ご令嬢の初料理
ベリトは、アステル・グランドルフの監視役だ。
彼女の行動と接触する人物をチェックすることが、彼に与えられた任務である。
その点に関しては監視役と監視対象、双方の了解事項だった。
つまり通いで執事の真似事をしているが、それは彼本来の任務ではない。
その筈、なのである。
「アステルお嬢さん! 朝ですよ! 起きてください!」
ベリトが寝室のドアを、ドンドンと叩く。
最初の頃は礼儀正しくノックしていたが、そんな程度で目覚める彼女ではない。
大声で呼び、容赦なくドアを連打する。
もはや寝室に踏み込まないだけの遠慮しか残っていなかった。
ガチャリと、ドアが開く。
寝乱れた白い髪、眠たげな赤い瞳のアステルが、ぬぼーと顔を突き出す。
「………………うる、さい」
――バタン
「ちょっとお嬢さん!? なにドア閉めてんですか! 起きてくださいってば!」
再びドアを叩くベリトだった。
それから五分後、ようやく寝室から出てきたアステルが、寝間着姿のまま食卓に着く。
譜第貴族の令嬢とは思えない格好だが、ベリトは気にも留めない。
だぼだぼの寝間着に色気の欠片もなく、さっさと朝食を済ませてほしいだけだ。
「…………女将のパンが懐かしい」
「ぜいたく言わないでくださいよ」
焼き立てなど望むべくもなく、アステルは昨日買い置きしたパンをモソモソと齧る。
「毎日食事の用意をしてくれて、一応感謝はしているが…………」
ベリトの料理は基本、塩で味付けしているだけだ。
不味くはないが、美味しくもない。一言で表せば、味気ないのだ。
「なんだったら、お嬢さんが料理してくれてもいいんですよ?」
ベリトは冗談めかして肩をすくめる。
「………………料理、か」
ぼそりと呟いたアステルに、彼は嫌な予感を覚えた。
◆
「ちょっとお嬢さん! 考え直してくださいよ!」
街路を颯爽と歩くアステルを、ベリトが必死に引き止める。
――今日の昼食は、わたしが作ってやろう。
そう宣言したアステルは、食材の買い出しのためアパートを出たのである。
「だいたいお嬢さん、今までに料理したことがあるんですか?」
「ないが、もちろん大丈夫だ。安心しろ、そなたにも馳走してやるから」
「安心できませんよ! なんでそんなに自信満々なんですか!」
「そなた。料理を作る上で大事なことを知っているか?」
アステルが、得意げに語り始める。
「……まさか料理は愛情だ、なんて言うつもりですか?」
ベリトが疑わしげな眼差しになる。
「そなたにも作ってやるのに、愛情?」
隣を歩くベリトをまじまじと見てから、アステルはハンッと鼻で笑った。
「うわ、腹立つ」
「よいか? 料理で大事なのは三つ。知識と経験と技量と直感だ」
「お嬢さんどれも持ってないでしょ! しかも四つだし、最後のが無性に不安!」
やいのやいの騒ぎながら、二人は市場にやってきた。
まず耳に入る人々の喧騒、次に視界に飛び込む圧倒的な色彩。
大勢の人々が通りを行き交い、店先で客と店員が声高にやり取りしている。
軒先には、彩りの鮮やかな野菜や香辛料がうず高く積まれていた。
ほんの入り口付近でもすごい混雑ぶりに、アステルは足が竦んだ。
「そもそもお嬢さん、自分で買い物をしたことがあるんですか?」
たじろいでいる彼女に、ベリトが確認する。
「馬鹿にするな。試みたことぐらいあるぞ」
「つまり失敗したってことですよね。馬鹿にしますよ、そりゃ」
「うだうだ言うな、行くぞ!」
勇気を奮い起こし、雑踏に突撃するアステル。
そしてすぐさま、人の波に押し返されてしまった。
「ぬう」
「あの、お嬢さん?」
「もう一度だ!」
諦めずに再度チャレンジするが、またもや同じ結果である。
「なぜだ!? どうして進めぬ!」
「それはこっちの台詞です。なんでわざわざ流れに逆らうんですか?」
子供みたいに癇癪を起こすアステルに、ベリトはため息を吐く。
「あのですね、よく観察してください。人の往来には方向性があるんです」
人混みに指先を向け、ベリトがレクチャーする。
「流れに逆らわず、身を任せるようにして進むんです」
「なるほど。分かった」
真剣な面持ちで頷き、
「あそこだ!」
再突入したアステルが、今度は上手い具合に流れに乗る。
「なんだ、簡単ではないか!」
「簡単なんですよ、普通は!」
周囲の喧騒に負けないように、互いに大声で言葉を交わす。
「さて! 何を買おうか!」
「ひょっとしてメニューを決めてないんですか!?」
「食材を見てから考える! あれなんかどうだ!」
斜め前方に魚屋の看板と、軒先に大きな魚を吊るした店が見えてくる。
「あそこに立ち寄って――――あれ? あれ? あっ、あっ、ああああぁー!」
「何してんですか! 通り過ぎましたよ!」
「ちょ、ちょっと! これ、どうやって抜け出すのだ!」
どうやら人の流れから抜け出すタイミングが掴めないらしい。
そのまま押し流されるままに進み続ける。
「どっ! どうすればいいのだこれ!?」
今にも泣きだしそうなアステルに、ベリトは頭痛を堪えるように顔をしかめる。
「……ひょいっと、脇に出るんですよ」
「ひょ、ひょい? ええと、ひょい? あれ、ひょい!?」
いったん立ち止まろうとするものだから、上手くいくはずがない。
「…………」
ベリトは無言で彼女の手を引き、ひょいっと人混みから抜け出す。
雑貨屋の軒先に入ったアステルが、ほっと胸を撫で下ろした。
