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図書館とおりがみと無口な天使さま


◇   プロローグ   ◇



 引き出しの中にしまった小さな箱。

 その中に収められているのは、少しいびつな折り紙の鶴に、テディベアの柄のメモ用紙、それに折り畳んだルーズリーフやノートの切れ端。

 その中の一枚を手に取る。


 ――夕暮れの日が差し込む広いホール。壁という壁には天井まで届く本棚が据えられている。明治時代に建てられた洋館をそのまま使用した図書館は、ヨーロッパかどこかの国にいるみたいで、わたしの黒髪と、紺地に白い襟の現代的なデザインをしたセーラー服は少し浮いて感じる。

 その空間に、何の違和感もなく溶け込んでいる人物が一人。背中に届く金色の長い髪、モスグリーンのブレザーの胸には十字架の描かれた盾とライオンの校章。

 テーブルのわたしの斜め前に座る彼女は、折り紙に添えられたメモ用紙を読んで、楽しそうに目を細めて笑う。


 どれひとつをとっても、その時の光景がはっきり思い出せる。わたしと彼女の幸せな時間の思い出だった。



◇   図書館と不純な動機   ◇



 わたしは本が好きだ。

 今はスマホでいくらでも〝本〟が読めるけど、わたしは紙の本が好き。そして、何よりそれが並んでいる様子を眺めるのが大好きだった。

 そんなわたしが図書館に通うようになったのは自然な成り行きというものだろう。


 だけど、今のわたしが図書館を利用しているのには不純な理由が二つある。

 一つは、勉強をするためである。

 図書館で勉強をするのは普通のことだろうという人もいると思うけど、それはおかしいと思う。図書館にはあんなに本があるのに、それを調べるわけでもなく、自分で持ち込んだ参考書や辞書で勉強するなんて不純ではないか。

 読書というのは、もっと自由で、豊かなものじゃなければならない。だから図書館で勉強なんてするべきではないのだ。

「じゃあ、家で勉強すれば?」と妹はいうけど、そういうことではないのだ。わたしは図書館にいたいし、図書館では本を眺めたり、読んだりしていたいのだ。

「遊びたいって言ってるだけじゃん」

 脳内の妹が指摘する。いや、だけど、

「そんなんで受験大丈夫なの?」

 うぐ……。

 というわけで、不純ではあるけど、せめて好きなものに囲まれていたいので、わたしは図書館で勉強をするのです……。


 もう一つの理由は、もう少しわかりやすく不純な理由だった。

 館浜市立図書館は、明治時代に建てられた洋館をそのまま使用しているという由緒正しい建物だ。館浜はかつて外国人居留地のあったところで、今も立派な洋館が残っていたりする。

 ネットで見かけたヨーロッパの古い図書館の写真みたいな雰囲気があるので、わたしのお気に入りの場所だった。

 そんな図書館に、ときおり天使が現れるのだ。

 ……念のために言っておくと、本当の天使ではない(少し自信ないけど)。

 金色の長い髪、モスグリーンのブレザーにチェックのスカート。胸に刺繍された十字架と二頭のライオンが描かれた校章は、由緒正しいキリスト教系の女子高のものだ。

 わたしの妹もその附属中学に通っているから数年後には同じ制服を着ることになるはずで、今着ている制服も似たデザインではあるのだけど……違うのだ、彼女が身に纏うと、それは煌めくような天使のローブになるのだ。


「はあ……」


 思わずため息がこぼれる。古風な雰囲気溢れる図書館に、麗しい天使様。何時間でも眺めていたい。

 ……うん、やっぱり勉強したいなら家でやった方がいいのかもしれない。



 天使様は館浜市立図書館の守護天使というわけではないので、遭える日ばかりではない。ある日の放課後、天使様の現れない図書館で、わたしは世界史の資料集をめくっていた。

 一枚の絵に目が留まる。広々とした空間に描かれた巨大な塔。その塔はまだ建築中のようで、太い土台の割に高さがないし、壁もところどころ欠けている。それでも、上の方には雲がかかっていて、とんでもなく大きな建造物だということが分かる。天まで届くバベルの塔を描いた絵だった。

 バベルの塔は旧約聖書に書かれているお話だ。

 書架から年季の入った聖書の本を持ってきて調べると、この天まで届く塔を作ろうとしたのはニムロデさんという王様で、それに怒った神様は人間の言葉がお互いに通じないようにバラバラにしてしまったのだとか。

 つまり、わたしが英語とか漢文の勉強で苦しんでいるのは、そのニムロデさんのせいというわけである。



◇   初めての   ◇



 休日の図書館が好きだ。

 勿論、図書館はいつだって大好きなのだけど、休日は図書館で勉強しないという自分ルールがあるのが大きい。要するに、図書館は何も変わっていないけど、わたしはわたしの都合で休日の図書館が大好きなのである。


 図書館につくと、今日は天使様のお姿も見える。休日だからクリーム色のタートルネックの大人っぽい私服。ああ、来てよかった。生きててよかった。

 休日の図書館の欠点は混んでいることだけど、幸い天使様の斜め前の席が空いたところだった。席に荷物を置いて、マフラーを外して、ダッフルコートを脱ぐ。

 その時、こころなしか視線を感じた。

 注目されてる? もしかして、今日着てきた新しいニットのパワー? うんうん、ちょっと予算オーバーだったけど、買ってよかったかも。お気に入りの服を着てお気に入りの場所ですごす。なんて素敵な休日だろう。

 こっそりと盗み見ると、天使様と目が合ってしまった。お互い、気づかなかったみたいに目を逸らす。

 ……もしかして、天使様にも見られてた?

