悪魔の選択 その四
その夜、フィーを抱きかかえた俺とクリスは、奴隷商館へと向かった。
「また来るよ」
別れ際、モーリーにそう告げた。
フィーだけでなくクリスの腕の傷も、俺の掌の傷も治してもらった。
再会したときに、きちんとお礼をしなくては。
「はい、また今度」
俺と彼女の間に、くだくだしい挨拶は不要だ。
互いに笑みを交わし、俺達は神殿を後にした。
街を兵士達が巡回しているが、探査で容易に避けた。
さしてトラブルもなく、奴隷商館にたどり着く。
裏口から案内を乞い、こっそり中に入り込んだ。
商館長は自分の屋敷に戻ったとのことだ。
応対した職員は俺の顔を覚えていたので、応接室を借りることができた。
フィーをソファーに寝かせ、クリスと容態を見守りながら夜を明かした。
「お仲間を終身奴隷に?」
一度だけ面識のある商館長は、驚くそぶりをみせた。
俺と商館長は、ソファーに腰を掛けて相対している。
「そんなに意外か?」
「様々な事情の奴隷を扱いましたが、さすがに仲間を売る冒険者というのは」
皮肉なのだろうが、いまさら気にもとめない。
「本当によろしいのですか? 先ほど拝見しましたが、あれ程の器量良しです」
商館長はいったん言葉を切った。
「それが終身奴隷となったら生き地獄ですよ?」
クリスとフィーが別室だからか、言葉に遠慮がないのか。
同席するように勧めたが、クリスは興味なさげに首を振った。
その投げやりな態度に不安を覚える。
女性の職員が付き添っているが、なるべく早く戻ってやりたい。
「もちろん条件がある、俺が主人になるように手をまわしてくれ」
商館長の口元に、嘲笑がうかんだ。
「なるほど。そういうことですか」
何を納得したのか、しきりに頷く。
「申し訳ありませんが、当商館はまっとうな奴隷商です。ご希望には添えませんな」
終身奴隷の購入は徴兵逃れ用が優先され、それ以外は厳しい審査が行われるそうだ。
そして俺の場合は、まず審査が通らないだろうと断言された。
状況から考え、殺人の主犯と実行犯の共謀が疑われるからだ。
「そんな建前を聞きたいわけじゃない」
清廉潔白を身上に続けられるほど、甘い商売ではないだろう。
そもそも俺は、彼に裏取引を持ちかけられたことがある。
「あの時の借りを、いま返してもらおう」
以前、俺はこの商館で補償奴隷のベラを購入したことがある。
たまたま奴隷の首輪が壊れ、ベラは返却することになった。
奴隷の首輪が壊れたことは、奴隷商にとって重大な問題らしい。
奴隷購入の際に便宜をはかる代わりに、秘密にする約束を交わしたのだ。
これが、俺のカードだった。
俺が主人という体裁をとれば、まだ再起する目が残る。
そう言って、クリスとフィーの意志を確認したのだ。
二人とも、ただ黙って頷いてくれた。
俺はその信頼に応えなくてはならない。
ただし、これだけのカードで譲歩を引き出せるほど、甘い相手ではない。
「足りませんな」
案の定、商館長は首を振る。
「それだけでは、ようやく交渉権を得ただけです」
「と言うと?」
「終身奴隷の裏取引は重罪です。そんな危険な橋を渡るにはとても足りません」
やはり足元を見てきた。だが、交渉自体は断ることもできない。
そんなことをすれば、俺が奴隷の首輪の件を世間に暴露するからだ。
「金貨百枚、手数料として払おう」
口元の嘲笑を消し、商館長は目を細めた。
「本当に支払いができますか?」
「一筆したためよう。それを持って行き、冒険者ギルドに確かめるといい」
商館長が考え込みはじめた。
あと上乗せできるのは金貨二十数枚だ。それ以上は手札がない。
「あとひとつだけ、条件があります」
商館長はゆったりとソファーに座り直し、俺をじっと見つめてきた。
「タヂカさん、あなたの噂はかねがね耳にしております。査問会の顛末などもね」
商館長の雰囲気が変わる。朗らかな笑顔の仮面を付ける。
「そんな貴方に格好の依頼があるのです。貴方にとっても損のない話ですよ?」
仮面の下には、どんな顔が潜んでいるのやら。
「それを請けて頂いたら、あらゆる手を尽くしてお力になりましょう」
奴隷商館は隠然たる勢力を誇っている。
商売の性質上、人脈の幅が広く、権力者にも顔が利く。
その力を使ってくれるのだと言う。
彼の提案とやらに興味がわいてきた。
「御存じかもしれませんが、商業組合では上層部の刷新がありました」
「それは初耳だ」
「問題は新しい組合長の男でして。彼とはちょっと確執があるのですよ」
「ほう? 商業組合の長にそんな人物が就いたら、困るのではないか」
「まあ当人だけなら大したことはないのですが、最近厄介な人物と接触してましてね」
「厄介な人物?」
「元冒険者ギルドのサイラスです」
「…………」
「ギルドを追放処分になりましたが、彼にはまだ配下がいます。私なら油断しませんね」
この男はどこまで知っているのだろうか?
