第三話 港湾都市グレイシャル
エースティン・グリンドゥールは、隣で苦虫を噛み潰している主君をちらりと見ると、軽くため息を吐いた。
キリアン・グレイシャルは長年北の海を支配してきた海の男であり、臆病とは程遠いはずであった。
だが、いまやその髪はめっきり白くなり、腹には分厚い脂肪が詰まっている。
二十年前は甲板を軽やかに駆け回っていたこの男も、もはや渡り板を真っ直ぐ歩くことすらできないと思われた。
「熊人など、いるわけがなかろうが」
その日も、朝から熊人に荷馬車が襲われたというヘルシンヴァル人の商人が陳情に来ていた。
グレイシャルは、バドティビラ人の都市である。
バドティビラ人は、大陸の西の海に浮かぶバドティビラ諸島に住む海の民だ。
大陸にはない神秘を受け継ぐ誇り高い民族であり、彼らが交易のために作った大陸の拠点がグレイシャルである。
北のハイエラン高地の森に住むルーメン人や、南東の大陸中央部に住むヘルシンヴァル人との交易で、莫大な利益を上げていた。
だが、その日のグレイシャル公は、まるで頑迷なヘルシンヴァル人のように同じ科白を繰り返していた。
「熊人なぞいるわけがない。ヘルシンヴァル人の盗賊であろう」
基本的に、グレイシャル公は都市に対する権利と責任を有しているが、街道や原野に関しては有していない。
ヘルシンヴァル人の商人が街道で何かあれば、それはヘルシンヴァル人の諸侯に訴えるべきなのである。
だが、幾つかの例外事項というものがあり、熊人の襲撃のような危機に関しては、グレイシャル公も動かねばならない可能性があった。
キリアンがしきりに同じ言葉を繰り返したのは、そのせいである。
結局、ヘルシンヴァル人の商人はグレイシャル公から望む言葉を引き出すことはできず、失望して帰っていった。
これで、何人目であろうか。
このままでは、グレイシャルを訪れる商人がいなくなってしまうのではないかと、エースティンは危惧した。
「まだ終わりではないのか」
次の陳情者がいると聞いて、キリアンは疲れた声で問うた。
エースティンは顔色ひとつ変えず、不動の姿勢のまま答える。
「精霊の民の森から、半精霊が参っております」
「シェルヴェン・グロールリエンか」
精霊の民は、人間とは異なる種族である。
彼らは森に住み、自然の力を操ることに長けている。
人と交わることはほとんどなく、従って混血児が生まれることは極めてまれである。
シェルヴェン・グロールリエンは、精霊の民の父とバドティビラ人の母から生まれた珍しい存在であった。
精霊の民との混血児は、通常半精霊と呼ばれて忌み嫌われている。
キリアンの表情も、不快げであった。
だが、人と交わらない精霊の民の中で、森の外に出てくるのはこの男だけである。
好むと好まざるとに関わらず、会わざるを得なかった。
シェルヴェンは、足音も立てずに静かに入ってきた。
精霊の民は生粋の狩人であるが、この若者もその例に漏れず動くときに音を立てなかった。
星の輝きを集めたような細い銀色の髪は、背中でひとつに束ねられている。
彼の右目はバドティビラ人に多い緑であったが、左目は金色に妖しく輝いており、見るたびにエースティンは背筋に冷たいものが走った。
「何の用だ、シェルヴェン。言っておくが、熊人と一言でも言おうものなら、舌を引っこ抜いてくれるぞ」
不機嫌そうにキリアン・グレイシャルは言った。
半精霊は毛皮の外套を翻すと、キリアンの座る椅子の前に進み出て一礼した。
「今年の精霊の民の森との交易は、今日で最後になりました、閣下」
シェルヴェンの声は鈴のなるような美しさであったが、その言葉には棘があった。
「道が雪で閉ざされました。異例の早さでございます」
「確かに雪は降っているが、シェルヴェン」
グレイシャル公は首をかしげた。
「街道が埋まるほどは降ってはいまい。すぐに溶けるだろう」
「グレイシャルの近辺はさようでございますが、ハイエラン山地はすでに何日も吹雪が続いております。ルーメンの森でさえも、雪が降り始めました」
ルーメンの森は、大陸でも最北にありながら、常に春の暖かさで満ちていると言われていた。
そのルーメンの森にすら雪が降るとは、この寒波はただごとではない。
バドティビラの神秘を奉じる者として、エースティンはその事象に不安を覚えた。
「閣下、この雪はすぐにグレイシャルでも積もり始めます。そして、雪が増えるとともに、南下してくるものがおります。熊人は、その先触れにすぎません。長年の付き合いから忠告させていただきますが、できるだけ急いで島に戻ることをお勧め致します」
「何を言っておるんだ、半精霊」
キリアンはあんぐりと口を開けた。
「気でも狂ったか。それともグレイシャルからバドティビラ人を追い出して、ヘルシンヴァル人でも引き込むつもりか? このわしが、グレイシャルから離れるわけがなかろう。ここは、わしの街だ。誰にも譲る気などありはせんぞ」
「忠告は致しました。明日の夜には、ひどい吹雪になるでしょう。そして、それがグレイシャルの終わりのときです」
そう言い捨てると、半精霊は一礼して去っていった。
その態度にグレイシャル公は激怒し、衛兵にシェルヴェンを捕らえるように叫び出す。
エースティンは公爵をなだめると、急いでシェルヴェンを追いかけた。
公爵の謁見室を出て、冷え込んだ廊下を足早に歩くと、階段の踊り場で半精霊は壁に寄りかかって佇んでいた。
明らかに、エースティンが来るのを予測して待っていたのだ。
「やはり、貴方だけは違います、エースティン・グリンドゥール。神秘と知識に仕える男。命が惜しければ、今夜中に逃げなさい。明日には、熊人の大軍がやってきます。わたしは見ました。数千人の熊人の集団を。やつらはルーメンの森を蹂躙し、南下してきています。次は、グレイシャルの番。吹雪とともに、やつらはやってきます」
「ルーメンの森は、すでにやられたのか?」
エースティンは驚愕した。
精霊の民は自然を味方にし、様々な力を行使してきた。
古代の神秘と知識を受け継ぐバドティビラ人のエースティンでもできないような技術を持っていたのだ。
それがなすすべもなく滅びたというなら、グレイシャルの総力を上げたとしても太刀打ちはできまい。
「精霊の民は滅びました。彼らは、わたしの忠告に耳を傾けませんでした。彼らは、半精霊のわたしの話など、聞こうともしませんでした。熊人は、ルーメンの森には入ってこれない、と。だが、吹雪が森の結界を破り、やつらはやってきました。精霊の民の戦士たちは矢を放ち、大いなる力をふるいましたが、やつらの数は尽きることがありませんでした」
「精霊神の宝珠はどうなったのだ」
喘ぐようにエースティンは言った。
シェルヴェンは暫くじっとエースティンを見ていたが、やがて静かに口を開いた。
「やつらの手に落ちました」