 そう思ってさりげなく天使様を意識していると、彼女はノートを一枚ピリっと千切ると、そこに何かを書いた。そして、少しためらいがちに、斜め前に座るわたしの方に差し出した。

 わたし?! 思わず自分を指さしてしまう。それを見た天使様はこくこくと可愛らしく頷いた。

 なんということでしょう。いくら少しお高かったと言っても、ここまでの御加護があるなんて、


〝値札ついてますよ〟


 荷物を座席に残して、わたしは化粧室に駆け込んだ。



 ……埋まりたい。

 天使様の御指摘通り、わたしの背中には商品のお値段がばっちり記載されたタグが顔を出していた。なんで今日に限って。せっかく天使様が話しかけてくれたのに(話してはいないけど)……。

 そこではたと気づいた。

 あれ?  話しかけてくれた? 天使様が?

 ……あれ? むしろ、今日のわたし、すごくついてるのでは? 今日のラッキーアイテムは値札だったのでは?

 こうしてはいられない。わたしは今日のラッキーアイテムをゴミ箱にきっちり始末して十字を切ると、化粧室を出た。天使様にお礼をいわなければ!


 閲覧室に戻ると、幸い、まだ天使様はさっきと同じ席で本を読んでいた。


「あ、あの!」


 ゴホン、と咳払いが聞こえた。しまった、ここは図書館だ。天使様も困った顔でわたしを見ている。

 手のひらを天使様に向けて、ちょっと待ってのポーズ。

 さっきの天使様と同じようにお礼をルーズリーフに書いて、それを折り畳んで渡す。


〝さっきはありがとう〟


 天使様はそれを読むと、わたしに向かって微笑んだ。

 うわっ。天使様の! 笑顔! 眼が、眼がっ!

 そして、また返事を書いてくれた。


〝どういたしまして〟


 その後は特に話したりということはなかったけど、わたしはその日、図書館で何を読んだのかを全く覚えていなかった。



◇   折り紙   ◇



 水曜の放課後、わたしが図書館にやってくると、天使様がいつものテーブルでノートを広げていた。

 わたしに気付くと、天使様は少し微笑んで、会釈をしてくれた。わたしも思わずペコリとお辞儀を返す。あの日の失敗は、この瞬間、わたしの人生最高の幸運に数えられることになった。

 この間の休日と同じように、さりげなく天使様の斜め前の席に座る。さすがにこんな近くでじろじろ見てはバレバレだし、失礼なので、わたしは自分の勉強に集中する。

 ……まつ毛長いなとか思っていないし、何かかすかに花のようないい香りがするのは、わたしのせいではない。

 と、頭の中の誰かに告解していると天使様の様子がおかしいことに気が付いた(ちなみに本来の告解は罪を告白することであって、言い訳とは真逆の行為です。気をつけましょう)。

 天使様はごそごそと花柄の筆入れの中を探って、探していたものがないことを確認。その後に、シャーペンの後ろの蓋を外して止まった。

 なにやらうんうんと悩んでいる。

(あー)

 シャーペンの後ろにあるもの、それは消しゴム。世界には二種類の人間がいる。シャーペンの後ろの消しゴムを使う人と使わない人だ。使わない人は、それを絶対に使おうとはしないけど、消しゴムを忘れてしまったときはどうすればいいのか。その答えのない問いを天使様は突きつけられているのだと私は理解した。

 わたしは、あの日のようにルーズリーフを一枚取り出して一言書くと、予備の消しゴムと共にススッと天使様の前に押し出した。


〝よければどうぞ〟


 それを読んだ天使様の顔がパッと輝いた。その輝くような笑顔のままで、天使様もノートを切って返事をくれる。


〝ありがとう!〟


 うんうん。そんなに喜んでもらえると、消しゴム二号くんも本望だろう。


 天使様は勉強を始めたので、わたしも参考書を出して勉強を始めた。時々、息遣いや鞄から何かを出し入れする音が聞こえて、そこに天使様がいるのを実感する。学力アップにつながっているかといわれると苦しいけど、最高に幸せな時間なのは間違いなかった。

 そんなことを考えていたら、スマホのランプがメールの着信を知らせてきた。

『ごめん、帰れなそうなので、夕飯お願いします』

 お母さんだった。今日は早く帰れそうだから夕飯はまかせなさいといっていたのだけど、予定が変わったらしい。まあ、お母さんのまかせなさいを百パーセント信じる程、わたしの娘歴も短くない。

 はあ……納得はしているけど名残は惜しい。せっかくいい雰囲気だったのに。だけど、わたしがご飯を作らなければ一家三人ペコペコなお腹を抱えて切ない思いをすることになるわけなので、ここはおとなしく帰るしかなかった。


「あ」


 荷物をまとめてふらふらと出ていくわたしの背中で、声が聞えた気がしたけど、わたしの頭には届いていなかった。



 翌日、図書館にやってくると、わたしに気付いた天使様がパッと嬉しそうな顔をした。

 昨日の続きができたらいいのに、とわたしは確かに思っていたのだけど、祈りは天に自動的に届いていたみたいだった。昨日のわたしはいい子だったから、サンタさんもイエス様も気を利かせてくれたのかもしれない。

 天使様は手元の紙にいそいそと何かを書いて、わたしがコートとマフラーを脱いで椅子に座ると、それをこちらに送ってきた。

 可愛らしいテディベアの絵柄のメモ用紙。その真ん中には


〝きのうはありがとう〟


 の文字。それに、新品の消しゴムが添えられていた。

(えー?!)

