先輩と僕、それと未来
「キミはこの世界をどう思う?」
窓辺からグラウンドを眺めていた彼女────東西みなみが、何の脈絡もなく問いかける。
時刻は午後五時三十分を過ぎようとしている。未だ昼間時の気温は高いとはいえ、十月も半ばとなっては日暮れも早くなり、部屋に残る西日も徐々に消えつつあった。
校庭のグラウンドでは陸上部が走り込みを続けているのだろう、号令をかける声が聞こえてくる。よくもまあそんなに声を張り上げられるものだと感心する程だ。体育会系のノリが生理的に合わない僕からすれば、運動部に所属している連中は人間ではない異生物のように思える。
そういった考えをもっているのは何も僕だけではないらしい。窓辺に椅子を移動させて、背凭れを体の前面に回してその上に腕と上半身をだらしなく乗せているぼさぼさの長い黒髪の少女、僕より一つ歳上の高校三年生である東西みなみもまたその一人だ。
時刻は夕暮れ、寂れた部屋に男女一組でいるなど、少年漫画ですら何かエロティックな展開がありそうなものだが、僕と彼女の関係に夕刻に肌を寄せ合うということはない。
先程の質問に対し、僕の答えは迅速に相手に伝わった事だろう。顔に書いてある、などという表現が度々使用されるが、まさしくその通りだったに違いない。質問の後に僕の顔を覗き見る東西みなみはその目に嘲笑を浮かべ、「間抜けな顔だな」と吐き捨てた。僕はというと、ネクタイを緩めた東西みなみの華奢な首筋にぼさぼさの髪がかかったアンバランスな美しさを脳内で反芻し、眉を顰めていた。
「どうなんだい?」
世界をどう思うかという質問に答えろと視線で圧をかけてくる。こちらとしては仮にも一つ歳上の女子高生と話をしているのだから、もう少しそれらしい、ファッションだとかスタバのトールがドトールだとか、タピオカがストローに詰まっただとか、そういった話題を提供して欲しいものだ。
「はあ、世界がどう、と言われましても。飽和社会だとか言われてますけど、実際そこまで余裕が無くなることなんてそうそうないでしょうし、今の世界情勢ではそこに戦争景気をアテにしてってことも、」
「あまり慣れない言葉を使うものではないよ吉太郎くん」
「下の名前で呼ばないでくれます?」
「吉太郎くん、私が言ったのはそういう意味ではなくて、もう少し……そう、哲学的な意味での質問なんだ」
僕が下の名前で呼ばれるのを嫌っているのを知っている為、彼女は必ず僕を「吉太郎くん」と呼ぶ。その度に僕はそれを止めるようにと言い、そして彼女はいつも通り無視をするのだ。
「哲学的なと言われても。新興宗教にでも嵌りましたか?」
そんなふうには見えないが。
みなみは心底小馬鹿にした様に鼻で笑い、再び窓の外へと視線を移す。既に日は落ち切っており、東の空に溢された藍色が西の空の茜色を飲み込もうと躍起になっている。壁にかけられた安物時計の針が示すのは五時四十二分。部活に打ち込んでいる生徒はまだ暫くは帰らない。
「まあ、要するにだ。“世界は繰り返しているのか”という疑問について、私はキミの意見を聞きたいんだよ」
まず遠回しな質問をし、僕の反応を嘲り、その後端的な質問に切り替える。これは僕が彼女と出会ってから幾度となく繰り返されてきた順序なのだ。僕は彼女の一連の言動に翻弄される様に気をつけつつ、時折襲う目眩を退ける方法を考える。
「それは所謂、永劫回帰ってやつですか?」
確かニーチェだったか。小学生の頃、覚えたばかりの、まさに今話題に出ている永劫回帰という言葉を自慢したくてニーチェの名前を出したところ、とある芸人の話と勘違いされたことがある。
あくまで名前くらいは知っているという程度だが。
みなみは「うん」と短く相槌をうち、左手を伸ばして椅子を一つ机の下から引っ張り出して手招きをする。
僕はそれとほぼ同時にゆっくりと立ち上がり、みなみの前に出された椅子の元へと歩く。
秒針の規則的なか細い音とは別に、不規則でありながら規則性のある無機質な音が部室内に響く。
僕が椅子に座る。みなみが話を続ける。
「世界が“輪”であるなら、そこに終わりも始まりもない。私たちが今こうして話しているのも、この子供騙しの様な、友人でも恋人でもただの先輩後輩という訳でもない妙な関係も、幾度となく繰り返されてきたという事になる」
しかし始まりがないのであれば、その関係はいつからあるのだろうか、と。
世界の始まりと輪の始まりが同じだとするならば、少なくとも最初の一回の僕たちの関係は今とは違ったものだったはずだ。世界の始まりと輪の始まりが違っていて、ある一点から世界の終わりと始まりを経てその一点に戻り、それが今の世界の輪だとしたら、その一点はどこで、またその一点に至るまでの世界は経由する世界の始まりからその一点までと同じ世界なのだろうか。
みなみは続ける。