「前組合長が権勢をふるえたのも、サイラスの力が大きいのです」
「因縁のある新しい組合長が同じようになっては困ると」
「それはあなたも同じでは?」
商館長は新しい組合長が邪魔、サイラスは俺の周囲にとって危険な存在。
向こうが手を組むと言うのなら、俺達も同じようにというわけか。
「それで提案とは?」
「プレゼントが欲しいのですよ」
商館長はニコニコしながら指を組み合わせた。
「素敵なプレゼントがね」
その後、クリスが俺の奴隷になった。
日が暮れてから俺とクリスは奴隷商館を抜け出した。
フィーは奴隷商館に残した。
ちゃんとベッドを用意して、治療師も手配する約束を取り付けた。
名目上は治療のためだが、実質的には人質だ。
俺と商館長との取引が完了するまで、彼女の身柄を預かるという寸法だ。
フィーとは、まだ奴隷契約をしていない。
取引が完了しなければ、当局に引き渡される。
期限は三日だ。
クリスは金貨百枚の証文と引き換えだ。
相手は金貨百枚を得て、俺はクリスを得る。
こうして互いに一枚ずつ、カードを交換するゲームだ。
今度は俺が手札を切る番である。
だがその前に、クリスを安全な場所に連れて行かなければならない。
もちろんシルビアさんの宿ではない。
俺が賞金稼ぎの時に使っていた宿だ。
賞金稼ぎをしていたとき、シルビアさんの宿に戻れないことが度々あった。
そんな時、利用していた宿がここだ。表通りから入った路地のどん詰まりにある。
外観は幅が狭く宿屋に見えないが、内部は驚くほど広い。内装は凝った造りで、高級感がある。
紹介のない一見様はお断り、客層は訳ありの男女が多い。まあ、そういう宿だ。
本来なら俺には敷居が高いが、そこは冒険者筆頭の口利きのおかげである。
結構なお値段の宿を使っていた理由の一つは、人目をはばかるのに都合が良かったからだ。
実際、割り当てられた部屋に入るまで従業員とも他の宿泊客とも顔を合わせていない。
部屋に入ったクリスは、洒落た内装に一切関心を示さなかった。
ぼんやりとした顔で部屋に立ち尽くす。
昨夜からこんな調子である。奴隷契約を結ぶとき、最終確認をしても生返事だった。
現状がうまく認識できていないのかもしれない。
フィーを残すときだけむずかったが、子供をなだめるように何とか説得したのだ。
友の傷は深く、人を殺し、奴隷になった。
精神の平衡を保てないのも無理はない。
そんな彼女を案じながら、俺の胸はざわめいていた。
彼女が自分を傷つけることを警戒しながら、なにか別の不安を覚えるのだ。
「そこに座ったらどうだ?」
ソファーを勧めたが、無反応だ。俺は彼女の手を引いてそっと誘導する。
「お腹が空いていないか? 食事を頼むか?」
ぼんやりと俺の顔を眺め、それからゆっくりと首を振る。
商館を出る前に軽く食事は済ませた。今日はこのまま寝かせたほうがいいだろう。
俺はそう判断すると、備え付けの水差しからコップに水を注ぎ、彼女に渡す。
クリスは素直に受け取ると、水を飲み干した。
「この宿はフロがあるんだ。汗を流すか?」
俺がこの宿を利用したもう一つの理由である。
フロといっても、人ひとりが入れるタライがでんと置かれた流し場である。
宿に頼んでお湯を用意してもらうのだ。
汗を流せると聞いて、クリスはほのかに笑った。
ようやく見せてくれた笑顔が嬉しく、フロ場に垂れ下がったヒモを三回引いた、
そうしてしばらく待てば、フロ場の甕になみなみとお湯が溜まっている。
部屋の外から流し込んだお湯が管を通して流れ込む仕掛けだ。
刃物の類がないことを確認してから、クリスをフロ場に押し込んだ。
しばらくしてからクリスがフロから出た。
バスローブの襟元に、奴隷の首輪が鈍く光っている。補償奴隷と外観は同じだ。
彼女を奴隷とする処置は、呆れるほど素早く施された。
別室に連れて行かれ、戻ってきたとき彼女は既に奴隷だった。
名称:クリサリス
年齢:19歳
スキル:剣術2、隷属1、不妊
固有スキル:獅子王
履歴:殺人×2、終身奴隷
俺は努めて穏やかな声を心掛ける。
「夜着はここにあるから。疲れたら先に休んでくれ。ベッドは君が使うと良い」
彼女がのろのろと頷くのを確認してから、俺はフロ場に逃げた。
フロ場から出ると、クリスはソファーで毛布にくるまって寝ていた。
「もう寝たのか?」
返答はない。無理に起こしてベッドに移すのも可哀そうだ。
俺も身支度を整えるとベッドに横たわった。
部屋のカンテラは点けたままにした。不用心だが、油が切れるまで放置しておこう。
今晩は闇の中で眠る気がしなかった。
目が覚めたのは、床の軋む音でも聞いたのか。
俺がベッドの中で身構えた時、彼女がとびかかってきた。
両手で俺の頭を抱え、顔のあちこちに唇をおしあて、むしゃぶりついてくる。
それは愛撫などではなかった。皮ふが破れるほど爪を立て、ちぎれるほど耳を嚙む。
炯々と輝く瞳は、狂気の色に染まっていた。
彼女もあの時、そんな目をしていた。
俺の初めての奴隷、ベラ。
俺の恐怖に、奴隷の首輪が反応する。
ギャウ!
