第六十話 言葉はなくとも──
飴を舐め終えて保安局に向かえば、奇しくも、少女の母親が捜索願を出している最中であった。
少女は親の顔を見るなりパッと駆け出し、母親は目に涙を浮かべて強く少女を抱きしめた。
しきりにお礼を言う母親と笑顔で手を振る少女に別れを告げ、俺たち二人は再び街に繰り出した。
ほんの僅かな時間しかなかったが、少女は随分とお嬢さんに懐いていた。お嬢さんも少女と手をつないで歩いている様子は随分楽しげであった。
「よかったですね。ちゃんとお母さんに会えて」
「……ああ、そうだな」
親子が再開できたことを純粋に喜んでいるお嬢さんに対して、俺は相槌を打つのに若干の間を要してしまった。
しまった、今のはよろしくない。
己の過ちを自覚した時にはもう遅い。横目でお嬢さんを見ると、先ほどまでの嬉しそうな様子に陰りが見える。まるで何かを失敗してしまったような顔になっていた。
並んで歩く俺たちの間には気まずげな雰囲気が横たわる。お嬢さんと再会してから高揚していたのが嘘のようだ。
だが、ずっと黙っていられるはずもない。
最初から……覚悟はあったはずなのだ。それこそ、あの日にお嬢さんと初めて出会った時から。さっきまでは奇跡的な再会に浮かれていただけ。少女の言葉で再認識しただけの事。
俺は意を決し、お嬢さんに問いかけた。
「なぁお嬢さん。あんた」
「……先ほどの言葉は本当です」
まるで俺の言葉を拒絶するかのように、お嬢さんが言った。
こちらを見向きもせずお嬢さんはまるで台本を単調に読み上げる風に。
「今はまだ、正式なものではありませんが……近い将来、私は父が決めたあるお方と婚約することになっています」
「そりゃ……なんと言えばいいのやら」
「驚かれ……ましたか?」
「…………」
頷くのが精一杯だ。
相手が高嶺の花であるのはわかりきっていた。が、その高嶺の花に実際に相手がいると分かると殊更にショックが大きい。こんな精神状態で祝福の言葉が出せるはずもない。
「──貴族の娘として生まれた以上、己の婚姻が己の意思に沿わないことは承知していました」
「嫌だとは……思わないのか?」
「拒絶を抱く前に、諦めの念の方が強かった。昔からそのように教育されてきましたから。仕方がないという気持ちが先に出てきましたよ」
お嬢さんは苦笑した。そんな顔でさえ綺麗に見える。なのに、俺の胸は締め付けられるように痛んだ。
「でも、今は少しだけ嫌だと思ってしまいます」
彼女は俺の手を握った。
「あなたと歩いている間だけ。誰に望まれることなく、強制されることもなく、私はあるがままの自分でいられる。私の思うがままを成すことができる。こうしてあなたの手を握っていられる」
いずれ手放すことが決まりきっていたとしても。
離れることが宿命づけられていたとしても。
この瞬間に握った手を決して離さない。
その意思が伝わってきた気がした。
だから俺は、彼女の手を握り返した。
やがては誰かのものになってしまうであろうその手は。
この瞬間だけは俺のものだ。
「……もう気付いてるかもしれねぇけどさ。……俺には恋人が二人いる」
「職人様から聞き及んでいます」
余計なことを、とちらりとは思ったが、あの爺を罵る資格が無いのは歴然だ。
幸いというか、お嬢さんは俺の言葉に拒絶の意を表さなかった。内心はどうかわからなかったが、俺は続ける。
「二人とも、俺には勿体なさすぎる凄くいい女でさ。絶対に幸せにするって決めてる」
最低なことを言っている自覚はある。でもこれは、ある種のケジメのようなものだ。
あの二人に対して。そして、お嬢さんに対して。
「でも」
俺はまっすぐに隣を歩く女性の目を見て言った。
「今だけは、誰のものでも無い。たった一人の俺だ」
「……はい」
頷いたお嬢さんの指に、キュッと力が篭った。
──今だけは、俺の手はお嬢さんのもの。
明確に言葉を交わしたわけでは無い。
けれども、俺たちは互いの想いを全て理解していた。
俺たちはもうお互いに決まった相手がいる。
それでも今は、互いに俺たちだけだ。
やがて俺たちは足を止めた。
そこは、以前にお嬢さんと別れたあの橋だ。
示し合わせたわけではなく、自然と二人の足がここにたどり着いていた。
「終わり……だな」
「ええ。終わり……ですね」
俺とお嬢さんは手を離した。
どちらが先に手を離したか。おそらくはほとんど同時だったのだろう。名残惜しさを抱きつつも、二人ともそれを断ち切るように。
そして俺たちは互いに精一杯の笑みを浮かべて──別れる。
二度目の奇跡が幕を閉じる。
互いの向く先を見ようとはせず、けれどもお互いの幸福を祈って歩き出す。
前は互いに思い出の品を交換した。今回はそれが無い。
でも、交わしたものはあった。
お嬢さんの想いは俺に。
俺の想いはお嬢さんに。
もしかしたら、この出会いはなかった方が良かったのかもしれない。
彼女との別れが、より一層辛く感じてしまう。求める気持ちが強い分だけ、延々と胸の奥にくすぶり続けてしまうだろう。
だが思うのだ。
この胸の痛みこそが、彼女を想う気持ちの強さなのだと。
そんな気持ちが彼女にも残り続けるのならば。
身勝手であるとはわかりきっているのに、嬉しく思えてしまう。
そして俺と同じ気持ちをお嬢さんが抱いているのならば。
この胸にこびり付いたものも決して悪いものでは無いと思えるのだ。
嗚呼、けれども。
もし三度目の奇跡が訪れたとしたら。
その時俺は──。
書ききったぜ……。
惰性にならずに簡潔にかつ書きたいこと全部詰め込んでさっぱりしすぎず甘酸っぱい感じで仕上げてみました。




