閑話2)とある執務室での一日(有能秘書の苦悩)
目にも鮮やかな深紅の頭花に磨き抜かれた象牙色の肌、深紅のまつ毛に彩られた若緑の瞳。
長身にまるで彫刻のようなしなやかな体から繰り出される身のこなしはとても洗練されていて、一部の隙もなく、対峙した人は思わず見とれてしまうほどだ。
そんな華やかな外見のかの人の部屋というにはあまりにも落ち着いた、濃い茶色と深い緑、刺し色として落ち着いた琥珀色を取り入れたシックな設え。
その部屋の奥の中央、最も重厚なつくりをした机に肘を付けて手を組み、そこに額を乗せたポーズで考え事を、もうかれこれ長い間している深紅の百合の花弁の頭がひときわ部屋の中で輝いている主は口を開いた。
「トーマ。」
「はい、オーナー。」
「優秀で信頼している君にしか頼めない仕事をお願いできるだろうか。」
敬愛する主人の、その重々しい声に、私はごくり、のどを鳴らした。
王都要塞ルフォート・フォーマ、いや、今や世界に名を刻ませる、と言っては大げさかもしれないが、社交界や経済界に身を置けば、一度はその名を聞いたことがあるであろうコルトサニア商会。
そのオーナーの第一秘書であり、古くからの友人でもある秘書が私、トーマ・ナーゼルガンドである。
私の友人であり雇い主であるヒュパム・コルトサニアとは、貴族層にあるアカデミーの初等部で出会ったのだが、彼はその時から様々な才能に溢れた、まさに天才、と呼ばれるべき人間であった。
容姿端麗、質実剛健、その上大変に柔和で人を引き付ける魅力もある。周りには彼を慕う者達や、彼との結婚を夢見る者達であふれ、かといってそれを鼻にかけたりは決してせず、穏やかでしっかりと芯を持つ。
慈善事業に力を入れ、貴族のみならず一般人、冒険者たちにまでも門を開いた病院や学校の建設・経営を行うなどしているが、彼はただ優しいだけの男ではない。
陥れようとするもの、だまそうとする者に対しては容赦なく制裁を加える……そんな冷酷な一面も併せ持つ。
そんな彼を妬んだり、商売で恨みを買うこともあるが、しかし前述の通り慈善家の面が大変強いため、顔も知らぬ多くの人に慕われる存在なのである。
彼が友人であり、雇い主であることを私は心から誇りに思う。
私はいつもそう公言してはばからない。
自他ともに認める友人馬鹿、主人馬鹿である。
もちろん、主にとっても私という存在は、周りからは抜きんでて大切な人間であるのであろうことがわかる。
その理由の一つが、この、主人と第一秘書である私しか立ち入りを許されていない特別な執務室であるのだ。
そして今、まさにその重要な執務室で私にしか頼めない、と改まって言われたのである。
願いとは何だろう。
私にしか頼めない願いとは。
身が引き締まる思いがし、背筋を伸ばして机で思い悩んでいるのであろう、顔を上げない主に向かって問う。
「どうされましたか?」
「申し訳ないのだが、急ぎ調べてほしい……これは心から信頼している君にしか頼めない。 君が忙しいのは十分に分かっているが、頼まれてくれるだろうか?」
どうしたのだろう、ここまで何を思い詰めているのだろう。
雇い主として……いや、親友として! 何か力になりたい!
「何なりと。」
抑えめの口調で肯定すると、彼は低い声で言う。
「ソロビー・フィラン、という二階層第二区画に住む人間の錬金薬師の少女について調べてほしい。」
少女? 庶民層に住む人間の?
今の彼を悩ませている空気とはそぐわない内容であるが、何かあるのだろうか……。
「ソロビー・フィラン。 聞かない名ですね。」
私はできるだけ単調に、言葉を紡ぐ。
しかし彼から出た少女の名前だ。 どこかの国の要人……いや、もしかしたらスパイや暗殺者の可能性もある!
