1-099)すべての始まりの原因の一端と、呪いと祝福
『……どこ? ここ。』
脳内に小さな光が見えた、と思ったあとは、長いトンネルからジェットコースターか何かに引っ張られたまま、一気に明るい外界へ引っ張り出されたような重力と五感への暴力に、人としての全ての感覚が一度馬鹿になったような前後不覚の錯覚。
そこから正気に戻った時、真っ白でうるさい世界は一変した。
静かだ。
聞こえるのは水のせせらぎ。
味わうのは清涼な空気の甘み。
触れるのは静かに流れる風の優しさ。
匂うのはよどみのない、深緑の香り。
そして、目の前に広がるのは美しい世界。
ガラス細工のようにつるんとした葉をもち、こちらもつるんとした幹を持つ木は、前世のガジュマルにとてもよく似たていて、吃驚するくらいに透明な水から細く長く伸び立ち上がって水の上に森を形成している。
地面はなく、ただただ深く深くまで透明な水が自分の足元にも流れていて、自分の見える限り、世界の上半分は不思議な木の森、下半分はは水。
その水の上を、私は歩いていた。
とても不思議な感覚だ。
水の上を歩いている。
一歩、また一歩と足を水面につけば、波紋が広がるが、下に沈むことも、足が水で濡れることもない。
清らかで、美しく、一点の濁りも淀みもない厳かな世界。
何かに導かれるように私の足は動いていって、少し歩くとそこについた。
開けた世界。
真ん中には、びっくりするくらいに大きな樹。
たくさんのガジュマルの様な木は、所狭しとひしめくように生えているのに、その巨木の周囲は何にも生えておらず、水につかった幹や根と、水面に映る幹と枝葉が混ざり合って、何処がその境界であるのか溶け合って分からなくなるような錯覚を起こすような世界で。
「……素敵、素敵っ!」
パシャン。
水の弾ける音がして、自分が歩いてきた方から誰かが走ってきた。
慌てて避けようとしたが、走ってきた誰かは思ったよりも早く、あぁ、ぶつかると身を構えた。
すぃ。
自分の体の線が陽炎のように揺れて、走っていった人がすり抜けて巨木の根元に走っていくのを呆然と見送る。
すり抜けた。
自分の存在に不安を感じてゆっくりと両手を上げてみる。
『……透けてる……』
手を下ろして水面を見ると、水の中に生える木と、その周りを泳ぐ魚群しか見えない。
自分は映っていないのだと分かった。
じゃあここはどこで、自分は何なのだと自分の中をすり抜けて走っていった人に視線を向ける。
「こんな綺麗なところ初めて来たっ! 素敵!」
巨大な木の根元まで走っていったのは、緩やかな波を打つ長い黒髪が綺麗な華奢な女の子。
「――君は、誰。 ここにどうやって入ったの?」
すぃっ。
後ろから来た人が、自分の体を通り抜けて少女の方に静かに近づいていく。
長く淡い金色の髪に空の青の瞳の少年は、少女の腕をつかんで問いかける。
突然腕をつかまれて戸惑っている少女は、それでも花が咲くようにふわっと笑うと、空いた手で少年の手を握った。
「綺麗! あなたも綺麗ね! ここはどこ? あなたは神様? あ、でも同じ年位だから、もしかしたら天使様!? 私はね、ベッドで寝てたらここに来たの! まだ夢の中なのかな? 体も心も痛くないからきっとそうなんだね。」
ニコニコと笑う少女の勢いに大きく目を見開いて呆然としていた少年は、ふんわりと硬い表情を和らげると、つかんだ少女の腕から手をはなすと握りなおした。
「どうやってここに来たのかは聞いていないのだけど、いいや。 君をここに招待するよ」
『ひゃぁっ。』
突風が吹いて、私は一度目を閉じた。
次に目を開いた時、木の根元にいた二人は少し成長した姿になっていた。
どうやっているのか、巨木の根元の空間にふんわりと寄り添って座り、話しをしている。
「――。 今日は何をして過ごすんだい?」
「――。 今日は何かを作ってみようと思うの。」
「何かとは?」
「私たち以外の物。 猫さんとか、兎さんとか、可愛くてあったかいモノ。 それから、ここは木と水だけしかないから、お花も見たいわ。 それから蝶々!」
「猫に、兎に、お花に、蝶々?」
不思議そうに首を傾げた少年は、しらないの!? と驚き、こういうので、こういうので、と、大きく身振り手振りを加えながら説明する少女を微笑んで見守っている。
「もうっ! ちゃんと聞いているの!?」
うんうん、と穏やかに聞いていた少年に、頬を膨らませて少女は文句を言い始める。
「うん、うん、聞いているよ。 ――が好きなモノを作るといいよ。 僕も手伝うから、君の作りたい物を、教えてくれる?」
にっこり笑った彼の笑顔に怒りも飛んでいったのか、それでもほっぺを膨らませてプイッと横を向いた少女は、ちらっと横目で彼を見た。
「……もう、しょうがないなぁ……じゃあ、笑わないでちゃんと聞いててね。」
「ごめんね、ちゃんと聞くから、許してね。」
「これは……これを作るのは駄目だって言ったはずだよ、――。」
「なんでなの!?」
木の根元で、二人は向き合って喧嘩をしていた。
もうすっかり大人の姿になった彼らは、なんでわかってくれないの、と、少女だった彼女は声を荒げ、少年だった彼はそんな彼女をなだめながら困ったように彼女に手を伸ばす。
「これらを作ってしまったら、世界が壊れてしまうかもしれない。」
「壊れないわ、だって心があるんだもの!」
「その心が危険なんだよ。」
