還ってきた女
「ふむほれふぁなふぁなふぁ」
むぐむぐと、咀嚼しながら感嘆するアステル。
彼女が口にした饅頭は、俺とシルビアさんの努力の結晶である。
砂糖が高価なために代替の甘味料を模索し、様々な素材から餡子を試作した。
蒸し器までわざわざ自作して、苦心惨憺した作品である。
美味しく食べてもらって、もちろん嬉しくないはずがない。
「あ、すみません。お湯を貰えませんか?」
フィーが頼むと、人の良さそうな女の子がポットを持ってきてくれた。
俺が恐縮して頭を下げると、女の子は笑って手を振った。
クリスが持参の急須にお湯を注ぐと、良い香りが鼻孔をくすぐる。
容器を温め、湯冷ましも忘れていない、なかなかのお点前だ。
湯飲みを受け取ったアステルが、フーフーと冷ましながら香茶をすする。
「甘露甘露」
だらしなく弛緩した表情は、実に満足げだ。
甘いものを食べた後にお茶を飲めば、そんな気分にもなるだろう。
だけど、場所柄をわきまえてほしいと思う。
仮にもここは、冒険者ギルドの事務室なんだから。
◆
あの男――――ヘイメルとの遭遇から、既に一〇日あまりが過ぎていた。
その間、俺達は変化のない日常を過ごしていた。
早朝にベイルの訓練を受け、朝食時にマリウスが来て一緒に朝食を摂る。
マリウスに留守を頼み、日替わりで街の巡察とギルドの査察を行う。
日が暮れると宿に戻り、夕食を摂ってからマリウスは帰宅する。
そうして何事もなく一日が終わる。
「三度の美味しい食事付きの、夢のような仕事ですね」
長丁場に突き合わせて申し訳なく思ったが、マリウスは気にしていなかった。
なんでも昼のランチタイムでは給仕を手伝っているらしい。見目の良い彼が接客をするようになってから近所の奥様方が押し寄せ、売り上げが倍増しているそうだ。
シルビアさんからお小遣いを貰っている上に、チップも稼いでいるらしい。
「なんならこのまま、この宿に就職するか?」
「そうしなよ、マリウス君!」
俺の言葉に、マリウスを兄のように慕っているリリちゃんも勧める。
「いっそのこと、ここのお婿さんになったら」
フィーが、特大級の爆弾を投下した。
…………ほほう?
「いや、遠慮しておきます。怖い舅さんがいますから」
マリウスが楽しげに笑う。なぜこっちを見る?
視線を感じて見下ろせば、リリちゃんも満面の笑顔だ。
「どうかした?」
なんでもないと、リリちゃんは俺の腕に抱き付いた。
そんな穏やかな日が続いたが、俺の警戒感は日に日に募った。
何事も起きないのが、逆に怖い。
仮にヘイメルが敵ならば、かなり狡猾なヤツだからだ。
もし俺が逆の立場なら、こうして獲物の隙をうかがうだろう。
――――そしてアステルは、まんまと油断しまくっていた。
冒険者ギルドの査察に来ても、お茶会を開いてくつろいでいる始末だ。
事務室の一隅にある長机を占拠し、ひがな一日クリス達とだべっている。
「神経を張り詰め過ぎると、思わぬ不覚をとるぞ」
と本人は主張するが、君は神経を緩めっぱなしだよね?
肝が太いというべきか緊張感が足りないというか。
自分が狙われている可能性を全く考慮していないように見えた。
今も饅頭を頬張りながらたいそうな口を利いている。
「こういうときこそ鷹揚に構え、相手の出方をモグモグ」
「せめてしゃべり終えてから食え。いや、食う前に仕事をしろ」
今も仲間外れのベリトが、一人黙々と帳簿をめくっているんだぞ?