 消しゴムは確かに貸したまま忘れていたけど、使ったまま返してくれればよかったのに。というか、そのまま持って行ってくれても全然よかった。それに、このメモ用紙はわたしにメッセージを送るために用意してくれたんだろうか。

 お礼をいいたいけど、この可愛いメモ用紙に、お返事がコ○ヨのルーズリーフでは……。

 わたしの中の謎の対抗意識に火がついた。〝折り紙ことちゃん〟と呼ばれたわたしの腕前を見せてあげよう。

 ルーズリーフを角から折り曲げて、上の辺を右の辺に重ねる。そして、紙が重なった三角以外の部分を定規を使って切り離して正方形の紙をつくった。即席折り紙を使って、クマをつくる。最後にペンで目をちょんちょんと書いて出来上がり。

 そして、切り取った紙に〝どういたしまして。可愛いメモありがとう〟のメッセージを書いて天使様の方へ両手で押し出した。

 受け取った天使様は、


「わぁ」


 と、小さな声をもらして、顔をほころばせた。



〝私、仁村クリスティンといいます。お名前、聞いてもいいですか?〟


 天使様からのメッセージ。

 クリスティンさん、素敵な響きだな……。だけど、名字が仁村さんということはハーフなのかもしれない。メモ書きとか見ても、日本語も上手みたいだし。

 わたしもすかさず返事を返す。


〝室見言葉です〟

〝ことばさん?〟

〝あ、ことは←てんてんがないの です〟

〝ことはさん、なんですね。私のことはクリスって呼んでください〟


 わたしは夢でもみているのだろうか。天使様、改めクリスとこんなに親しく話して、名前まで教えてもらえるなんて。



 あれから、図書館でクリスにあうと、メモでやり取りをするようになった。

 ……クリスって、呼び捨てにしていいのかなと思ってしまうけど、クリスって呼んでと言われたので(言われたので!)。それにクリスも口調(文調?)は敬語だけどコトハって呼び捨てにしてくれるので、外人さんのノリだとそんな感じなのかもしれない。


 今日も閲覧室に入って席に着くと、わたしは折り紙を取り出した。

 図書館にやってきて、いきなり折り紙を取り出す高校生というのも謎だけど、クリスが喜んでくれるので、最初のメッセージには折り紙をつけているのだった。

 クリスもそれをわかっているので、わたしが折り紙を折りはじめるのを黙って見ている。いや、今日は少しいつもと様子が違った。黙ってみてはいるんだけど、いつもより真剣というか。

 そして、出来上がった鶴(定番のあれだ)と〝今日も寒いね〟というわたしのメモを嬉しそうに受け取ると、クリスはノートの下から一枚の紙を取り出して折り始めた。


(もしかして、見て覚えたの?)


 と思って見ていたけど、途中から手順が怪しくなってきた。千羽鶴なんてものがあるくらいだから、鶴は見た目の華やかさのわりに誰にでも折れるものだけど、一度見て覚えられるかというと怪しい。

 そうしてみていると、クリスが助けを求めるような目でわたしを見てきた。

 ……こうやって話すようになって分かったことだけど、天使様のように綺麗で隙のない見た目に反して、クリスはちょっと子供っぽいくらいに素直で、表情豊かなのだった。

 仕方ない。ということで、わたしは手品師のようにもったいぶって、両手で一枚の折り紙を取り出した。

 おー、というような形にクリスが口を尖らせて、拍手のふりをする。

 それを受けて、わたしはゆっくりとわかりやすいように鶴を折っていった。

 わたしの手順を真似するように、クリスのほっそりとした白い指がパステルグリーンの折り紙を折る。

 身振り手振りと手元のお手本だけで説明するのが面白くなってしまって、わたしは笑ってしまった。見ると、クリスもとても楽しそうにくすくすと笑っている。

 わたしの視線に気づくと、クリスは姿勢をきちんと正すと、人差し指を口に当てたので、わたしもシーっと声には出さずに人差し指を立てる。そして、またおかしくなってしまって、二人で笑った。



 ある日、閲覧室に入る前にお手洗いに行ったことがあった。

 すると、丁度そこから出てきた制服の姿。


「あ、クリス」


 だけど、クリスは私の声が聞えなかったのか、わたしと反対方向に少し早足に去っていってしまった。

 その後、閲覧室にいくとクリスが居て、いつもみたいにメモでやり取りをしたので、私はこのことをすぐに忘れてしまった。



◇   妹って可愛いですか?   ◇



 折り紙のおかげですっかりクリスと仲良くなって、今日もわたしが席に座ると、クリスからメモが飛んできた。ちなみに、クリスの通う女子高は、この図書館の最寄り駅を挟んで反対側にあるので、電車にのってやってくる私よりもクリスは大抵先に来ている。

 返事を書こうとしたところで、スマホが光る。妹から電話だった。


〝妹から電話きたから、ちょっと出てくるね〟


 とメモを残して、閲覧室を出る。



『お姉、わたしのプリン食べたでしょ!』


 ……うん、ちょっと嫌な予感はしてた。お叱りの内容でなければ、妹もお母さんも基本的に連絡はメールで済ますのだ。

 弁解をするなら、妹のものは姉のものと思っていたわけではない。昨晩、わたしが冷蔵庫にプリンを発見した時、妹はもう寝てたから、食べてしまっても今日の帰りに買って帰れば大丈夫と踏んでいただけなのだ。

 そのように説明をしたけど、食べたいタイミングでプリンを食べられなかった妹の怒りはおさまらなかった。


「ごめんって、帰りに買ってくから」

『〇×△☆◇!』


 ……結局、わたしは帰りにプリンを四個買っていくことになったのであった(一つはわたしの分、一つはお母さんの分である)。


 はー、昔は可愛かったのにどうしてあんな恐ろしい子になってしまったのだろう。自分の盗み食いを棚に上げてため息をついていると、クリスからメモが来た。


〝妹って、かわいいですか?〟


 ん? わたしは少し考える。これまでとはちょっと毛色の違う問いかけだった。


〝うーん、どうだろ。可愛くなくはないけど……ちょっと怖い〟


 少し考えてメモを返した。

 うん。最近はすっかり生意気になって、口喧嘩でも勝てなくなったしなー。と、たそがれていると、クリスから短い返事が返ってきた。


〝わたしも怖いです〟


(え?)