何かをめぐって喧嘩をしている二人。
彼女の作る何かが問題なのだろう。険しさを残す困った顔で、彼は必死に彼女にその危険性を訴えるが、彼女は大丈夫だと突っぱねる。
「どうしてなの? わたしにも、貴方にも、心はあるじゃない! それを危険だというのなら、私もあなたも危険だわ!」
「それは……。」
ぐっと言葉を飲み込んでしまった彼は、それでも、と口を開いた。
「それは許容できない、手伝えないよ、――。 それを作ってしまったら、君が綺麗にしてくれたこの世界を守れない。 僕も、君も、変わってしまう気がするんだ。」
「そんなことないわ! 大丈夫よ。だって、これがいた世界は、みんな優しかったもの。」
「それは、君の世界だけだろう?」
彼は溜息をついて諫めるように、だが穏やかに続ける。
「君の世界じゃない世界はどうだったの? 本当に優しい世界なの? 何も問題はなかった? 悲しいことも、辛いことも、痛くも寒くもない世界だった?」
「なかったわ! だって……っ!」
ぐっと口元を抑えて続きの言葉を飲み込んだ少女は、もう知らない! と、林の奥に私の体をすり抜けて走って行ってしまった。
「――。」
彼女を引き留めるために伸ばした、届かなかった手をもう片方の手で握りこみながら、彼は首を振って項垂れた。
「――っ!」
熱風と共に、私の体をすり抜けて巨木に向かうのは、もう少し成長した彼。
巨木の下、水の床の上に横たわった彼女は、血の気を失った青ざめた顔をして、気を失っていた。
見えるのは、肩に突き刺さった大きな矢と、赤く染まった白い服。
「――っ! 目を覚ましてっ!」
矢を抜き取り、すぐに彼女の傷を治そうとする彼の涙が、彼女の頬を濡らしていく。
「だからっ! だから言ったんだ! いや、だから止めなきゃいけなかったんだ。」
血が止まり、少しだけ顔色の戻った彼女にまだ、力を使い続ける彼は、如何して、と、後悔の言葉を吐きつづける。
「君を失ったら、僕はどうしたらいいんだ、僕はもう、きみがいないと生きていけないのに……。」
「――。」
「――!? よかった、目が覚めた!」
瞼をゆっくりと押し開き、弱弱しく手を彼の頬に伸ばした彼女はゆっくりと色のない唇を動かした。
「ごめんなさい。」
「きみはっ! わるくない! 僕が……っ!」
ふるふると首を小さく振った彼女は、はぁ、っと大きく息を吐いた。
「いうこと、を。 聞かなくて……。」
「そんなことない、僕がちゃんと止めなかったから、君を守ることが出来なくて……。」
ぎゅうっと彼女を抱き上げた彼に、少女は笑う。
「泣かないで、だって私が、悪いのだもの。 ……でも、――。 私、少し疲れたわ。」
「うん、うん。 少しお休み、――。」
自分の涙で濡れた彼女の頬を優しく触れながら、彼は彼女に微笑む。
「僕が、君を絶対に守るから大丈夫だよ。」
うん、と一つ頷いた彼女が、こちらに視線をくれたのは気のせいだったのだろうか。
ひどく美しい、花の様な真紅の瞳だった。
『あれは、私への戒め。』
はっとして振り返ると、そこにいたのは……目の前で彼女を抱きしめて泣いている彼。
『あれは、彼女を止めることのできなかった、彼女が作った世界を壊すのを止められなかった私への、戒め。』
『あなた、は?』
流れる黄金の髪に、空の青の瞳。
その声は、聞いたことがあった。
『水晶の、神様?』
『久しぶりだな、豪胆な娘……いや、今はフィランと言ったか?』
ポンポン、と、神様は私の頭をなでて悲しそうに、笑った。
『この世界は、お前に優しかったか?』
『え?』
変な質問に、それでも文句は言えない雰囲気でう~ん、と考えた。
『好きです。』
『好き?』
こくこく、と頷いて、神様に言う。
『正直、めちゃくちゃふざけんなって思っていますよ、現在進行形でっ! でも好きです。 神様が会わせてくれた人は、一癖も二癖も、何なら変わり者ばかりかもしれないけれど、それでも……』
にこっと、私は自然に笑ったんだと思う。
『優しい人が多かったです! だから、大好きです。』
キョトンとした顔の神様は、泣きそうに笑った。
『それは重畳。 ……ならばフィランよ、手伝ってほしい。』
神様が手を伸ばすと、スクリーンが入れ替わるように今まで見ていた世界が一転した。
みずみずしく、清廉潔白、あんなに美しかった世界が全く違う物へ変化した。
「これが今の、あの場所の姿。」
森をなしていた木々は枯れ、水はよどみ、中央の巨木は生きてはいるようだがはらはらと葉を散らしている。
淀んだ水の上に落ちた葉は一瞬、その周りの水を綺麗にしたようだが、すぐに色を変え、形を崩し、水も澱んでしまう。
「ここは?」
「神の木の、根元。」
「これが!?」
先ほどと違い、悪臭のする淀んだ空気にはくはくと息をする私の頭を再度撫でた神様は、私の頭から額に手を移動させると、彼女の傷を治したみたいにふわっと手を光らせた。
「あれ? 体が軽く……」
「魔女の戒めを解いてやった。 これで私と彼女と再びつながることができる。」
「つながる?」
「ここで、あれと共にお前を待っておるぞ、フィラン。」
そっと、神様はそのまま私の額にキスをした。
「良いか、我らが待つのはこの世界を『優しい』と、『好きだ』と言ってくれたお前だ。 必ずここで待っているからな。」
はやく来てくれ、と、神様は私の額をこん、と突いた。