隷属スキルに与えられた苦痛にのけ反り、クリスがベッドから転げ落ちた。
「クリス!?」
俺は慌てて彼女の身体を抱きかかえ、ベッドに横たえる。
しばらくしてから、彼女は泣き出した。幼子のような泣き方だった。
このままでは、彼女が駄目になってしまう。
俺は、指先を奴隷の首輪に伸ばした。
自分の手が、ぶるぶると震えているのに驚く。
俺はいま、クリスに対してひどく怯えていた。近づくのが怖い。
だけど、このままにしてはおけない。
密かに考えていた計画を練り直さなくてはならないが、仕方ない。
奴隷の首輪に触れ、スキル駆除の発動を念じる。
壊れた首輪の代用品は工房で
スキル駆除が、発動しなかった。
屋根に上ったら梯子を外されたようなものだ。
混乱し、スキル駆除を連発する、対象は隷属スキルに間違いない。
対象を射程に収めた感触は確かにある、だが発動時に感じる反動がない。
恐慌状態に陥った。
不信感はあるものの、スキルは俺の期待に必ず応えてきた。
望めばいつでも力を与えてくれたスキルが、唐突に俺を裏切ったのだ。
目の前が真っ暗になる。
俺はクリスを殺した。
クリスという社会的存在を殺した。
だが、少なくとも隷属スキルの呪縛を解けると信じていた。
ごめんなさいと、クリスが謝っている。
ごめんなさい、みんな
フィーを守れなかった
もうみんなと会えない
彼女の家族のことだろうか、故郷の人々だろうか。
終身奴隷に堕ちるという意味を、決して軽く考えていたわけではない。
かつて、終身奴隷について聞いた話を思い出す。
軍に所属した終身奴隷は、英雄的な死を望んでいると。
そうすれば遺髪となって家族の元に帰れるのだと。
彼女が呟く言葉に、俺が奪ったものの重さを実感する。
ふいにクリスが起き上がった。
「でも、これで一緒にいられますね?」
彼女の涙がぴたりと止まる。
「奴隷なんですから、私たちはこれからもずっとパーティーです」
どんな口汚い罵詈雑言よりも、肺腑をえぐる言葉だった。
そんな、そんなつもりではなかったんだ、ほんとうに。
俺が奴隷パーティーを望んだのは、こんなことではなかった。
だけど、俺の弁明など、いまさら意味はない。
それに俺の言葉は、今の彼女に届くのだろうか。
赤子よりも無邪気な笑顔だ。
意志をまったく感じさせない、壊れた笑顔だ。
からからと、乾いた笑い声が彼女の口からこぼれる。
彼女を引き寄せ、無我夢中で抱きしめる。
彼女の首筋に顔をうずめ、目を閉じる。
ああ、いいよ、一緒に堕ちよう。
独り言をささやく。
絶望の底まで君を探しに行こう。
倫理も道徳もぜんぶ捨てよう。
いつまでも一緒に地獄を旅しよう。
そっと肩に手を添え、彼女を引き離す。
彼女を真正面から見詰めた。
クリスは目を見開き、顔が真っ赤になっていた。
――――あれ?
彼女の頬に手を触れると、彼女がひどくうろたえる。
あれれ?
顎に指を当て唇を寄せると、ぎゅっと緊張で顔面が引き攣る。
亡くなった祖母を思い出した。
梅干を食べた時の、祖母の顔にそっくりだ。
スゴイ変な顔だ。
いきなり正気に戻らないでほしい。
祖母を思い出させる女の子をどう扱えばいいのだろう?
おまけに何だかこっちにまで緊張が伝染してきた。
とりあえず、額に唇をちょんと触れさせてみた。
それだけでクリスは悲鳴をあげ、俺を突き飛ばした。
枕に顔をうずめると、いきなりバタ足をはじめた。
やがてごろごろと転げまわり始めるクリス。
俺は彼女を放置し、ベッドから離れた。
そのままソファーで寝た。
夜も更けた頃、扉の辺りで小さく呼び鈴がなった。
もし来たら通すように言っておいた客だった。
クリスを起こさないように気を付け、商館からの使いと廊下で話した。
フィーの容態が悪化したという連絡だった。
明け方頃、俺が宿に戻るとクリスはまだ眠っていた。
そのままソファーに横たわり、朝食まで寝たふりをした。