 わたしは思わずクリスの顔を見てしまう。

 笑顔はなくて、どこか不安そうな表情。

 待って。わたしの妹怖いは饅頭怖いネタではないけど、冗談というか軽口だ。そりゃあ、生意気だし、口喧嘩で勝てた記憶がもう三年くらいないけど、なんだかんだいっても可愛い奴だとは思ってる。

 わたしが悶々としていると、クリスがメモを差し出して立ち上がった。


〝今日はそろそろ帰りますね〟



 家に帰って、今日は早く帰っていたお母さんの作ったご飯を妹と三人で食べた(デザートにプリンもついた豪勢な夕飯だった)。そして、お風呂を済ませてベッドで転がって、図書館での会話を思い出す。

 あれはどういう質問だったんだろう。

 なんだか、誤解をこのままにしておくのは不安で、わたしは手紙を書くことにした。クリスと妹さんの関係のことはわからないけど、クリスがわたしの言葉を参考にしたいんだとしたら、わたしと妹の関係が間違って伝わると、何かよくない気がしたから。


〝クリスの妹さんのことはわからないけど、わたしの妹は口が悪くて生意気な奴です。でも、照れくさいから面と向かって言うのは無理だけど、泣いて欲しくないし、どうせなら笑っていてほしいし、やっぱりわたしは妹が可愛いんだと思います〟


 次の日の放課後、手紙を鞄に入れて図書館に行くと、幸い今日もクリスは来ていた。

 思い切って、クリスの隣の席に座る。そして、コートを脱ぐ前に、クリスに封筒に入った手紙を差し出した。

 少し驚いたみたいにわたしの手紙を受け取って、封をしていないのに気づくと、クリスは中の手紙を取り出して読み始める。

 伝わるだろうか。

 クリスは初め少し悲しそうな顔をして、だけどその後にその表情を少し残したまま笑ったみたいな顔をした。

 わたしがコートとマフラーを脱ぎ始めると、クリスはいつものテディベアのメモ用紙に、いつもより長いメッセージを書きはじめた。そして、わたしが参考書やノートを出し終えたところで、クリスがそのメモを両手でわたしに手渡してきた。


〝真剣に答えてくれてありがとう。妹とはまだ一緒に住むようになって一年で、妹はわたしのことを慕ってくれます。だけど、いつかがっかりして離れていってしまうんじゃないかって思うと、わたしは怖くなってしまうんです。だけど、わたしも妹のこと、可愛いです〟


 よかった。事情はちょっと複雑みたいだけど、大切に思える気持ちがあるんならきっと大丈夫だと思う。

 というか、考えすぎじゃないだろうか。こんな綺麗で優しいお姉さんがいたら自慢したいくらいだと思うんだけど。それとも、なにかがっかりされるような秘密がクリスにはあるんだろうか。知りたいような知りたくないような。


〝わたしなんてがっかりされてばっかりだよ。今じゃ妹がわたしを敬うのは揚げ物を作るときくらい〟


 わたしが返事を書いていると、隣のクリスが椅子を寄せて覗きこんできた。

 顔が近くて、金色の切れてしまいそうなくらい細い髪が頬に触れる。普段から、クリスの近くにくるとふわりと花の香りがすることがあるのだけど、この距離だとそれがよりはっきりと感じられた。

 わたしが書き終ると、今度はクリスがシャーペンをわたしの紙の上ににゅっと伸ばして、わたしに何か尋ねるみたいに首を傾げた。

(書いていい?)という意味なんだとわたしは察して、こくこくと頷く。


〝揚げ物? ポテトフライトとか?〟


 クリスが紙の端の方の余白に書いたので、わたしはそこに矢印を引いて返事を書きこんでいく。


〝そうそう、からあげとかコロッケとか。一番はエビフライ〟

〝どうして揚げ物??〟


 ?マークを顔に貼りつけてわたしの顔を覗きこむクリス。本当に、すごく表情が豊かなのだ。この天使様は。昨日の深刻な表情はどこにいったのだろう。


〝揚げ物は油を使って危ないから妹はできないの。だから、わたしかお母さんがいるときしか、妹は大好きなエビフライを食べられないというわけだね〟


 自慢げなわたしの顔に、意味がわかったのか、おかしそうに笑った。声にはなってないけど、こぼれる息遣いが鈴の音色みたいだった。



◇   パンドラの箱   ◇



 クリスの声が聞きたい。

 ある日目覚めて、わたしはそんなことを思った。たしかクリスの出てくる夢を見たんだと思う。うん、まことに遺憾ながら内容は覚えていないんだけど。

 人とは欲張りなもので、天使様のお姿を遠くから見ているだけで幸せだったわたしは、いつの間にかクリスと手紙のやり取りをするだけでも満足できなくなっていたのだった。話す声を聞いたことはないけど、笑った時とかに時々こぼれるクリスの澄んだ声は、それだけでもとても綺麗なのだ。

 だけど、わたしとクリスの関係は図書館友達というようなもので、会うのは図書館の中だけ。図書館の中でおしゃべりするわけにはいかないから、メモのやり取りをしているのである。

 外で会えないかな、とか思ってみたけど、そんなお誘いをするほど仲がいいのかというと自信がない。少し前の自分からしたら、名前で呼び合っているだけで何かの間違いレベルの奇跡なのだ。