時折向けられる、恨めし気な視線がチクチク刺さる。
上司がお茶とお菓子を堪能して、自分一人が働いていれば不満もあろう。
と言うかアステルは最近、微妙にやる気を無くしている。
あれほど熱心だった街の巡察も、どこか気が抜けているように見える。
「これは作戦なのだ」
彼女はズイッと身を乗り出した。
表情こそ真剣だが、口元には餡子が付いている。
摘み取ろうとしたら、横合いからクリスがさっさと拭き取った。
「気を緩めていると見せかけ、ここの連中の油断を誘っているのだ」
ほんとうに演技なのか?
ちなみに普段通りの声なので、事務所にいる職員にはまる聞こえだ。
みな生温かい笑顔でこっちを眺めているぞ?
ちなみに半分ぐらい好意的な態度なのは理由がある。
ここに来るときは、シルビアさんお手製のお菓子を差し入れているからだ。
おかげで職員達はアステルの到来を歓迎している。
彼女の顔を見ると反射的に笑顔になる、ほとんどパブロフの犬だ。
材料費は俺が出しているけど、経費として請求できないだろうか。
「そして相手が隙を見せた瞬間、ガブッと」
「ガブッと、なんですか?」
唐突に、聞き慣れた声が響いた。
室温が二、三度、急下降した。
辺りはシンと静まり返り、しわぶき一つ聞こえない。
その完全な静寂の中を、コツ、コツと靴音が近づいてくる。
「仕事場でお茶会とは、随分と優雅ですね、監察官殿、ヨシタツさん?」
ギルドの影の支配者が、還って来た。
この街の冒険者ギルドにはトップ3がいる。
ギルドマスターのジントスさん。長老格で知恵袋のデインさん。
そして慈悲なき断罪者こと、セレスだ。
彼女は役職こそ一介の受付だが、その影響力はギルド内部では計り知れない。
彼女は熟練冒険者の受付専門だが、その理由をカティアから聞いたことがある。
なんでも中級以下の冒険者では、彼女の鋭い舌鋒と呵責のない追及、冷徹な査定に耐えられなかったらしい。実力声望ともに円熟した冒険者ぐらいしか、まともに相手に出来ないのだと言っていた。
その話を聞き、ずいぶんと大げさだなあと思っていたのだが。
「シルビアさんの新作ですか? 美味しそうですね?」
俺達の側まで来ると、セレスは微笑みながら饅頭を観察した。
感情のうかがい知れない、能面のような笑顔だ。
「そ、そそそうか?」
恐怖のあまり舌が引き攣り、ろれつが回らない。
「シェッ! せ、セレスもおひとつ、いかがで――――」
「結構です」
最後まで言わせずに、セレスは遮った。
その時、机の上の異変に気が付いた。
カチャカチャとカップや受け皿が鳴っている。
机に置いたクリスとフィーの手が、小刻みに震えていた。
落ち着けと、目線で励ます俺の膝もガクガクと跳ねている。
「久しいな。休暇と聞いていたが、随分と長かったではないか?」
空気を全く読まないアステルが、平然と語り掛ける。
「ええ、明日から職場に復帰いたします。留守中、役に立たない同僚どもがご迷惑をお掛けしたようで、申し訳ありませんでした」
セレスが周囲を睥睨すると、一斉にカリカリとペンがはしる音が鳴り響く。
誰も彼もが机にかじりつき、必死になって仕事に励みだした。
「うちの連中を、随分と手懐けたみたいですね?」
セレスの酷薄な笑みを避け、俺はカップを覗き込んだ。
震えで中身が飛び散り、手も机もビショビショだ。
「しかし一〇日以上も休暇とは羨ましいな」
香茶で唇を湿らせ、アステルは続ける。
「本部では仕事が忙しくて、そんな暇はないからな」
「あらあら、それはこちらのセリフですわ。仕事の最中にお茶会なんて、監察官こそ良い御身分ですこと」
「うむ、役得だな。なんとかと監察官は、三日やったら止められないそうだ」
アステルはまったく悪びれることなく堂々と胸を張った。
気のせいだろうか、セレスの髪がざわざわと蠢いている気がする。
「それにしても本当に休めたのか? 以前より余計にやつれているぞ」
「職場を引っ掻き回されていないか心配だったもので。それに」
再びこちらを見たセレスが、艶然とほほ笑んだ。
「ヨシタツさんとお会いできなくて、寂しかったです」
「お、俺もセレスがいなくて! その、会いたかったよ!」
長期の不在ですっかり忘れていたなどと、口が裂けても言えない!