しかも彼には中級の『鑑定スキル』がある。会ったことがある人間であれば、そして相手が上回る力をもっていなければ鑑定スキルを使用する事でほぼ全てが事足りることも知っている。
そんな彼がこんなに真剣に……ここは努めて冷静に問わなければならない。
「素行調査ですか? 何か商談や不都合なことがおありですか? お会いになったことのない人間ですか?」
「いや……会ったことはある。」
おや、違ったようだ。
「では、鑑定スキルで見ればいいのでは? あなたは私のスキルよりも上のクラスの鑑定をお持ちなのですから。」
「それができる相手なら、頼んでいない。」
なるほど。
ということは鑑定スキルでは相手が見えなかったのか。珍しいことだ……その少女は彼以上の鑑定、もしくは防御スキルを持っている相手ということになる。
「では、何を調べればよろしいでしょうか?」
「そうだな……」
うつむいたまま真剣に考えているのだろう、この方がここまで悩むのはなぜだろうか。
「その子の現在の家族親類縁者、それから現在の居住地、同居家族とその経済状況と、それから好きな食べ物や好きなお花、その子が喜ぶもの何でもいい……いやっ!」
ガタン! と彼が立ち上がって近年まれにみる真剣な表情で私を見た。
「嫌いなものを贈るわけにはいかないから、その点も確実に押さえておきたい! できるか?」
「……はぁ?」
ずり落ちてしまった眼鏡が落ちそうになって慌てて捕まえたら、片手に持っていた書類が全部床に散らばった。
「何をしている。大切な書類ではないのか? いつもはお前が書類は大切にしろと言っているじゃないか。」
「大変にっ、大切な書類ですけどっ、貴方のせいですっ」
私は大きな声で怒鳴りつけたいのを必死に押さえながら、馬鹿になった主人を見た。
「なんですか? とうとうあなたにも好きな子ができたのですか? 鑑定スキルも使えないほどに? よかったですね、おめでとうございます、今日はお祝いのディナーを手配しましょう。しかし恋する相手を調べるのは無粋でしょう。まずはデートに誘ってみてはいかがですか? あんなに女性にもてるんですから、それくらいお手の物でしょう?」
あの重たい空気は一体何だったのだ。
深いため息とともに、ばらまいた書類を拾いつつ嫌味も少し混ぜながら、正論を叩きつけた。
しかし主は引かない。
「それができていたらこんなに苦労はしないわよ! っていうか恋って何よ! 違うわよ! それに彼女たちは勝手についてくるだけで、誰一人にだって手を出したことはないわよ、何なら興味もないわ! ただ!」
「なんですか面倒くさい! 口調メッキがはがれていますよ! 酒も飲んでないのに絡み酒ですか? ただ、なんですか!」
「ただ!」
はっとして口元を抑えた彼は、執務用の椅子に腰を掛けてつぶやいた。
「リリィに、似ているのよ。」
リリィ、と聞いて私は書類に伸ばした手を止めた。
「リリィディーナ嬢に?」
「……」
言葉には出さなかったものの、彼は一つ頷いたのが見えた。
リリィ――リリィディーナ・コルトサニア嬢。
私もその少女は知っている。
彼の唯一の肉親であり、最愛の妹であり、そして、花樹人のみがかかる病にかかり、眠るように亡くなったのはもう、10年も前の事だ。
世界有数、少なくともこのルフォート・フォーマでは最大の商会と言われるコルトサニア商会は、彼が病にかかってしまった最愛の妹を治したいがために、世界各地を飛び回り、薬や医師を探し回ったおまけでできた商会だ。
それほどに大切にしていた妹君。
……その事実を知っているのは、それを手伝った私だけなのだ。
「わかりました。」
書類を拾い集め、ひとつ、息を吐いて私は顔を上げた主に頭を下げました。
「ソロビー・フィラン嬢について調べてみましょう。」
「トーマ、ありがとう。」
「その代わり!」
手に持っていた大量の書類を、彼の机のわきに置く。
「こちらの書類、本日中に目を通して可否を決定して魔法印をお願いいたします。」
「なっ!? この量を!?」
「貴方なら、できるでしょう?」
実は軽く3日分の仕事なのだが、普段お店のお手伝い、と称してサボっているのだから、私が調べものに行く間にこれくらいやってもらわなければ割に合わない。
「それでは、手配してまいります。」
そう言い残して後にした室内から、敬愛する友人であり主人の悲鳴が聞こえたが、そんなものは気にしない。
私は彼に最も重用される優秀な秘書であり、彼にド正論を叩きつけられる友人なのだ。
歩みを早めながら、ふと、思う。
少しは、心が癒えたのだろうか。
ようやく、自分の幸せを考えてくれる余裕が出来たのだろうか。
……そうだったら、嬉しい。
そう思うと、いつもは引き締めている口元も緩むものだ。
「さて、彼の心の鉄壁を崩した少女とはどんな子なのだろうか。」
彼が一番に優先したいことのため、私は歩き出したのである。
「あ、トーマ、調べてくれて悪いんだけどね、明日、フィランちゃんのおうちにお呼ばれしたから、ついてきて頂戴ね。」
「は? 報告書はまだお渡ししておりませんが?」
「今日ね、わざわざ私を訪ねてうちに来てくれてね、そのままランチを一緒にして、おうちに伺うことになったの! あ、もちろん商談、お仕事の話よ! だからちゃんと書類も用意して、同席してね?」
「いえ、私は明日、大切な約束が……前にお願いしてあったはずですが?」
「大丈夫よ、約束の時間5分前には、早退させてあげるわ。ただねぇ……」
「ただ、なんでしょうか?」
「三日分の書類を一日で終わらせた分は、働いてもらうぞ、トーマ。」
「……かしこまりました、わが主。(娘よ! お父様はどんなことがあっても早く帰るからね!)」