「駄目なら断るでしょ。誘ってみればいいじゃん」とは妹の弁。

 そうなんだけどさー。というか、今の言葉を翻訳すると、片付かないからさっさと食べろという意味なのであった。



「室見さーん、おーい、起きてますかー」


 はっ。気づくと、教壇のちーちゃんこと英語の千々谷先生が呆れた顔でこちらを見ていた。クリスとどうやって外で会うか考えていたら、授業がすっかり上の空になってたみたいだった。


「はあ、お帰りなさい? 続きから読んで」


 隣の席のみっちゃんが小声でページを教えてくれる。

 英語は苦手というわけでもないんだけど、会話は駄目だった。なんというか、あの〝いい発音〟を求められるのが恥ずかしい。その結果、わたしは今日も〝でぃすいずあぺん〟的な発音で教科書を読むことになるのであった。



 学校から家に帰る途中にある駅で電車を降りる。館浜市立図書館はこの駅が最寄りなのだ。電車を降りるのは手間だけど、定期券が使える場所にお気に入りの図書館があるのは運がよかった。

 改札を出たところで、少し前を歩く金色の髪を見つけた。コートからのぞくチェックのスカート。クリスだ!

 あれだけ悩んでたのが馬鹿らしくなってしまうくらいあっさりと、チャンスが目の前に転がってきた。今日は短縮授業で帰りが早かったから、いつもは先に図書館に来ているクリスとタイミングがあったのかもしれない。

 声をかける? わたしは一瞬迷う。

 急いで追いつかないと図書館はすぐそこだから、クリスは図書館に入ってしまう。そうなると、声をかけてクリスとおしゃべりすることはできない。数秒悩んで、わたしは駆け出した。

 ……この時、わたしの頭の中から、あの日の記憶はすっかり消えてなくなっていたのだ。



「クリス!」


 わたしの声に反応して、前を歩くクリスの肩がびくっと動いた。

 だけど、クリスは振り返らない。


「クリス? わたし、言葉」


 小走りで横に並んだ私にそう言われて、クリスは立ち止まってこちらを向いた。一瞬、人違いだったらどうしようと思ったけど、そんなことはなかった。

 だけど、その表情はわたしがみたことのないものだった。

 驚いた、というのはあるのだろうけど、それだけではなくて、何か怖いものを見るみたいで、半開きの口はかすかに震えていた。

 

「あ……」


 そういって、口をぱくぱくさせる。だけど言葉はでてこない。

 どうしたんだろう。もしかして、驚かせてしまっただろうか。

 わたしが心配している間にも、クリスはうつむいてしまう。

 ……様子が変だ。ただ驚いているというだけとは思えない。わたしは自分が何かをやってしまったことを理解した。だけど、何を?

 わたしは軽く膝を曲げてクリスの顔を覗きこむ。


「あの……クリス?」


 わたしの言葉に反応したみたいにクリスは顔を上げた。そして、口を動かして、だけど、声はでてこない。目には涙がにじんでいた。

 わたしはクリスに手を伸ばす。

 だけど、その手が届く前に、クリスは振り向いて走っていってしまった。


「……クリス?」


 何が起きたのか、わたしには理解できなかった。

 その日、わたしが帰る時間になっても、クリスはやってこなかった。



 寝不足のまま夜が明けた。

 連絡を取ろうにも、わたしはクリスのメールもSNSのアカウントも携帯番号も知らない。わたしとクリスのつながりは、図書館のあの場所しかないのだった。

 とにかく学校が終わったらすぐに図書館に行く。そして、何がまずかったのかわからないけど謝ろう。そう決心して眠い目をこすりながら授業を受けた。


 午後の授業が一つ終わったところで、妹からメールがきているのに気がついた。


『ごめん、早引きしたから夕飯つくれない』


 今日は妹が夕飯の当番だった。揚げ物は作れない妹だけど、料理ができないわけではない。きちんとレシピ通りに量って作るからお菓子とかは妹の方が上手だった。

 我が家は、お母さんの仕事が忙しいから、早く帰ってくる日以外はわたし達姉妹が交代で夕飯を作っている。その当番ができないといっているわけだけど、妹はズル休みをするような奴ではなかった。


『大丈夫なの? 熱測った?』

『38度5分』


 立派な風邪だった。


『わかった。何か食べたいものある?』

『みかんのゼリー』

『買ってくから、暖かくして寝てなね』

『うん』


 具合が悪いのだろう、素直な反応だった。可愛いものだけど、今ばかりは可愛くなくていいので元気でいてほしいと思ってしまう。

 元気なうえで素直で可愛いならお姉ちゃんとしても大歓迎なんだけどね?


「はー……」


 スマホをスカートのポケットにしまってため息をつく。

 今日は図書館には行けなそうだ。



 妹の風邪は翌日も続いて、わたしは放課後まっすぐ帰ることになった。夕飯の支度もしなければならなかったし、妹に心細い思いをさせたくなかったから。

 結局わたしが図書館を訪れることができたのは更に二日後のことだった。


 図書館のいつものテーブル席でクリスを待った。急に声をかけたことを謝って、もし聞けたら、何があったのかをを聞いて、そんなことを考えながら。

 だけど、この日も次の日も、クリスは図書館に姿をあらわさなかった。



◇   二羽の鶴   ◇



 きっと、わたしは何かを間違えたんだと思う。

 自分の部屋で、引き出しにしまってあった箱から、二人で折った折り紙と、クリスからもらったメモや手紙を一つ一つ取り出していく。


 今にして思うと、あの時、化粧室から出た時に見かけたのはクリスだったんだろう。理由はわからないけど、クリスは図書館の、というより閲覧室の外でわたしと話をしたくなかったのかもしれない。

 単にわたしと話をしたくないなら、クリスがわたしに声をかけてくる必要はなかった。わたしは〝天使様〟を遠くから見ているだけで満足していたのだから。

 そんなわたしに声をかけて、可愛いメモ帳を用意して、距離を縮めてきてくれたのはクリスの方だった。

 閲覧室では話したいけど、外では話したくなかった? 

