星を墜とす者_前編
現在、コザクラが棲み処としているのは、シルビアの宿である。
その日彼女は、昼食後から屋根裏部屋のベッドで熟睡していた。
ベッドの端から足を投げ出し、へそ丸出しのひどい格好だ。
ところが少女達の言い争う声が、彼女の眠りを妨げたのである。
「リリちゃんはダマされているのよ!」
「そうかなー?」
「そうなの!」
少女達のやり取りは一向に止む気配がない。
コザクラは眠い目をこすりながら、むくりと起き上がった。
宿屋の看板娘であるリリと、パン屋の看板娘キアラ。
彼女達はベッドのすぐ脇で、クッションに腰を下ろして対面していた。
もともと屋根裏部屋は、リリ達がお喋りに利用していた場所だ。
コザクラが居候するようになってからも、それは変わっていない。
しかしこの日は、いつもと様子が違っていたのである。
「それにあの人は、悪い噂ばっかりなのよ!」
普段は大人しく控えめなキアラだが、珍しく口調が険しい。
あの人と、キアラが呼んでいるのはヨシタツのことだ。
彼女は自分が耳にした彼の悪評の数々を、次々とリリに吹き込もうとする。
いつもの彼女なら、噂を鵜呑みにして他人を悪しざまに言うこともない。
「リリちゃん、いいかげんに目を覚まして!」
ろくでもない男の魔の手から、なんとしても親友を救いたい。
その熱意のあまり、彼女らしからぬ言動に走らせていたのである。
「うんうん、分かっているから」
しかし、リリには糠に釘、暖簾に腕押し状態だ。
キアラの言葉を柳に風と受け流し、まともに取り合おうとしない。
業を煮やしたキアラは、援軍を求めて矛先を転じた。
「コザクラ姉様からも、なんとか言ってやってください!」
コザクラはベッドの上で枕を抱え、耳を傾けている風に見えた。
「………………ぐぅ」
「起きてください!!」
キアラがベッドを叩くと、コザクラはパチッと瞼を開いた。
「……ちゃんと聞いていたのでぐぅ……」
「寝ないで!!」
バフバフとベッドを叩くたびに、塵が舞い上がる。
明かりとり窓から射し込む陽光で、塵がきらきらと光った。
「コザクラお姉ちゃん。ちゃんと夜寝ているの?」
リリが心配そうに尋ねる。
最近のコザクラはいつも眠たげで、居眠りばかりしていた。
「大丈夫だいじょうぶダイジョウグゥー」
「ああもうっ!」
コザクラが頼りにならず、とうとうキアラは癇癪を起してしまう。
「リリちゃんも! どうして真面目に聞いてくれないの!」
「えっ? わたしはちゃんと聞いているよ?」
「うそ! なら、どうして笑っているの!」
キアラに語気荒くなじられ、リリは目を丸くした。
確かにリリは、ずっと笑みを浮かべていたのである。
ヨシタツの悪口を言われても反発せず、むしろ余裕さえ垣間見せた。
そのことが、余計にキアラの感情を昂らせたのである。
「こんなに心配しているのに! どうして真剣に――――」
キアラの声が甲高くなりかけた時、
リリの瞳に涙が滲むのを見て、息を呑んだ。
リリはコザクラのベッドに身を投げ出し、突っ伏してしまった。
「あ、あの、ちがって その、リリちゃんを責めているとか……」
キアラは弁明するが、彼女のきつい言葉が原因ではない。
うろたえる彼女の耳に、リリのくぐもった声が聞こえた。
「…………わたしって、すごくイヤな子だったんだ」
顔を伏せたリリの頭を、コザクラは無言で撫でる。
「キアラちゃんが、ヨシタツさんのこと嫌っているから」
――安心していたのだと、リリが懺悔した。
「えっ? どういうこと?」
意味が分からず、キアラは戸惑う。
「ヨシタツさんが、ほんとは良い人だってこと、内緒にしていたの」
毛布をぎゅっとつかみ、リリは背中を丸める。
「だって、キアラちゃんも、ヨシタツさんを好きになっちゃうから」
「ならないよ!? あんな人なんか!」
びっくり仰天したキアラが、全力で否定する。
「なるよ、きっと」
リリの声は小さかったが、そこには静かな自信が込められていた。
「キアラちゃん、とってもステキな女の子だもん。優しくて、思いやりがあって」
「ええっ!? そ、そ、そんなこと……」
大好きな親友から手放しに褒められ、キアラは頬を赤らめる。
「だからきっと、ヨシタツさんの良さも分かっちゃう。好きになっちゃう」
「…………」
「わたし、キアラちゃんに心配させて、それを喜んでいたみたいで……」
自分はなんてイヤな子だと、リリは自己嫌悪に陥った。
「…………」
かける言葉が見付からないでいるキアラの耳元に、コザクラが顔を寄せる。
「もし二人の仲を裂きたいのなら効果抜群、お勧めの手段があるのです」
それまで傍観者に徹していた少女が、コソコソと入れ知恵する。
『あなたが、ヨシタツを奪ってしまえばいい』
ギョッとしたキアラは、うつ伏せになったリリの背中を見やった。
どうやら聞こえなかったと安堵した所に、さらに追い打ちが掛かる。
『その美貌で誑かし、甘い睦言で惑わし、その瞳で蠱惑してしまえば――』
キアラの額に脂汗が滲む。心臓が早鐘を打ち、喉がカラカラに乾く。
『ヨシタツは、リリちゃんに見向きもしなくなるでしょう?』
それはまるで、否、悪魔の誘いそのものだ。
もし本当に、そんなことをしたとしたら?
キアラは自問自答し、ぶるりと怖気を振るう。
リリのために、なんでもしてあげたい気持ちはある。
しかし彼女に嫌われる覚悟だけは、キアラにはなかった。
「…………リリちゃん。ねえ、リリちゃん?」
「…………」
そっとキアラは呼び掛けたが、返事はない。
「わたしは気にしていないから、ね?」
逆に些細な隠し事をしたことに、いじらしさを覚える。
同時に、どれほどヨシタツを慕っているのか悟ってしまった。
「わたしはね? リリちゃんに幸せになってほしいの」
年下の親友の背をさすりながら、穏やかに語り掛ける。
「わたしにとって、それが一番嬉しいことなんだよ?」
ヨシタツを諦めさせることは、どうやら無理そうだと観念する。
ならば、答えは一つしかない。
――あの人を品行方正な、真っ当な人間にするしかない!
リリをなだめながら、キアラは胸に決意の火が灯った。
なんとなく仲直りした雰囲気の、リリとキアラ。
二人の様子を眺めながら、コザクラは大あくびを漏らした。
そして翌日、朝食の席での出来事である。
「いままでさんざんお世話してやりましたが!」
コザクラはヨシタツに宣言した。
「実家に帰らせていただくのです!」