「世界が輪であるならば、キミが私にした行為も、私がキミにした行為も、全ては必定であったという事になる。しかしそれではキミの説明がつかないだろう?」
キミの、無意識化の状態に於いて『夢』として未来を視るという体質の説明が、と。右手の人差し指と中指で、僕の左目の瞼に優しく触れる。
そして僕は言うのだ。この関係が始まってから幾度となく口にしてきた言葉を、今日もまた、性懲りもなく。
「気にしてくれているなら、僕をここから出してもらえませんか」
みなみが目を細め、口角を上げる。笑う彼女は餓死しそうな程に細く、普段よりも綺麗な筈だ。
「勿論、駄目だ。ふふ、知っているんだろう?」
瞼に触れた手を頬に滑らせ、みなみは僕の唇に自分の唇を重ね、その内側を小さく噛み切って、赤い体液を奪っていく。
夢が並行世界であると説く者を、私は羨むよ────顔を離したみなみが呟く。夢で見た世界がどこかで分岐した、この世界に酷似した異世界だというのであれば、きっとキミと私が同じ高校に通い、良き先輩後輩の関係を築いた後、普通の恋人として生活している世界もある筈なのだから────と。そんな世界があるのなら、僕はその説を提唱した人物を恨もう。
「キミの体質が世界の輪の証明となってしまうかもしれないが────それならば私はこの先もキミの選んだ恋人を殺し続け、キミの視力を奪い、そしてキミの体質を目覚めさせてしまうんだろうね」
眠りに落ちる毎に夢の中でのみ視力を戻し、その日の夕刻の映像と音を脳に刻んでいく、僕の体質。みなみが潰した僕の両目を犠牲にする様に現れた、空想の眼。
「私はね、思うんだ」
予知能力など存在しない、と。
「吉太郎くんの体質は、世界の輪────永劫回帰が引き起こす当然の過程なんだよ。世界をノートに例えてみてほしい。普通の学生なら、一度始めのページから最後のページまで書いたノートに再び目を通すということはあまりないだろう。余程勤勉な者でもない限りはね。しかし何度もそれを、流す様にでも読み返していくとどうなるだろう?次のページにはこれが書いてある、五ページ先にはこの公式が、十ページ先にはこの文章が……と、朧げながらにそのノートの中の未来を思い出す様になる筈だ」
であるならば、過去とは遥か遠い未来であり、未来は廻り過去となる。
予知とはつまり、これから訪れる未来の思い出なのだ、と。
「でも、貴女が言いたいのは……いや、証明したいのはそんなことじゃない。でしょう?」
全てが必定である世界の輪の中で、僕の存在をその輪の内では説明できないとする理由。「自分が喜多村吉太郎の目を潰したことで未来の記憶を見る体質を目覚めさせ、別の世界の輪へと変わったのだ」という願望。
東西みなみのいう“ある一点”とは、あの瞬間のことを指している。
自分が世界の輪から未来の軌道を捻じ曲げて作り上げ、新たな世界の輪へと変えたのだという願望。高校生が二人も行方不明となり一月は経つというのに警察の気配がないことも、彼女の世界の輪偏移説の裏付けとして機能しているのだろう。
みなみがカーテンを閉める。このマンションの向かいにあるであろう名前も知らない学校からは、もう誰の声も聞こえてはこない。
そして幼稚な万能神は気付かないのだろう。
この先もずっと。
「吉太郎くん」
みなみの手が、再び僕の頬に触れる。耳の穴に彼女の指が入り込み、爪を立てながら引き抜かれていく。
「この会話は何度目なのだろうね」
椅子から放り出された僕の足の上に跨がり、みなみはカーテンの隙間から星の光を遮る夜空を見上げた。
「今朝方、今のこの時間の話をキミに聞かされたというのに、キミのその様子では、どうやらやはり何も変わっていないみたいだね」
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衣擦れの音で目を覚ます。
僕の横で誰かが起き上がる気配がして、掛け布団がめくられた事により朝靄の様な冷気が肌に纏わり付いてくる。
一月前であればこういった目覚めは幸福感を伴っていただろうが、しかし今は全くの真逆である。
重い瞼を押し上げようと、広がるのは闇すら見えない“無”のみであり、自分がそこに存在するという五つしかない自己証明の一つが欠如しているという現実を突きつけてくる。
「嫌な夢だ」
掠れる様な声で言う。もう少し時季が遅ければ白い息も出たのかもしれない。魂の尾の様な、白く細く弱い息が。
体の右側から覆い被さる様な気配がする。そして唇から伝わる不快な温もりと、意識を向けなければわからない程微かな、鼻息が当たる感覚。胸に置かれた彼女の手の圧迫感。「おはよう」という、一月前に一度見たきりの女性の声。
脳裏で再生される、未来の記憶。
今日の日暮れに確実に訪れる過去の映像。疾うの昔に過ぎ去った未来。
僕は毎朝、目が覚める度にその日の夕方を思い出し、憂鬱になるのだった。