第七話 お別れなのですが
──楽しい時間というのはあっという間に過ぎ去る、というのは本当らしい。
俺たちは街中の広間に設けられたベンチに腰を降ろしていた。見上げた空は気が付けば日も陰り、夕焼けに染まっている。
表通りを賑やかせていた出店も片付けを始めており、人通りも徐々に少なくなってきている。
「……楽しい時間というのは、あっという間に過ぎてしまうものなのですね」
「ちょうど今、俺も同じこと考えてたわ」
どうしてか、二人とも可笑しくて笑い声を上げていた。
そこからまた、沈黙。
帰路につくであろう、あるいはまた別の場所に向かうであろう人々の流れを、俺たちはただただ無言で眺める。
言葉を発すれば、それだけ終わりが近づいてしまう。黙ってさえいれば、この静寂の時を味わっていられる。そんな風に思っていた。
だが、その静けさを破ったのは、お嬢さんの方だった。
「……今日はありがとうございました」
「そいつは、何に対しての〝ありがとう〟だ?」
「色々なことに対してのありがとうです」
彼女はおもむろに立ち上がると数歩前に出て、くるりと俺の方を向いた。
「路地裏で助けてくれたこと。あそこから連れ出してくれたこと。一緒にいてくれたこと」
──そして、なにも聞かないでいてくれたこと。
彼女は嬉しそうに、だが一抹の寂しさを含んだ笑みを浮かべた。見ているだけで胸が締め付けられるような微笑み。痛みを顔に出さかったのは、男としての意地だろう。
「気づいてはおられたのでしょう。私が〝市井〟の者ではないと」
「あれだけの天然っぷりを見せられちゃぁ、ド田舎出身の俺でも分かるわな」
素直に答えてやると、お嬢さんが少しだけ固まった。
「……あの、そんなに分かりやすかったですか?」
「アレで隠し通せている自信があったなら、逆に驚きだ」
「あうぅぅぅぅ」と恥ずかしげに俯くお嬢さん。
俺もベンチから立ち上がり、彼女の肩を叩いてから側を通り過ぎる。振り向く彼女に言った。
「……少し歩こうか」
お嬢さんは、言葉無くこくりと頷く。
夕暮れの街を、二人で言葉も無く歩く。
本当はもっと言葉を交わしたかった。
けれども、言葉を重ねれば重ねるほど、大きな未練を残す。
別れるのが惜しくなってしまう。
──お互いに理解しているのだ。
この出会いは、別々の道を歩いていた二人の、たった一度の混じり合い。もう二度と、互いの道が巡り会うことはないと。
──そして。
「……ここまで、ですね」
お嬢さんが足を止めたのは、水路の上に掛かった橋の中央。同じく立ち止まった俺が振り向くと、彼女は深々と頭を下げてきた。
「私のわがままに付き合ってくださり、感謝します。このご恩は一生忘れません」
「よせやい。俺だってこんな綺麗なお嬢さんと一緒にデートが出来て一生の思い出にならぁ」
「私も素敵な殿方とご一緒できて嬉しい限りです」
別離の時は目前に迫っていた。
せめて彼女にとって今日が特別であって欲しいと強く願う。
「お嬢さん。こいつを受け取ってくれないか?」
だから、俺は懐に収めていたそれを彼女に差し出した。
「これは──」
「実は、昼間にちょっとな。今日の記念ってことで……受け取ってくれないか?」
俺の手の上には、綺麗な青色をした石がはめ込まれたペンダント。彼女が大道芸人の芸に夢中になっている隙に、こっそり買っていたのだ。
「お嬢さんが身につけるにはちょいと安物過ぎるかもしれないが」
「そんなこと……ありません」
ペンダントを受け取った彼女は、胸に抱くようにそれを握りしめた。
「あ。でも私、返せる物が何も……って、よく考えたら今日のお代も全部あなたが……」
「男の甲斐性ってことで、そこは黙って受け取ってくれると嬉しいかな」
「そんなわけには」
と言いかけた彼女が思い出したようにハッとなった。
お嬢さんは自分の左手に付けていた指輪を外すと、俺に差し出した。かなり緻密な彫刻が施された代物で、素人目から見ても一級品であると分かった。
「これを受け取ってください」
「いやちょっと、待ってくれよ。これってかなり高いんじゃ」
「こういうときに物の値段を聞くのは無粋ですよ?」
俺が口にした言葉への意趣返しか、お嬢さんが悪戯っ子のように微笑んだ。
「それに今日は色々として頂きましたし、そのお返しです。迷惑であれば売り払ってもらっても構いません」
「俺が構うわ!」
頑として譲ろうという姿勢のお嬢さんに根負けし、俺は指輪を受け取った。
「あと、最後に一つだけ」
お嬢さんは被っていた外套のフードを頭から外した。
「このペンダント……あなたの手で付けてくれませんか?」
収まっていた緋色の髪が解放され、はらりとこぼれ落ちる。夕焼けよりも彼女の鮮やかな髪の色と美貌に、俺は目を奪われた。
少ししてから、ペンダントを持った手が俺の前に差し出されていることに気が付き、我に返った。夕焼けの光がなければ、俺の顔が真っ赤に染まっているのがお嬢さんにバレバレだっただろう。
ペンダントを受け取り、鎖の金具を外してお嬢さんの首の後ろに回してとめてやる。
「ほら、これでいいか?」
「はい」
お嬢さんは、頷きながら胸元に下がったペンダントをぐっと握りしめた。
そして、俺とお嬢さんは揃って笑みを浮かべた。
記憶に残った最後の顔が、互いに笑顔であって欲しいと願ったから。
俺はこの時にお嬢さんが浮かべた満点の笑顔を一生忘れないだろう。
お互いの身の上はおろか、名前すら知らない相手。
それでも、俺たちの出会いは確かにここに存在していた。
お嬢さんの胸元にあるペンダント。
俺の手の中にある指輪。
たった一度の出会いの証し。
「では……さようなら」
「ああ、さようならだ」
俺たちは互いに背を向けて、歩き出した。
──これで俺とお嬢さんの邂逅は終わりだ。
──王都を訪れた日に起こった出来事。
──そして、俺が人生で初めて〝一目惚れ〟というものを体験した日であった。