1-103)高潔の国母は拳をふるい愛を抱く
「最初に出会ったのは、貴女がいつつの時だったかしら?」
にっこり笑った黒髪を高いところで結い上げる美しい武闘家は、目の前で瘴気に囚われる少女に語り掛ける。
「聖女として任命を受けたと貴女のお母様から知らせを受けた私は、稚い聖女の誕生が本当にうれしかったの。 だから可愛い貴女のお祝いをしたかった。 貴女のために小さな女の子が好きそうなものを沢山調べてね、侍女達にも協力してもらって、貴方に喜んでもらえるような、可愛らしいお茶会にするように心がけたわ。 そのおかげもあって貴方はとても喜んでくれた。 その姿は本当に可愛らしくて、今でも夢に見るくらいなのよ。」
公爵家の娘が聖女になった。
嬉しそうに茶会で報告してくれた彼女の母親の言う『娘』に興味を持って、特別に招いたのだが、やってきた少女は想像以上に可愛く愛らしく、つい贔屓したくなったように思う。
また会いたくて茶会に招いたが、あの日以来、断られることが続いたことに心配になった。
普通であれば、娘が招待されれば喜んで連れてくる親がほとんどだ。
「その後、1度も夜会にもお茶会にも来ない貴女の事は気になっていたわ。 けれど公爵夫妻に病弱故にと断られれば引くしか無かった……。 でも、聴いたわ、公爵家の事。 家族から貴女がどんな仕打ちを受けていたか。 これから先どんな環境が待っているのか。 貴女がどれほど傷ついたか。 その結果が、その姿なのね……」
アカデミーで会えた時、ちゃんと成長していた姿に安堵した。
彼女は普通に育てられた公爵令嬢に見えたからだ。 まさか、家族からあのような扱いを受けていたとは思いもしなかった。
「辛かった、わね。」
あの頃よりも輝きの増した夕焼け色の髪は闇に絡めとられて方々へと散り、宵闇のようにキラキラと美しかった藍色の瞳は黒く濁っている。
聖女としては今後、絶望的な『瘴気に囚われた』事実。
魔に心を奪われる『隙』が、彼女にはあったのだ。
「わたくしも、貴女の家族が貴女にした事を許すことはできないわ。 それでも、あなたがそんな姿になる必要はない――家族を憎くてもいいの。 許さなくてもいいのよ。 けれど、あんな家族のために、あなたが堕ちる必要は無いの。」
『……ヲ……。』
瘴気から自分の意志で解放されるように、強く、彼女に訴えかけていこうと声をかけるが、言葉を間違えたのかもしれないと、彼女は内心舌打ちをした。
ざわり。
家族、と言った瞬間に、彼女と彼女を取り巻く瘴気の空気が変わったのだ。
「ビオラネッタ、おやめなさい。」
『オ……ォォォオオォォ……。』
ビオラネッタを絡めとっていた瘴気の凝りが粟立つ様にうごき、ビオラネッタを飲み込んだ。
瘴気は彼女を中心に、夜会のドレスのように大きく広がると、その裾からカサカサと音を立ててうごめく巨大な節足昆虫の様な魔物を生み出していく。
『……オ……アアァァァ……ッガ。』
おおよそ彼女のものとは似ても似つかない低い唸り声をあげながら、裾の広がる瘴気のドレスを身に纏った彼女が黒髪の女武闘家を指し示すと、動きを止めていた瘴気で出来た魔物である大百足や大蜘蛛たちは、一斉に目の前にいる女武闘家に向かって襲い掛かった。
「あらあらまぁまぁ……数が多いこと。」
土埃を上げるほど素早く足を広げ、砂っぽい石の大地をしっかり踏みつけると、彼女は腰を落として一つ、深呼吸をした。
「実践は久しぶりね。 これだけいれば、いい肩慣らしになるかしら?。 スキル展開『火魔法――火炎拳・演舞』」
白にも近い青の炎が、彼女の両腕に宿るのを確認しながら、踏みしめた大地を蹴りあげて彼女は大百足と蜘蛛の山のような群れに飛び込んだ。
拳で頭を叩き潰すそこから炎が噴き出して燃やしつくす。
くるっと腕から離れた棍が魔物の足を砕き、胴体を焼き切る。