 どうして?


「わからないよ……」



 本日の夕飯は妹御所望のエビフライ。

 あの日、図書館でクリスと、わたしのノートに二人でメッセージを書きあったのを思い出す。切れてしまいそうに細いクリスの髪と花の香りと一緒に。


「お姉ちゃん、揚げ物しながらぼんやりしないでよ」


 おっと、そうだ。揚げ物中に考え事とか絶対ダメな奴だ。


「ごめん、ちょっと話しかけてて」

「は?」

「考え事しちゃいそうだから」

「……そういえば、図書館の天使様はどうなったの?」


 怪訝そうな顔をしながらも、言う通りにしてくれたのはいいのだけど、いきなり核心に迫られた。話しかけろといった手前、スルーもできない。

 カラカラカラと軽い音を立てながら、油の中で白い衣に色がついていく。


「会えなくなっちゃった」

「え、なんで?」


 きつね色に揚がった海老を網の付いたバットに上げて、次のエビを投入する。


「駅の近くで見かけて話しかけたら、図書館にこなくなっちゃって……」


 妹が不審な目を向ける。


「……何したの」

「何もしてない、と思うんだけど……」


 妹は少し考える。


「日本語が話せなかったとか?」

「でもメモは書いてたし」

「そっか……」


 いつもの憎まれ口がでてこない。いかんいかん、心配されてる……。


 ご飯とお味噌汁をよそってテーブルにつく。お母さんがいる時はもちろん三人で食べるけど、妹と二人というのが我が家では一番多い夕飯の形だ。


「……でもさ、お姉ちゃん、英語で外人さんと話せる?」


 何が〝でも〟なのかと思ったら、さっきの話の続きだった。ずっと考えていてくれたのか。それはそれとして、答えははっきりしている。


「話せるわけないじゃん」

「でも、答案とかには英語、書いてるんだよね?」

「いや、書くのと話すのとは違うし……あれ?」


 妹の言っている意味が分かった。英語の成績はお世辞にもいいとは言えないわたしだけど、曲がりなりにも英語を読んだり書いたりはしている。だけど、外人さんと英語でコミュニケーションが取れるかというと全く自信がない。読み書きができることと会話ができることは全然イコールではないのだ。


「……一個あげる」


 わたしはエビフライを一個、妹の皿に移した。


 クリスは本当は日本語が話せなかった?

 それでわたしと話ができなかった?

 だけど、それだけであんな風に泣きそうな顔をして逃げだしたりするだろうか。



「お姉ー、友達来てるから飲み物もってきてー」


 帰宅したわたしに、いきなり妹が二階から呼びかけてきた。人使いの荒い奴である。まず、お帰りなさいとか、お姉ちゃん大好きとか、言うことがあるだろう。

 だけど、普段の妹は友達くるから部屋に入るなというタイプだった。どういう風の吹き回しだろう。どれどれ、そこまでいうなら妹の友達がどんな子なのか見たり、妹が学校ではどんな感じなのか聞いたりしてやろう。

 はい、こんな調子だから部屋に入るなと言われるんですね。知ってた知ってた。

 なんてね……


 外が寒かったので、わたしは自分の分も一緒にココアをつくることにした。お友達の好みはわからないけど、ココアが嫌いな地球人はきっといない。

 二人分(みたことのない靴は一足だけだったので)のココアにクッキーの小袋をお盆に乗せて二階に上がる。妹の部屋の前にくると、待っていたのだろう、勝手にドアが開いた。

 妹の「ありがとう」という声は、だけど、私の耳には届かなかった。


「オジャマシテマス」


 天使がいた。

 妹の部屋の小さなテーブルの前にちょこんと座った女の子。校章の付いたクリーム色のカーディガンにチェックのスカート。クリスのものに似た制服なのは、妹と同じくクリスの通う女子高の附属中学の子なのだろうから当然か。だけど、金色の髪にブルーの瞳で、妹が日本人形なら、この子はフランス人形だった。

 顔だちも明らかに日本人離れしていて、この子に比べるとクリスは顔だちが少し日本人っぽかったんだと気づく。だけど、その点を除けば、クリスを小さくしたみたいだ。


「あの、あなたお名前は?!」

「ちょっと、お姉、やめてよみっともない」


 違う、そうじゃない、姉を何だと思っているのだ、あ、ごめんなさい、言わなくていいです。


「ベアトリス・リチャードソンです」


 違った……そんなうまい話があるはずがなかった。だけど、私のがっかりした様子に気付いたのか、言葉が続いた。


「……あの、仁村ベアトリスともいいマス」


 そんなうまい話があった。仁村クリスティンと仁村ベアトリス、もしかしてこの子がクリスが言っていた妹さん?

 考えてみれば、妹とクリスの妹さんが同じ学校なのはわかっていたから、こんな偶然もありえるのかもしれない。


「あの、お姉さん、コトハさんですか?」

「え?」


 わたしのことを知ってる?



