第百七十四話 鼻薬ぷんぷんですが
キュネイの姿が通路に消えていくのを一階から眺めながら、衝撃から立ち直ったリードが口をひらく。
「──テメェがキュネイちゃんと良い仲だってのは本当だったのか」
「まだ信じてなかったのかよ」
その気持ちは分からなくないが──とリードに目を向けると、どうにも顔が赤らんでいた。口ぶりやら素行から浮世を流しているとばかり想像していたが、実は案外と純情なのか。
俺の怪訝な表情を見て自身の状態に気がついたのか、盛大に舌打ちをしながらリードは不機嫌を表す顔を背けた。どことなく初々しい反応に、
これまでずっと、リードに悪感情を抱いていたが、今ので印象が少し変わった。キュネイのことが絡まなかったら、案外にいい友達になれたのかもしれない。彼女が言っていたのはこのことだったのか。
「おう、リードに兄弟。昨晩はお疲れだったな」
「お二人とも、おはようございます」
酒場出入り口の扉が開くと、外からアイナとニキョウが入ってくる。
「外はどうなってんるんだ?」
「ひでぇもんだ。今は厄獣の死体をリードの傭兵団が処理してくれてるが──」
「あいつらのことは遠慮なくコキ使ってくれてかまわねぇ。普段から体力が有り余ってる奴らだからな」
「不慣れだろうがジンギンの子分も使ってくれ。不慣れだろうが、指示さえあれば力仕事くれぇはできるだろう」
傭兵の集まりだけあって、厄獣の扱いについては素人よりもはるかに手慣れている。昨晩に討ち取った分だけでもそれなりの見返りが望めるだろう。
リードが直々に仕留めた個体を除けば、であるが。
俺の目の前で行われた時と同じように、リードが仕留めた厄獣はもれなく傷跡がズタズタに引き裂かれており、誰がどう見ても悲惨な状態になっている。とてもではないが素材は売り物にならないだろう。
蛇腹剣──通常の剣としての他に、ワイヤーに等間隔で刃が配置された鞭のような形状を使い分けることができる特殊な剣と、グラムの説明にはあった。
これだけ聞くとすごい武器に聞こえてくるが、純粋な鍛造技術ではかなり製造が難しい上に、仮に成功したとしても複雑な機構を内蔵していることから根本的に強度に不安が残るという。
『おそらくは、魔法的な処理も行ってんな。でなきゃぁ、あんな物理法則を無視した動きは出来ねぇ。それに──』
俺もグラムと同じように、リードの剣には異様な気配を感じていた。嫌悪感を呼び覚ます類ではないのだが、底知れぬものを感じていた。
だがどうしてか、俺はその気配に覚えがあった。ただ覚えがあるだけで、具体的にどこで感じたものかまでは記憶を辿れなかった。
ふと、俺はミカゲの姿がないことに気が付く。
「ミカゲはどうしたんだ?」
「彼女には周囲の哨戒をお願いしました。カルアーネの手勢が、ジンギンが完全には落ち着いていない今を狙って悪さをする可能性もありますから」
『相棒が万が一を想定して動くタイプなら、アイナは常道をしっかり抑えるタイプだな。重畳重畳』
グラムも同じことを考えていたようである。この辺りの抜け目のない采配はさすがアイナだ。
「手の空いている傭兵団の方々にも同じことを頼んであります。よろしかったですね?」
「お、おぅ。何の問題もない、うん」
どことなく有無を言わさぬアイナの静かな迫力に、リードは首を縦に振った。
「さて、面子も揃ったことだし、今後について少し話しをするかい。二階のVIP部屋なら、防音もしっかりしてる。万一に盗み聞きされることもねぇだろ」
俺を含めて異議を立てる者はおらず、ニキョウの後に続いて二階へと向かった。
VIP部屋のソファーに座った俺たちであるが、話が始まる前にニキョウが深く頭を下げた。
「まずは礼を言わせてくれ。兄弟やリードの手勢がいなけりゃ、昨日の抗争で俺たちジンギンファミリーに大量の死者が出ていた。ジンギンファミリーの親分として、深く感謝してる」
「やめやめ、そういうのいらねぇから。暑苦しいったらありゃしねぇ」
リードが面倒臭そうに言うが、ニキョウは首を横に振った。
「そうはいかねぇ。俺たちは人間相手ならハンターだろうが負けねぇ自信はあるが、厄獣が相手となりゃてんでだめだ。俺たちだけじゃぁどうしようもなかった」
「俺たち傭兵が人里の外側を守ってんなら、おたくらはその内側を守ってるんだ。畑違いだろうし、適材適所だ」
むしろ、厄獣が街中に出てくる状況が異常すぎるのだ。少なくとも昨晩の抗争においては、ニキョウに何ら不備はなかった。
俺とリードの言葉を受けて、ようやくニキョウは頭を上げた。
「──昨日は無事に乗り切ることができましたが、正直なところ状況はあまり良くはありません」
俺やニキョウに視線を巡らせながら、アイナが真剣な表情で切り出した。
「ああ。今に至るまで警邏兵どもが介入してこねぇのは明らかに不自然だ」
「大方、カルアーネの豚親分が警邏のお偉いさんにとびっきりに強い鼻薬を嗅がせたんだろうよ」
そっけないリードであったが、俺は首を傾げてしまった。鼻薬とは?
『つまりは袖の下。賄賂だよ』
表立ってはともかく、この街の警邏組織はマフィア同士の抗争には目を瞑ってきたのは違いない。だが、あんなに派手な騒ぎになったのに、一向に出張ってくる様子がない。
『少なくとも、ナリンキが大勢の手下を連れて街に出た時点で、警邏の誰かしらは抗争の予兆は察知してたはずだ。なのに、厄獣が大暴れしたってのに、何ら反応が出てこねぇ』
警邏の指揮をする立場にいる人間が、賄賂を受け取り黙認していると言うことか。グラムの説明に得心がいったところで、ニキョウが唸る。
「カルアーネのことに関しちゃ日和見を決め込んでるのは承知してたが、ここまで警邏が懐柔されてるたぁな」
「ユーバレストの警邏は国軍の下部組織です。賄賂を受け取っているとなれば、国に陳情を出せば査察が入るはずですが……」
「そんな気概のあるやつぁ、確実にカルアーネに目を付けられてる。おいそれと街の外には出られねぇ。かといって俺たちが行ったところで、マフィアの言葉なんぞ王府の上に届くはずがねぇからな」
「……でしょうね」
アイナの悔しげな表情は、王族の末端に連ねる者としての自責か。彼女に王族としての責務は既にないが、知らぬ存ぜぬを通せる性格でないのは俺がよく知っている。
「っと、お嬢さんが気を止む道理はねぇさ。元を糺せば、俺たちが奴らを調子づかせてたせいなんだからな」
ニキョウが少し慌ててフォローを入れると、アイナも頷き気を取り直した。