蹴りで、体を二分したところから、激しい火が燃え上がり、傍にいた別の魔物も巻き込んで大きく火柱を立てる。
まるで夜会でダンスを踊るように優雅に四肢を動かし、体をしならせながら魔物たちを潰していく。
潰されたものは瘴気に戻り消え……しかし新たな魔物は瘴気のドレスから次々と生まれ、黒髪の女武闘家に一直線に足を動かして向かってくる。
動じることもなく、彼女は纏う炎をさらに強くし、優雅な立ち振る舞いでつぶしていく。
「あらかた片が付きましたかしら?」
多く生み出されていた魔物たちの残滓を見やりながら地に降り立ち、女武闘家は多少薄くなった瘴気を纏った少女を見る。
瘴気の濃さの分だけ魔物を生み出すのか? と探るように少女を観察するがわからない。
ただ、このままでは彼女があまりにも惨めで可哀そうだと思った。
嘆くように瘴気の手袋を付けた手で顔を覆い嗚咽を漏らしている。
時折、悲鳴のような声を上げるとそれに呼応するように瘴気のドレスから魔物を生み出すが、彼女の意志とはあまりにもかけ離れているように見えた。
あの姿は、魔物の瘴気のドレスで魔人に堕ちた哀れな聖女ではなく、ただただ無条件に愛されたかったと泣いている小さな子供だ。
「聖女である彼女を愚者扱いした上に、こんなことをさせるなんて。 その上フィランちゃんまで絡めとって。 彼は一体何を考えているのかしら。 お仕置きが必要よね! スキル展開『火魔法――竜舌火炎』。」
再び襲い掛かってくる魔物を高温のしなる鞭状の炎でからめとり焼き尽くしながら、もう一度溜息をつく。
「次から次へとキリがありませんわ。 ならばやべきことは一つ。」
視線を、瘴気の中でただ泣く少女に向けた。
「ビオラネッタ。 可愛い子、こっちを見て頂戴?」
ぴくり、と、少女は悲鳴のような泣き声を止める。
「貴女は何にも悪くないのよ、ビオラネッタ。 ただ、貴女の特別に、周りの醜い大人が、人間が、欲をむき出しにして絡めとっただけ……今の瘴気に囚われたあなたのように。」
諭すように女武闘家は話しかけるが、そのたびに魔物は増えていく。
それを炎や拳で燃やし、叩き、殴り潰しながら、女武闘家は話しかける。
「貴女はどうしたいかしら? そのまま魔物になりたい? それとも過去の全てを捨てて、やり直したい?」
『……』
濁った瞳が、澄んだ水の膜で覆われた。
口から洩れる言葉はただの言葉にもならない嗚咽だけであるが、ゆがむ唇は確かに言葉を紡ぐように動いたと、彼女は確信した。
――ヤリナオシタイ。
聖女という立場も。
イセカイテンセイという家族を狂わせた病も。
そんな家族に愛を求めては絶望する苦しさも。
過去には確かにあった優しい家族の残り香も。
寂しくて一人泣いていた過去も。
すべて、すべて。
『……ォォ……』
願いは言葉にならなかった。
しかし確かにそう聞こえた。
「えぇ、えぇ。ビオラネッタ。 捨てさせてあげる、貴方の望むままに。 それが、皇妃であるわたくしにできる、聖女・ビオラネッタ・ガトランマサザー公爵令嬢への手向けの花よ。」
任せておきなさい、と、彼女は口にすることなく拳を解くと両腕を広げた。
曇った瞳にわずかに光がともったのを確認した黒髪の女武闘家は、いつもよりも美しく微笑んだ。
彼女の足元に炎の魔法陣が立ち上がる。
「我が番、わが魂の源よ。 どうぞここに。 火の精霊男神イフリート召喚・スキル展開――」
魔法陣から、女武闘家を抱きしめるように現れた白熊の顔面を持った男神は、火炎竜のように炎を身に纏うと彼女の上で大きく手を広げる。
魔法陣の炎が赤から白、青へ変わり、一層高温になってゆく。
「――『浄化の炎』をもって願うわ。 『不死鳥の尾羽の恩恵』っ!」
火の男神が大きく咆哮した。
そのまま、正気を守った少女へ向かって牙を剥き、爪を光らせて火の渦となって襲い掛かる。
パキン、と、魔物の宝冠の柱がまた一つ、折れた。