 思った通り、ビーちゃん(クリスティンがクリスになるみたいに、ベアトリスを縮めるとビーになるのだそうな)はクリスの妹だった。ビーちゃんはクリスからわたしのことを聞いていたらしい。

 だけど、名乗る前からわたしの名前が分かった理由はなんだろう。もしかすると、今日ビーちゃんが家に来たのは偶然ではなかったのかもしれない。

 それも気になるけど、わたしがまず知りたかったのはクリスが元気にしているのかだった。だって、もしかしたら何かの病気とか、もっと最悪のことだってありえないわけではないから。


「それは大丈夫デス!」


 と、その心配はすぐに晴れた。


「でも、ワタシの前では、平気そうにしてるんですけど、ドアにぶつかったり、お茶を倒したりして変なんデス。それに、前までコトハさんのこと、嬉しそうに話してくれたのに、今は聞いても……」


 ズキン、と胸が痛んだ。


「あの、もしかして、クリス、お姉さんは日本語話せないの?」


 その問いに、ビーちゃんの顔が曇った。


「家族とは話せるんですけど……」


 家族とは話せるけど、他の人とは話せない? どういうことだろう。

 少し迷ったような表情を見せた後で、何かを決意したみたいにビーちゃんが口を開いた。


「日本に来たばかりの頃に、日本語が変だって笑われたのがきっかけで、話せなくなったって……聞いてマス」


 わたしは目の前が真っ暗になった。

 その笑った人が誰で、どういうつもりだったのか、わたしにはわからない。

 だけど、そういうことは、きっとあるのだろうとはわかってしまった。

 クリスの話を聞いたばかりだから、自分だったら絶対笑ったりしないって言いたくなるけど、そうじゃなかったらどうだろう。悪気は全くなく〝微笑ましい〟と、笑ってしまうことはないだろうか。

 だけど、それが勇気を出して話した人の心を傷つけてしまうこともわたしは知っていた。わたしが〝いい発音〟で英語を読もうしないのも同じ理由だから。

 そして、それが〝持ちネタ〟みたいになってしまって、自分が口を開くたびに笑われたら……。それは二度と日本語を話せないくらい深い心の傷になってしまうのかもしれない。


 あの日の泣きそうなクリスの顔と、図書館で楽しそうに笑っていたクリスの笑顔を思い出す。

 クリスがわたしと話してくれるようになったのは、言葉で話す必要のない図書館での友達だったからなのかもしれない。

 それなら、それでいい。また図書館で会って、メモをやり取りして、一緒に笑いたい。

 それがわたしの、不純で、だけどなにより純粋な願いだった。

 わたしはクリスの声が聞きたかったけど、それはクリスを苦しめてまで望むようなことじゃ絶対にない。


「じゃあ、お姉が英語で話せばいいんじゃないの?」

「ぐ」


 それはその通りなのかもしれないけど、そのためには越えなければならないハードルがですね……。わたしが英語がペラペラになるまで、クリスはわたしと友達でいてくれるだろうか。いや、今はそれ以前の問題だった。


「ビーちゃん、クリスに手紙を届けてくれる?」

「ハイ! ヨロコンデ!」



 自分の部屋に戻って、手紙を書く。


〝ビーちゃんに聞きました。もう外で話しかけたりないから、また図書館で会えませんか〟


 それを丁寧にハートの形に折った。

 そして、引き出しからとっておきの紺と緑の千代紙を取り出す。

 それを丁寧に折って、二羽の鶴に形作っていく。

 わたしは思い出す。

 クリスの細い指が、少しぎこちなくパステルグリーンの紙を折る様子を。

 最後に鶴が翼を広げた時に見せてくれた図書館全体が明るくなるような笑顔を。

 雫を紙に落としてしまって、慌てて拭った。

 出来上がった二羽の鶴はわたしのセーラー服みたいな紺色と、クリスのブレザーみたいなモスグリーン。それを崩れないように、手紙と一緒に部屋にあった紙の箱にしまった。


「ごめんね、ちょっと大きくなっちゃった」


 妹の部屋に戻って、箱をビーちゃんに手渡した。


「必ず届けマスカラ!」


 ビーちゃんは胸に手を当てて言ってくれた。


 妹の言うように、私が英語を話せたら問題はなくなるのかもしれない。どうして、世界にはいろんな言葉があるのだろう。

 バベルの塔のなんとか王さんも余計なことをしてくれたものだった。



 翌日、英語の授業が終わったところで、わたしは職員室に戻るちーちゃん先生を捕まえた。


「先生、英会話がすぐに上達する方法ってないですか」


 普段、質問しにくることなんてないわたしの質問に、ちーちゃんは少し考える。


「うーん、結局、話してみるのが一番だったりするんですけどねえ。まあ、今の子は失敗を怖がりますからね。でも、旅行先で英語を話さなかったら死ぬ、みたいに追い込まれたら何とかなるものよ?」


 可愛い顔して豪傑なちーちゃん先生はアメリカでスリにあって、ヒッチハイクで空港に辿りついた時のことを笑顔で教えてくれた。……正直、私はそこまで冒険家にはなれそうにはない。



◇   わたしの言葉   ◇



 放課後、わたしは図書館でクリスを待った。

 だけど、そもそもクリスがわたしより後から来ることは、今までほとんどなかった。わたしが閲覧室に入ると、クリスが先にいて本を読んでいる場合がほとんどだったのだ。 

 それでも、いつものテーブルに座って、ほんの少しの可能性を信じてわたしは待った。妹が、風邪で寝ていた時の分の当番を代わると言ってくれたので、閉館までねばるつもりだった。

 待っている間もクリスのことを考える。

 いつも先に来ていたから、クリスは図書館に向かう途中でわたしに声をかけられるとは思ってなかったんだろうなと、今更気づいた。

 あの日もきっと、図書館でわたしとあんな話をしよう、こんな話もしようと思っていたに違いなかった。期待に胸を膨らませながら。

 ……わたしに声をかけられる、その瞬間まで。



 閉館時間になって図書館から出ると、もうとっくに日が暮れていた。

 クリスは来なかった。

 悲しい考えに捕らわれそうになって首を振る。明日も明後日も、ここでクリスを待とう。そう決意して、今日は急いで帰ることにした。


 夜の闇に浮かぶ洋館は、雰囲気たっぷりで少し怖い。だけど、その怖さに惹きつけられて、かえってじっくりと見てしまう。

 見上げる洋館の威容は真っ黒で、だけど目を凝らすと煉瓦づくりの壁が見えてくる。丸いカーブを描く天井、張りだした窓、そして今は使われていない玄関に向かう凝った装飾の階段。

 その階段の陰に、一瞬、遠くの街灯の光を反射する金色のものが見えた。

 金色の……髪?


