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瀬織姫と牛彦

作者: 吉田夏帆史

織姫彦星をモチーフに書こうとしたのですが、私が思っていたのは羽衣伝説のほうでした

彦星をいい人に書きたい!としたら、こんな風になりました

青々と、青々と豊かに穂が揺れている

青々と、青々と下草も拍子を取るように

風の指揮者に合わせて小鳥さえも囀り、舞うような…

「やっぱり、ここはいいわね」

瀬織姫こと、この景色の持ち主の娘はゆっくりと伸びをした

大地主の令嬢ではあるが、気取った素振りもなく、目を閉じて息を吸い込む

「朝はもっと空気が澄んで、朝露も煌めいて、それはそれは美しいですよ」

近くにいた牛飼いが、牛の世話をしながら話しかける

子供のとき、どこからか貰われてきた彼は、瀬織姫と幼馴染みでもある

牛の世話をするから牛彦と安易な名前を付けられていた

「さすがにその時間に抜け出すことはできないわね」

少し残念そうに瀬織姫は肩を落とす

「朝は、皆で読経をしてお掃除をして、それから朝ご飯をいただくのだもの」

ねぇ、牛彦は朝は一体何をしているの?

瀬織姫はつと、振り向いて尋ねた

「そうですね…」牛彦は少し考える「自分の顔を洗うついでに、飲み水を汲んできます。それから牛の世話をして…

私は牛彦ですから、朝も晩もずっと牛の世話をしてますね」

「ふぅん」

それから瀬織姫は、私もう行かなきゃとポツリと呟いた

「今日は大事な用事があるって聞いているの。大事なお客様をおもてなしするんだって」

「さようですか。では」

「ええ、また明日にでも来るわ」


瀬織姫は言葉通り、また次の日、荘園に顔を出しに来ました

牛彦、牛彦、と彼を呼びながら、牛小屋に駆こんできます

「どうしたんです、慌てて」

牛彦は、のんびりと牛を従えてやってきました

そして瀬織姫の様子を見ると、1杯水を差し出しました

「ありがとう」

瀬織姫は一息に水を飲み干すと、どうしたものかと困った顔をします

「あの…」と口にしては、言い淀んでしまいます

牛彦は何も言わずに、牛を撫でて待ちました

「私、遠くへ行くかもしれなくて…」

瀬織姫は、考え考え漸くそのように言いました

「それはどのくらい?」

牛彦は、寺参りか何かだと思ってそう尋ねました

瀬織姫は首を振ります

「違う、ずっと…ずっと…。私、ここがこの荘園がとてもとても好きなのに…」

瀬織姫はポツリポツリと項垂れながら、昨日のことを話し始めました

父親と仲のよい貴族が来ていたこと。その人が息子を連れてきていたこと。家同士の結び付きを強めるために、一緒になって欲しいと言われたこと。

けれど自分は、ここを離れるなんて思いもしていなかったこと。

「丸一日かかるのよ、お父様の土地から出るのに…だから私、ここ以外の景色をほとんど知らないわ」

「誰しもがそうですよ」

牛彦は言います

「私は父も母も知りません。ただ、確かにここを離れろと言われたら戸惑いますが、同じく牛飼いとしてなら大丈夫な気がしています」

「それは…どういう意味?」

「どこの貴族さまも自分の農地をお持ちですよ。同じように山があって、川があって、人がいて、牛がいて、きっと牛飼いもいるでしょう」

「でも…」

でも牛彦はいないわ、と瀬織姫は小さく呟きました

「お父様もお母様もいないわ、お世話係として親しい下女は連れていけるだろうけど…

 ねぇ牛彦、私この荘園の主になれないかしら?」

「主は、お父様であり、お兄様ですよ」

「冷たい人ね、もし、よ。私がこの荘園の主になって、誰かを婿にして暮らしていけたら…」

「そうなったら、私はお役ごめんですかねぇ」

牛彦は、笑いながら何だかんだと牛小屋で仕事をし始めました

もう、と瀬織姫は不機嫌そうに「どうしてそうなるのよ」と言います

「だってねぇ、お婿さんからしたら、他の男と話しているだけで嫌でしょうよ」

「じゃああなたが…」

瀬織姫は言いかけて、やれやれと首を振った牛彦に言葉を詰まらせました

「お姫様は、ただ知らないところが不安なだけですよ。誰でもそうです。けどね、お母様だって知らないだらけのこの土地に来て、今はそれなりに楽しそうじゃないですか」

「そうだけど…」

牛彦は笑って、「顔が気に入らないなら、他の方がいいと仰ったらどうです?」と言い捨てて、行ってしまいました


幼い頃からずっと、この景色が当たり前だった

姫様姫様、と傅かれてお屋敷の中で、ただ静かに過ごすよりも、のどかな荘園に出向いて仕事をする人たちを眺めて