室内にひしめき合っていた魔物も、瘴気も、跡形もなく蒸発し、魔を祓う炎が鎮火えた先には黒髪の女武闘家と纏う炎を最小限にした火の男神しかいなくなった。
床に落ちたのは、聖女として、公爵家の令嬢としての証であるブローチと、演習に共に行く皆のために作った腰紐についていた乳白色の石だけだ。
それを手に拾い上げた女武闘家は、ため息をつく。
「これを公爵に渡して、聖女を悼む言葉を送れば、長きにわたって私を縛り付けた皇妃としての役目は終わりね。」
一つ、小さくつぶやいた女武闘家は消えてしまった少女を弔うように目を伏せた。
そんな姿を見ていた男神・イフリートは、彼女に寄り添うように近づくと、そっと両手を差し伸べた。
『ルナック。』
彼の声と熱を感じて落とした瞼を開くと、何かを抱えている彼に気づいて微笑み、そこから慈しむように大切な生まれ変わった命を受け取った。
温かくて、柔らかくて、稚いそれは。
「あぁ、なんて可愛らしいの。 ようやく抱くことができたわ。 わたくしと貴方の娘。」
女武闘家――ルナーク・マルス・オクロービレ・ルフォートの腕の中には、暁の燃えるような明るい髪色に、明ける空の様な輝く瞳の女の赤ん坊が抱かれていた。
「今日から貴方は、表向きはわたくしとあのバカの可愛い一人娘ね。 ビオラネッタ……いいえ、その名前はもう捨てましょうね。 あなたの名前はフェリーチタ。 フェリーチタ・ソロビー・マルスよ。 ふふ、学園に入る半年前から表向きだけでも動きにくい大きなドレスを着て、文句を言われながらも公務も激減させて後宮にこもっていたかいがあったわね。」
『アカデミー関連で遊んでいただけだけどな。』
にっこりと、母親の顔で笑ったルナークの足元に、真っ白な魔法陣が浮かび上がった。
「まぁ、わたくし達の可愛い娘の前でそんなイジワルな事はおっしゃらないで。 さぁ、帰りましょう。 ねぇ、フェリア。 貴方は何が好きかしら。 たくさん笑って、たくさんお話をして、幸せになりましょうね。」
白い魔法陣の光と共に、炎の精霊男神と母娘はその場から消え離れた。
そこは、見慣れた場所だった。
原初の人食い薔薇の庭園。
自分がつくった物の展示場であり、端の一区画以外は、ここを知る全員が満場一致で気持ち悪がる秘密の断罪場所である。
「しかし、これは良く模しましたね。」
長身痩躯に黒衣の男は感心したようにつぶやいた。
しかし、いつもの長くぶかぶかのローブではなく、昔駆けずり回っていた時の様な衣服に身を包んだカササギの翼をもった彼は、静かにあたりを観察した。
人食い薔薇を這わせた壁。
教え子の作った巨大なハエトリ草に似た魔物を捕食する樹木。
溶解液をたたえた袋を持つ蘭の花。
「本当によく似ている……。 でも、これは本物ではない。 しかし。」
重く吐く息を、ひとつ。
「出てきなさい、お前は、本物でしょう?」
皆が気持ち悪がる秘密の場所で、唯一、皆が自ら集う小さな一区画に向かって声をかける。
『よく、解ったな。』
その一区画には、この庭園では唯一ヒトに危害を加えない、小さな思い出の青い花が植わった場所。
そこからは、実際であれば決して聞くことのできないはずであった相手の声がして、普段は無表情、または嫌味たらしい笑顔しか浮かべないと有名なカササギの鳥人は、心底嫌そうに顔を歪めた。
「嫌な予感はしていたんですよ。」
見せつけるように大きくため息をつく。
「あのバカが、私にこんな格好をさせた時に……お前が私の前に現れると分かっていたからだったんですね。」
目を伏せ、心なしか項垂れたように広がった、かつて一度失ってしまった己の翼を、手でそっと摩る。
「お前とだけは、こんな形では会いたくなかったですよ。」
大きく大きく息を吐きながら、顔を上げてその名を呼んだ。
「ミゲト。」
己の名を冠する花の傍に寄り添うように立つ青年は、はるかに昔、自分たちの前から消えていなくなった『特別な八人』の一人だった。