「あら、嬉しい」
セレスは隣に座ると、しだれかかってきた。
「久しぶりに近況をお話ししたいですね。今晩、お暇ですか?」
「えっ!?」
「ほら、例の約束ですよ」
彼女はこっそりと、俺の耳元に囁く。
そう言えば、彼女に食事を奢る約束があった。
「ああ、大丈夫だ!」
頷くつもりが、痙攣のように顎が上下にぶれてしまう。
「良かった、それでは広場の花壇の前で待ち合せましょう」
日暮れ前の時間を指定し、セレスは事務室から出て行った。
息苦しさから解放された俺は、濡れた手を拭くものを探した。
タイミング良く、スッと目の前に手拭いが差し出される。
ありがとう、そう言って受け取ろうとして気が付いた。
クリス達が、冷やかにこちらを凝視していた。
◆
「楽しんでらっしゃい」
そう言って、フィーは今晩の食事代として臨時のお小遣いをくれた。
「こんなにいらないよ」
握らされた金額に驚き、返そうとする。
馬鹿ねと、彼女は笑った。俺が目当てにしている店なら、この位は必要らしい。
「それに食事が終わったら、はいサヨウナラとはいかないし。大人の付き合いってものがあるでしょう?」
彼女の言葉に、拗ねていたクリスがギョッとしてこちらを振り返った。
「まあ、それはそうだけど」
俺が同意すると、宿の居間にいた人の視線がさらに集中する。
「…………大人の付き合い?」
首を傾げるリリちゃんの耳を、アステルが塞ぐ。そして鋭い視線で俺を睨む。
「なんだそれは?」
「なにって、決まっているでしょうが?」
アステルの言葉に、ベリトが呆れた顔だ。
「決まっているって、なにがです!?」
クリスが狼狽する。ああそうか、彼女も経験がないんだろうな。
「ごめんな、クリス。近いうちに必ず、君も誘うから」
「ぇえええっ!?」
「あら、クリスだけ?」
「君もだよ、フィー。ちゃんと別々にだ」
「期待しているわよ」
でも今晩は勘弁してもらおう。
身動きしないクリスの髪を、謝罪の気持ちを込めてひと撫でして、宿を出た。
◆
君の瞳に乾杯
つい茶目っ気で、そんなセリフを口走りそうになる。
俺とセレスは、銀製のタンブラーを打ち合わせた。
食事が終わった俺達は、セレス御用達のバーに入った。
落ち着いたムードで、キャンドルの明かりが店内をほのかに照らしている。
俺が贔屓にしている店のような、馬鹿騒ぎをする客はいない。
入り口近くの席で、額を寄せ合ってしめやかに語り合う男女。
奥にいる男性客は物思いに耽るように、カップを傾けている。
大人の雰囲気というやつだ。
ここにはぜひ、クリスとフィーを連れて来よう。
やはり大人の嗜みとして、彼女達もこういう場所に馴れておいた方が良い。
でないと、雰囲気だけに流されて、悪いヤツに引っ掛かるかもしれない。
いわば成人教育の一環である。
「先ほどはご馳走様でした。とても美味しかったです」
「それは良かった」
食事の約束をしてからリサーチしていた店は、セレスのお気に召したようだ。
しかし料金まで念頭になかったのは、詰めが甘かった。
フィーが金を出してくれなければ、あやうく恥を掻くところだった
「それで、休暇は楽しめたのかい?」
食事の時は、出された料理の話で盛り上がった。吟味された食材に、手の込んだ調理方法。ひょっとすると、あの店の料理人はスキル持ちかもしれない。
ふと、この街が異常だと指摘した、アステルの言葉を思い出す。