「………………お嬢さん」
「だ、大丈夫だ! こ、今度こそ! 今度こそちゃんと出来るから!」
監視役のなんとも言い難い表情に、アステルが焦り出す。
「…………」
「そ、そんな目で見るな――――!!」
「ドロボ――――!?」
アステルの絶叫と、どこかで上がった悲鳴が被った。
「ベリトッ!!」
アステルの声に、ベリトが即座に反応した。
《体術》スキルの所持者が、身を屈めて人混みの中に突入する。
まるで足元をすり抜けるような動きで姿が消えた。
連鎖する罵声が、移動するベリトの軌跡を示す。
アステルは耳を澄まし、ジッと待ち続ける。
しばらくして上がった男の絶叫に、雑踏がさらに掻き乱された。
「道を開けよ」
アステルが、静かに告げる。
さほど大きな声でもないのに、混乱する人々の耳にはっきりと届いた。
誰もがギョッとしたように、アステルを振り返る。
彼女の姿を認めた人々が、押し合いながら後ろに下がる。
そうして開けた道を、アステルがつかつかと進んだ。
ベリトが一人の男を取り押さえている現場に出た。
群集が距離を置いて見守る中、アステルが周囲に問い掛ける。
「被害に遭った者は?」
「あ、あの、わたしです…………」
群集を掻き分け、一人の中年女性が前に出てきた。
身なりから、王都を訪れた観光客だと思われる。
「いかがした?」
「その男が、わたしの荷物を……中に財布が」
どうやら王都を訪れた観光客らしい。
アステルの服装や言葉遣いから、やんごとなき身分だと察したのだろう。
おずおずと答える女性に、アステルがそっと頭を下げる。
「王都の者として謝罪を。ベリト、どうだ?」
「何も持っていませんね。途中で仲間に渡したんでしょう」
「だろうな。おい、盗んだものはどこだ? 仲間はどこにいる?」
関節を決められて動けない容疑者に、アステルが尋問する。
「知らねえよ! 盗みなんてしてねえ! 濡れ衣だ! さっさと放しやがれ!」
男の言葉に、アステルの赤い瞳が光った。
「――ふむ。この男に見え憶えのある者は?」
戸惑ったように互いに顔を見合わす群集に、アステルが指先を突き付ける。
「そなたは? そなたは? そなたは? そなたは?」
一見すると無作為に、次々と問い掛けてゆく。
しかし誰もが首を振り、口々に知らないと答えた。
「そなたは?」
「いや、知らねえけど」
「そなたが仲間か」
間髪を入れずに断言した途端、男が逃げ出そうとする。
アステルは己が半身、《星の乙女》のスキルを呼び出した。
出現した不可視の剣が、男の全身を一斉に貫く。
「なっ!?」
突然身動きできなくなった男が驚愕した。
「ベリト」
「はい、こっちは拘束しました」
一人目の男を細い紐で縛ったベリトが、硬直した男の襟首を掴んで引きずる。
「俺達は何もしてねえ!」
「おい! こんな真似してタダで済むと思ってんのか!」
街路に転がされた二人は、自分達を見下ろすアステルに向かって口々に叫ぶ。
「それで他に仲間は? 何人だ? 五人以上? 一〇人以下?」
アステルは、淡々と尋問した。
何を問われても、彼らは否定の言葉を喚き散らすだけ。
「アジトはあるのか? 北か? 南か? 八番街? 九番街?」
なのに質問が的確に絞られ、核心に迫ってゆく。
その不気味さに、男達の顔面が蒼白になってゆく。
「せっかくだから、案内してもらえるか?」
腰に両手を当てたアステルが、前屈みになって睨み付ける。
とうとう恐れ慄いた二人は、ガクガクと頷いた。
ベリトが紐を握って、すっかり大人しくなった犯罪者を連行する。
その隣でアステルが、懐から鳥の羽を模した仮面を取り出した。
「これの出番だな」
「えっ? それ、わざわざ持ち歩いているんですか?」
仮面を装着したアステルが、自慢げに胸を張る。
「こんなこともあろうかと思ってな!」
この日、小さな窃盗団のアジトが襲撃されて壊滅する。
官憲が踏み込んだ時、犯罪者達は身体が硬直し、逃げられない状態だった。
捕縛されると硬直が解けた犯罪者達は、仮面の女がどうとかと言い騒ぐ。
しかし官憲が彼らの訴えを取り上げることはなく、事件は落着した。
◆
「香辛料ってのは、適当に使えば良いってもんじゃないんですよ」
「…………はい」
「食材に合わせた香辛料の種類、投入する分量とタイミングとか難しいんですよ」
「…………はい」
珍しいことに、アステルはしおらしく返事をする。
「正直めんどくさいから、普段使わないんですけどね?」
本職の執事なら首になりそうなことを、ベリトがぶっちゃけた。
食卓には、焼いた肉の塊を載せた皿が置いてある。
焼き加減は、まあ許容範囲だ。
石炭レンジの火力が強すぎたのか、表面は真っ黒こげで中は生焼けである。
それでも炭化した部分をこそげ落とせば、食えないことはない。
とにかく臭いがヤバいのである。料理がしちゃいけない臭気が漂っていた。
「どうしてなのだ…………」
物珍しさから、あれもこれもとベリトに購入させた香辛料の数々。
それを全部ぶちまけたのだから、当然の結果である。
「とにかく責任を取って、一人で食べてくださいね?」
「そんな!? そなたも一緒に!」
「毒味は、職務の内ではないので」
爽やかな笑顔で、ベリトが止めを刺す。
「もったいないから残しちゃダメですよ?」
こうしてアステルは涙目になりながら、初めて作った料理を胃袋に押し込んだのである。