蟻やイナゴやバッタなんかと遊んで、蝶々を追いかけて

そして、いつの間にか牛彦が来て、一緒に遊んでくれるようになった

前にいた牛飼いのおじいちゃんが、まだ幼い彼に少しずつ少しずつ仕事を教えて

またいつの間にか、牛彦は牛飼いとして仕事をすることが多くなっていった

牛飼いのおじいちゃんが引退してからは、牛彦とは遊んでいない

遊ぶような年でなくなっていたし、仕事をしながら少し話をする時間しか取れなくなっていた

それでも、瀬織姫は牛彦が好きだったし、牛彦もきっと瀬織姫が好きだった

友達として、幼馴染みとして、きっと大切な存在だと思っていた

いつか、自分がこの家を出るだなんて思いもしなかった

漠然と、あののどかな荘園で暮らすのだと思っていた

隣の家に牛彦がいて、同じように起きて、同じように牛の世話をして、同じように泥だらけになって笑い合って

子供っぽい、夢みたいな話ではあったけれど、そうあったらいいと思っていた

牛彦の言った通り、荘園はあるだろう、山も川も変わらずに

けど、だけど、どうしようもなく一人な気がした

一緒にいれば情は湧くだろうか? それこそ、牛彦といたのと同じくらいの年月が経てば、彼と同じ存在になっていくのだろうか?

分からない…けれど、同じ存在になって欲しくない気もした

永遠に、牛彦が特別であって欲しいような

「きっと断れないもの」

お父様はいい人だし、お父様のお友達もいい人だし、お嫁に行けばきっと大切にしてもらえる

友達の娘を蔑ろにして、友好関係を崩すようなことはきっとしないだろう

「優しそうな人よ、ほんとうに優しいかは知らないけど…」

牛彦と、あの荘園で暮らすなんて言ったら、お父様は牛彦を他所へやってしまうだろう

この土地から追い出して、人知れず命を奪うことも容易いだろう

あるいは、牛彦に嫁を見繕うか…

「そうね…」

急に、子供の頃より世話をしていた牛飼いを辞めさせるのは怪しいし、そうなるかもしれない

そして、このままただ縁談を断り続けても、牛彦にいつかは伴侶が出来るのだ

なら、せめて

なら、せめて…いつまでもいつまでも、仲のいい友達でいたい

年に一度くらい、里帰りさせてくれるように頼もうと瀬織姫は思った

それが婚姻の条件、あののどかな荘園がとても好きだから、年に一度でいい、あの風を浴びたい

表向きは、年に一度、お父様お母様に会いに行かせてもらうことにして


瀬織姫は行くことにした

お父様もお母様も相手のご家族も、喜んで瀬織姫の里帰りを承諾し

荘園ののどかさが好きな瀬織姫のためにと、向こうの荘園近くに新居が建てられることにもなった

牛彦には、暫く会っていない

忙しいと言い訳をして、全てが決まるまでは会わないようにした

牛彦はきっと何とも思っていない

かたや貴族のお姫様、かたやただの召使い

貴族は貴族と結ばれるものだから…

それでも年に一度、ただの瀬織姫としてただの牛彦として語らえたらいいと思った


瀬織姫が牛彦に会いに来たのは、結納も新居の準備も整って、もう後には引けなくなってからでした

「私、行くことにしたわ」

瀬織姫は、きっぱりと言いました

「さようですか」

「でも、年に一度は戻ってくるわ。そのときは、ここにも来て牛彦ともお話したいわ」

ただの瀬織姫として、ポツンと瀬織姫は言いました

「私は、ただの牛彦にはなれそうもありません」

牛彦は言い、いつものように牛の世話をし始めます

「けど年に一度、姫様の来られるのを心待ちにしております」

「あちらの荘園もきっと素敵だろうけど、私にとっての荘園はここだけよ」

「それは、私にとってですよ」

牛彦は笑って、新しい荘園が姫様にとっての荘園です、と言い切りました

「そうだとしても、そう思っていたいのよ」

瀬織姫は、つと背を向けました

「私、大きな川を越えて行くんですって。その川がお父様の土地とお友達の土地とを隔てているんですって」

「では、その川が溢れないように祈りましょう」

そうね、瀬織姫は言って、思わず牛に抱きつきました

「泣きたい気分よ、もうすでに家が恋しいわ」

牛彦はそっと、瀬織姫の髪を、牛を撫でるのと同じように撫でました

「姫様があちらでも、幸せであれるよう、牛彦は祈りますよ」

「ありがとう…」

大好きよ、瀬織姫は聞こえないように呟きました

牛彦も聞こえないように、空を仰ぎました

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