使命に燃える男
彼は記述する。白髪交じりの頭を時々かきむしり、ああでもないこうでもないと文章をこねくり回しながら机の前にかじりつき、一心不乱にペンを走らせる。長い人生、一度も書き物なんてしたことは無かったけれど、これぞ自分の運命と信じて執筆を続ける。
若い頃は、こんな歳になるまで生き残れるとは思っていなかった。あの時代の世界には希望など欠片も見当たらなかったから。
たったの三十年だ。その三十年で人類は災厄からの復興を遂げて、今こうして一人の男の回顧録を作れるまでに回復している。それもこれも全て彼女のおかげ。あの少女の努力と限りなき優しさが希望を生み出し、他の皆の運命まで未来に繋いでくれた。
彼が選ばれたのはあの時代を知る数少ない生き残りであり、そして最初の一人だから。
――女神となった英雄、ニャーン・アクラタカの伝説の始まりの生き証人なのである。
「大丈夫、父さん?」
「ああ、平気だ……」
心配そうな娘に微笑み返して、実際には少し辛くなってきた体を椅子の背もたれに預ける。一時だけ、ほんの一時だけ休んだらまた執筆を再開しよう。
言っても聞きそうにないなと思った娘は嘆息しながら部屋を出て行った。カップを持って行ったからおかわりの茶でも淹れてくれるのだろう。いい子に育った。
あの子が生まれたのだってニャーンのおかげ。本来なら様を付けなければいけないほど身分の差があるのだが、当人が嫌がるので直に顔を合わせた時には『ニャーンちゃん』と呼んでいる。あの頃と同じように。
先日も一度訪ねて来た。彼女の姿はずっと若いままで、体の自由が利かなくなってきた最近では羨ましくなる。
とはいえ、全身に刻まれた無数の傷跡を見ればそんな気持ちもすぐに吹き飛ぶ。本当にどれだけ苦労してこの平和を勝ち取ってくれたのか。想像するといつも涙が溢れる。
「また泣いてるの?」
娘が戻って来た。やはりおかわりの茶を持って。目の前に置かれたそれに関してはもちろんありがたい。けれど、いい加減にしてと言いたげな口調にはカチンと来て言い返す。
「感謝を忘れるな。全て、あの子やアイム様達のおかげなのだ」
「わかってるわよ。だから毎日祈ってるでしょ」
「形だけでは駄目だ」
「そう言われてもね……私にはいまいち実感が無いし、当人もあんな感じだから友達感覚で」
「まあ、それもわからんではないが……」
ニャーンはよく遊びに来る。神として扱われることが苦手で、暇な時には昔と同じように接してくれる相手の元を渡り歩いているらしい。
娘もこの通りの性格なので全然敬意を払わない。本人の言葉通り友達感覚。それでいて喜ばれてしまうのだから改善も望みがたい。
「まったく……」
これだから、あの激動の時代の後に生まれた世代は許しがたい。いかにニャーン・アクラタカが偉大で素晴らしい存在なのかわかっていない。ほとんどの若者はちょっと神々しいだけの優しいお姉さんだと思っている。
だからこの仕事を引き受けた。未来永劫、ニャーンの功績を後の世に語り継ぐべく。彼女という生まれたばかりの神の神話、その序章を書き残す。
――彼の名はアルバル。かつて第六大陸の孤児院で衛兵をしていた。そしてある日、怪塵狂いの獣に襲われて重傷を負い、初めて『怪塵使い』の力を発揮したニャーンに救われた男。
「書き上がったら真っ先にお前に読ませてやる。そうしたらきっとわかるはずだ、あの子がいかに尊い存在なのか」
「はいはい、わかったから早く書き上げてよ。ただし無理しない程度に急いでね」
「それこそわかっとる」
ニャーンにもくれぐれも無理はしないでくださいと釘を刺された。娘の言葉だけなら無視して体を壊してでも執筆に取り組んでいたかもしれないが、命の恩人で女神様の言葉とあらば従わないわけにはいかない。
だからアルバルは休み休み執筆を続ける。もしかしたらこの大事業は――少なくとも彼にとって崇高で重要な使命には想像以上に長い時を費やすことになるのかもしれない。
だとしても構わない。その時間だって彼女がくれたものなのだから。あの日あの時、怪塵狂いの獣から救われなければ自分はとっくの昔に死んでいた。救われた命、もらった時間を恩人のために捧げることを惜しいとは思わない。
ありがとう、ニャーン・アクラタカ。
締めの文章には、このフレーズを使うと今からすでに決めてある。いつか、この一文を書き記す時が楽しみだ。
(俺は新たな神話の語り部になるのだ。その最初の一人に)
そうすればきっと、彼の記憶もまた永遠に彼女の中に残る。それは絶対に、とても誇らしいことに違いない。