姿を見せようかと考えた。考えた上で、やっぱり黙ってうなずいた。
「……ああ。お前は美しくなれる。今のお前も十分過ぎるほど美しいが、もっとずっと綺麗な生き物になれる」
その言葉で、もう誘惑は成ってしまった。アダムはそっと、捧げるように知恵の実をその手で、もぎとって……。
赤い果実に、歯を立てた。
かしりと響くその音に、ルシファーはぐっとのどを鳴らして目をそらす。一口目は焦がれる願いに、二口目からは果実の美味にむさぼり続けるアダムの前で、一匹の黒い蛇へと姿を変えた。
……楽園の蛇とは似ても似つかぬ、汚物のごとき醜い蛇に。
「おお、アダムよ、愚かなアダム! 見るが良い、我のこの姿を! 我は天使ではない、悪魔なのだ! お前をだまして穢したのは、蛇の死骸の腐ったような悪魔なのだ!」
(だから、お前は悪くない)
お前を誘った美の正体は、穢れた悪魔だったのだから。
そんな意味合いをこめながら、ルシファーは醜い姿をさらけ出す。蛇の姿とその言葉に、アダムの顔が凍りつく。そんなアダムの表情から、楽園の中央から、蛇は音もなく逃げ出した。
「いけないわ、アダム、チョウチョに逃げられてしまったわ!」
童女のように可愛らしく嘆きながら、今さらイブが戻ってきた。彼女は夫の手に握られた果実を目にして、こくりと小さくのどを鳴らした。
「……アダム……? あなた、まさかその実を……?」
アダムが、黙ってうなずいた。イブが悲痛な悲鳴を上げ、夫の腕にすがりつく。噛み跡だらけの赤い実がアダムの手から転げ落ちた。
「どうして!? どうしてそんなことを……! 神様が仰ったじゃない、食べたら死ぬって! 絶対食べてはいけないって!」
「……『天使』と名乗る、あまりに美しい生き物が……『この実を食べたら、もっと美しいものになれる』と……」
「だってあなた! 食べたら、……食べたら死ぬって!」
「その『死ぬ』というのも、神様の言葉遊びだと……美しい生き物が、そう……」
「それであなた……食べたの? そんな見えすいた誘惑に、どうして負けてしまったの……?」
アダムが深くうなだれて、リンゴの汁で濡れたくちびるでつぶやいた。
「俺も、美しくなりたかったから……イブ、お前の美と、怖いくらいの優しさに、つり合うような生き物に、俺もなりたかったんだ……」
イブが言葉を失った。
(自分なのか)
他ならぬイブという存在のために、夫は己を破滅にみちびいてしまったのか。
イブは生まれて初めての表情を、まゆを歪めてほおへ浮かべた。微笑おうとして微笑えなくて、泣き出すみたいな顔になった。そのままの顔で、白く細い手を伸ばし、知恵の実をひとつ、もぎ取った。
「……アダムよ……わたくしも、あなたと同じ道をたどりましょう。あなたの罪がわたくしのために生じたものなら、わたくしも罪を犯しましょう……」
そしてイブの白い歯が、赤い実の肌へ傷をつけた。「美味しい」と言って浮かべた笑みは、どこかみだらで、歪んでいた。それでも、なおも美しかった。
あとはもうやけのようになり、ふたりは半ば狂ったように、知恵の実を食いあさり、歯の跡のついたリンゴがごろごろ、楽園の中央に転がって……。
(ああ、ああ、終わったんだ……)
何が終わったと思ったのか、自分でもよく分からぬままに、蛇は草むらに身を潜めたままつぶやいた。もうその後は、ふたりを見守る気力もなかった。
ルシファーは『醜い魔王の姿』に戻り、落ちるように死ぬように、地獄の底へと下っていった。
……己の血液が腐れきり、体じゅうを巡るのにも等しい気持ちに、胸を食い荒らされながら。