あのような高級店があること自体が、辺境の都市ではありえないのかもしれない。
「実は王都に行ってきました」
「へえ、王都か」
話にはよく出るが、その実態はよく知らない。
俺の乏しい知識によると、鏡などの舶来品を扱っているらしいが。
「どんなところなんだ、王都って」
「そうですね…………高い外壁に囲まれ、街並みが白一色で塗りつぶされています。港には外国からたくさんの船が訪れ、交易で賑わっていますね」
「この街よりもかなり大きいのかい?」
俺が尋ねると、セレスは子供でも見るような優しい笑みを浮かべた。
つまり、そういうことなのだろう。
「観光にはいいかもな」
今度、王都に行ってみようか。
クリスとフィー、リリちゃんにカティアにシルビアさんを連れての観光旅行だ。
きっと楽しいだろうな。兄者達や三人組にリック、ついでにコザクラも誘ってみようか。
なんだか凄い光景になりそうだ。
「目的は、観光ではありませんでしたが」
「――――え?」
夢想が消え去り、目の前にはセレスの真剣な顔があった。
「監察官の情報を集めに行ってきました」
アステルの?
「ヨシタツさん、あなたから見て彼女は、どんな人間ですか?」
「どうって、楽しい女性だよ?」
最初の出会いこそ、あまり良い印象を受けなかった。
しかし打ち解けるに従い、にじみ出てくる面白さがある。
喩えて言うのなら、万華鏡のような女性だ。
覗き込んでクルクル回せば、様々な色彩が映し出され、飽きることがない。
「…………ずいぶん、仲良くなられたのですね」
俺がとりとめのない感想を告げると、セレスはため息をついた。
呆れた様子ではない、むしろ哀しげであった。
「なんでそんなことを?」
逆に尋ねると、彼女は口ごもった。
俺は嫌な予感がした。彼女は言うべきか言わないべきか、懊悩している。
決して愉快な話にはなりそうもない。
「彼女が、見掛け通りの人間ではないとしたら、どうします?」
セレスは、俺に選択を迫っている。
彼女が集めたという情報を聞くか聞かないか、俺に選べと言っている。
もし聞いてしまえば、後戻りできない気がする。
それでも俺は、
「聞かせてくれ」
俺には守らなくてはならない家族、クリスとフィーがいるのだ。
「彼女が貴族なのはご存知ですか」
「ああ、彼女から聞いた」
「どうして貴族になったのか、その経緯もご存知ですか?」
「詳しいことはなにも。祖父の働きで、母親の代わりに位を貰ったとしか」
彼女はしばらく考え込んでから、口を開いた。
「貴族の内情は、庶民にはなかなか知ることができません。そのことを踏まえても、あの監察官の情報は秘密めいています。驚くべきことに、その出自さえ定かではありません」
それはおそらく、例の真偽判定スキル絡みではないだろうか。
だが、出自まで不明なのは、仮にも貴族なのに不自然ではないだろうか。
「ですから情報とは言っても、あくまで噂の域を出ません。信憑性も不確かですし、知る人も限られています。でも彼女のことを探ると、必ず二つの出来事に突き当たります。そしてその先からはどうしても――――」
「どんな噂だ」
予防線を張るような、言い訳じみたセレスの言葉を遮る。
俺が傷付かないようにするための気遣いに思えたからだ。
「…………実の母親を罪に陥れ、生家を破滅させた忌み子」
ドクンと、鼓動の高鳴る音を聞いた。
「そして大規模傷害事件の犯人、それが彼女です」