「クリス!」


 わたしは駆け寄る。そして、あの日見たコートを着た金色の髪、クリスがそこにいるのを見つけた!

 こちらに気付いて、少し迷ったそぶりを見せて、だけど、あの日みたいに背中を向けようとする。


「待って!」


 ビクッと、クリスの肩が震える。

 しまった! これじゃあの日と同じだ。

 クリスが行ってしまう。もしかしたら、もう図書館に来てくれることもないかもしれない。

 だけど、どうしたら……


「う、うえいと!」


 焦りに焦ったわたしは、英語で話せばいいんじゃ、という妹の言葉を思い出して、ほとんど反射的に言葉を発していた。

 こんな日本語英語が通じるだろうかと思ったけど、クリスは駆け出すことなく、ゆっくり、こちらを振り返った。


「あ、あいうおんととぅーみーとゆーあげいん!」


 クリスの困惑した表情。

 わたしは恥ずかしくて顔から火が出そうだった。 

 だけど、話さなかったら死ぬなら、クリスと二度と会えなくなるなら、何とかするしかないのだ。少なくともクリスは走って逃げだしたりはしていない。

 クリスに言いたいこと、伝えたいことは山ほどある。だけど、そのほとんどがわたしの英語力では翻訳不可能だった。それでも、必死で文章を組み立てる。


「あいうおんととぅーびーゆあふれんど!」


 そうだ、be動詞だ、よく覚えてたなわたし。半ばヤケ気味に自分を褒めながら、少しずつクリスとの距離をつめる。

 わたしはクリスに謝りたかった。謝る、謝るってなんだっけ、


「あ、あいうおんととぅー……その、謝りたくて!」


 それは日本語だ!


「あう……」


 早くもわたしの英会話力が底をついた。それと同時にわたしの足も止まる。

 クリスに、まだ、わたしの手は届かない。


(ちーちゃんの嘘つき、なんとかなってないよ……)


 考えろ、わたし! だけど、焦れば焦るほど、頭の中では今考えても仕方のない後悔ばかりが浮かんでくる。

 もっと英語を勉強していれば、恥ずかしがらずにちゃんと英会話も頑張っていれば、あの日、クリスに声をかけなければ、もっと早くクリスの心の傷に気付いていれば。

 ……クリスと仲良くならずに、遠くから見ているだけで満足していれば。

 違う、それは絶対に違う。

 必死で否定するけど、だけど、今クリスと離れてしまったら、クリスの姿を遠くから見ることも、これから仲良くなることもできなくなる。


「クリス……」


 クリスの姿が遠くて、歪んで、わたしの視線は下に落ちていく


「あ、あの!」


 夜の空気に、澄んだ鈴みたいな声が響いた。

 わたしは顔を上げる。その言葉を発したはずのクリス自身も驚いているみたいな顔をしている。


「わたし、も、会いたかった!」


 一言、一言、確かめるみたいにクリスが言葉を紡いだ。

 そして、溜まっていた言葉が溢れだすみたいに話しはじめる。


「ごめんなさい、逃げ出したりして……

 ごめんなさい、会いにこれなくて……

 私、怖くて……あなたに、嫌われたんじゃないかって」


 わたしがクリスを嫌いになることなんてあるわけない。

 言葉と一緒に涙も溢れているみたいで、言葉が震えて頼りなくなっていく。


「……ことはぁ」


 最後に震える声で、わたしの名前をクリスが呼んだ。

 わたしは脚にかかった金縛りが解けたみたいに、クリスに駆け寄った。


 ああ、わたしの知ってるクリスだ。こんな泣き顔じゃなければもっといいけど、表情が豊かで言葉なんてなくても気持ちが全部伝わってくる、私の大好きなクリスだった。

 神様は私達の言葉を通じないようにしたというけど、みんなが今のクリスみたいなら、本当は言葉なんていらなかったのかもしれない。


 わたしの両手がクリスを捕まえる。

 いつか遠くから見ていた天使様を、わたしは両手で思いきり抱きしめた。



◇   図書館の天使さま   ◇



 すっかり暗くなってしまった駅への道、あの日、クリスと離れ離れになっしまった場所を、二人で手をつないで歩く。

 誰かと手をつないで歩くのはいつ以来だろう。お母さんや父親だった人と手をつないで歩いた小さな頃、妹とはわたしが中学に上がるくらいまではつないでいたかな。お隣のみっちゃんとは中学に入ってからも、何かの折に手をつないで帰った記憶がある。

 だけど、今クリスとつないでいる手は、そのどれとも違う意味がある気がした。



 放課後、わたしは荷物を手早くまとめるとコートを着て、髪の上からマフラーを巻いて、ざわつく廊下に駆け出した。

「廊下を走っちゃ駄目よ!」というちーちゃんに両手を合わせて、今日だけはいいつけに背いてしまう。

 駅まで走って、そこから電車で二駅。

 着いた駅からすぐの所に、わたしの大好きな、明治時代の洋館を使った図書館がある。

 閲覧室に入って、入り口近くの本棚の林を抜けると、そこに金色の髪が見えた。


「ことは!」


 クリスが声を上げてしまって、周りの注目を浴びる。すいません、すいませんと言葉には出さずに頭を下げるクリスの向かいの席にわたしは座った。

 赤い顔をしたクリスが、テディベアの柄のメモ用紙を押し出してきた。

 それを読んだ私は、クリスの顔を見る。そして、ぷっと噴き出して、二人で一緒に、声を出さないように笑った。


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