第一話 初雪とともに
「寒いと思ったら、雪だよ、アシュリン」
イーヴァルは、灰色の空からひらひらと舞い降りる小さな白い花弁を手に取った。
掌の上に乗った結晶は、体温でたちまち消えてなくなる。
後には、僅かな湿り気が残るだけだ。
ウィンニールの初雪は、十一月から十二月頃に降ることが多い。
十月の中旬に雪が降るなんて、イーヴァルの生きてきた十六年の歳月で一度もなかった。
「寒いのは嫌いよ」
アシュリンはフルンディル王国の南部の生まれである。
暖かい王都に比べれば、北方のウィンニールはかなり気温が低い。
毛皮の外套を羽織ってくるべきだったなと、イーヴァルは思った。
「確かに嫌だな。最近、熊人がハイエラン高地から降りてくるそうだ。精霊の民の森インヴィルニスにも、島からきた人々の都市グレイシャルにもね」
「恐ろしい」
両手を体に巻き付け、アシュリンは体を震わせた。
それは、寒さからくるものだけではなかった。
ヴェストロス人は体が大きく獰猛で、鋭い牙や爪も持っている。
全身は長い毛で覆われ、外套がなくても吹雪の中を歩けるという。
「まあ、ウィンニールまでは来ないだろう。過去、彼らが此処まで南下してきたことはない。もっとも、来てもウィンニールの騎士たちの前では熊人なんて敵じゃないけれどね。ウィンニール家は、古代の王国ヘルシンヴァルの気高き末裔。騎士たちの槍はいかなる敵も貫く」
「ヘルシンヴァルなんてもうないわ」
銀色がかった金髪を指で弄びながら、莫迦にしたようにアシュリンは言った。
「いまはフルンディルの時代よ」
アシュリンの言葉に、イーヴァルは怒りの衝動を感じた。
このフルンディル人の王女は、時々鼻持ちならないほど高慢なときがある。
旧き民の王の末裔として、ウィンニール公の長男として、イーヴァルはこの王女に言い返さねばならないと思った。
「ヘルシンヴァルの魂は死んでいない。ヘルシンヴァルの諸侯は、ウィンニール家に従っているんだ。海を渡りし民にではない」
「まあ。でも、ウィンニール公はフルンディルのヴェラシル家に忠誠を誓ったのよ。わたしの父にね」
アシュリンは胸を張ると、すみれ色の瞳で見上げた。
腰に手を当てたこの勝ち気な王女は、いつも決してイーヴァルに勝利を譲らなかった。
「──雪が本降りになる前に、ウィンニール城に戻ろう」
茶色の巻き毛をかくと、イーヴァルは王女との戦いから撤退することを決めた。
口喧嘩では、いつもかなわない。
それでも、つい一言言ってしまうのがイーヴァルの悪い癖であった。
「でも、まだ聖なる樹を見てないわ」
「聖なる樹は逃げないさ」
イーヴァルは立ち上がると、馬を結んでいた木に近付いた。
そして、馬の様子がおかしいことに気付いた。
彼の青毛も、アシュリンの葦毛も、戦闘用に訓練された勇敢な馬である。
それが、落ち着かなげに鼻を鳴らしながら前肢で地面を蹴っていた。
「何だ?」
イーヴァルは自分の青毛の首に手を起き、優しく撫でた。
愛馬が不安がっているのは確かだ。
だが、原因はわからなかった。
「どうしたの?」
王女も立ち上がり、そして馬の異常を見て取った。
彼女は馬の不安が移ったかのように、心配そうにイーヴァルを見つめた。
「狼でも近付いているのかしら」
「この森に狼はいない。鹿と狐とうさぎくらいだ。──後はふくろうと鴉」
「白き疾風はそんなことでこんなに怯えないわ」
「黒い稲妻もだ」
そのとき、森の中から茂みをかき分ける音が聞こえてきた。
枝が折れ、葉が揺さぶられる。
イーヴァルは何かが近付いてくることを悟った。
彼は、急いで木に結び付けておいた手綱をほどいた。
「アシュリン、馬に乗れ!」
流石に王女も言い返さなかった。
震える手で手綱をほどこうとしたが、固く結びすぎたかなかなか上手くいかなかった。
「ほどけないわ」
音はさっきより大きくなっていた。
明らかに大型の生物が近付いてくる気配に、イーヴァルも焦りを覚えた。
彼は青毛の黒い稲妻の手綱を王女に渡すと、白き疾風の手綱の結び目をほどこうとした。
馬たちの動揺は、一層ひどくなっていた。
落ち着かなげに歩き回る黒い稲妻を、王女は苛立ちながら静めようとした。
だが、つぶらな黒い稲妻の瞳には、いまやはっきりと恐怖が宿っていた。
「まだなの?」
アシュリンの言葉も震えていた。
寒さと恐怖で動きの鈍い指に力を込め、イーヴァルは結び目をほどいた。
「できたよ。──おっと」
持ち主に似て気性の荒い白き疾風が、大きく体を揺すった。
イーヴァルは力を入れて押さえると、王女に乗るように促した。
「急いで」
「わかってるわ」
彼らは、大抵お互いに一言多かった。
だが、喧嘩をしている余裕はなかった。
アシュリンが馬に跨がったとき、繁みをかき分ける音はもうすぐそこまで来ていた。
薄暗い森の中、近付いてくる影は明らかに巨大であった。
八フィート(約二百四十センチメートル)近くあるだろうか。
六フィート(約百八十センチメートル)近いイーヴァルも長身であるが、それを遥かに超えている。
そんな怪物が、繁みの中からやかましい音を立てながら姿を現したのだ。
怪物は衣服を着ていなかった。
身体は毛むくじゃらで、髪は腰まで伸びていた。
腕も足も丸太のように太く、手には長い爪があった。
丸い耳は顔の横にはなく、髪の間から頭の上に覗いていた。
そして、裂けた口からは、鋭い牙が生えていた。
咆哮が、二人の体を打った。
「熊人だ」
喘ぐように、イーヴァルが言った。
まさに、この怪物はヴェストロス人だった。
大陸北西の果て、ハイエランの高地でしか見られない未開の怪物。
グレイシャルの近郊で見かけられたという話を、イーヴァルは信じてはいなかった。
熊人は、そんなに南には来るものではない。
だが、グレイシャルどころかこのウィンニールの近郊にまで姿を見せるとは。
熊人は牙を剥き出し、威嚇の声を上げた。
その瞬間、立ちすくんだイーヴァルは我に返った。
「走れ!」
イーヴァルは叫ぶと、馬に飛び乗った。
弾かれるように二頭の馬は駆け出した。
熊人の腕が振り下ろされ、イーヴァルがいたあたりの空を切った。
心臓を早鐘のように打たせながら、イーヴァルは愛馬を駆った。
あのままいたら、間違いなく挽き肉にされていただろう。
だが、逃げるのが間に合った。
馬に乗ってきてよかったと、イーヴァルは思った。
次の瞬間、イーヴァルは背後で重い足音を聞いた。
それは、馬の蹄の音とは明らかに違った。
血が凍るように思いながら、イーヴァルは振り向いた。
四つ足になった熊人が、猛然と追いかけてきていた。
白い息を吐きながら、低い唸り声とともに大地を蹴っている。
イーヴァルは悲鳴を押し殺し、王女に叫んだ。
「急げ、追ってきている!」
アシュリンは、本物の悲鳴を上げながら駆け去った。
口の中がからからに乾いているのに気付くと、イーヴァルは唾を飲み込んだ。
そして、剣を抜いた。




