聖母_後編
三話同時投稿。2話目。
病室を逃げ出した俺は、ふらふらと廊下を歩く。
夢見心地というか、現実感がひどく乏しくて雲を踏んでいる気分だ。
施設の中をあちこち迷っている内に偶然、裏庭へと出た。
井戸と物干し場があり、周囲は閑散と静まり返っている。
「クソがあっ!!」
固く握った右拳を、治療院の壁に思いっきり叩き付けた。
何度も何度も、手加減なしに。いっそ骨など砕けてしまえ。
「こうなると最初から分かっていたのか!」
壁を殴り続け、腹の底から雄叫びを上げる。
サークの死が、本当に価値もない犬死にとなってしまった。
「さぞや無様で滑稽だったろうな!」
皮膚が破れ、壁に血の跡が付着する。ぱらぱらと壁材が剥がれ落ちる。
キール君の命懸けの献身も、まるで無意味だったのだ。
王都で大騒動を引き起こした挙句が、このザマである。
「答えろ! コザクラ!!」
振り返った俺は、怒りを込めて咆えた。
井戸端の辺りで、それと気付かぬほど微かに、大気が揺らめいている。
実体がない陽炎のはずなのに、足元の地面に黒い影を落としているのだ。
怒声を浴びせると、光の屈折が人型に歪む。
迷彩スキルを解き、何もない空間から黒いおかっぱ頭な少女が現れた。
最後に別れた時と同じ、寸分変わらぬ無表情である。
歯を食いしばって彼女を睨むが、その鉄面皮を貫くことはできない。
少女は無言のまま、じっと見返してくる。
先に目を逸らしたのは、俺の方だった。
「…………すまない」
コザクラは、この結末を予測していたに違いない。
だからと言って、彼女を責めるのはお門違いである。
無駄な努力に終わるとあらかじめ教えられたとして、諦めることができたのか。
彼女に責任などあるはずがない。俺は単に、怒りをぶつける相手がほしかったのである。
本当に無様で滑稽なのは、八つ当たりして喚き散らす、今の俺の姿だ。
『未来を紡ぐ啓示には、選択すべき無数の諸要素がありますが――――』
そんな俺の葛藤を一切無視して、コザクラは淡々と語り始める。
『ある日を境に、要素としての彼女を《天啓》は観測できなくなります』
彼女がとうとう、天啓スキルの存在を口にした。
それだけ重要なことを、告げるつもりなのだ。
『彼女の不在により、未来の選択肢は狭まり、運命の渦は一点に収束します』
彼女は、ひたりと一歩前に踏み出す。
『彼女が存在しない未来を回避する方法を、以前から模索していました』
それを聞き、羞恥のあまり顔を伏せたくなる。
『ですが最終的に彼女の意思に阻まれ、どんな試みも挫けてしまうのです』
俺が知らない場所で、彼女は独りで戦いを挑んでいたのだ。
「…………彼女の口をこじ開け、無理やり霊薬を飲ませたら」
『さらに悲惨な結末を迎えるものと、予想されます』
自殺。いざとなれば、彼女は自ら命を絶つことを躊躇しないだろう。
『ヨシタツでは、彼女を救えません』
改めて宣告され、暗澹たる気分になる。
無力な自分が疎ましく、申し訳なくて力を貸してくれた人達に顔向けができない。
『しかし《彼》ならば、あるいは成し遂げるかもしれません』
ズキンと、胸が痛んだ。俺ではない他の誰かが、彼女を救うのか。
「そいつの名前と、居場所を教えてくれ」
嫉妬めいた感情を抑え、その誰かを迎えに行こうと決意する。
カティアみたいに、お姫様を救う王子様役なんて柄じゃない。
誰でもいいのだ、リリちゃんの笑顔を守ってくれるのなら。
必要なら地面に額をこすりつけてでも懇願し、無理やりにでも連れて来てやる。
コザクラの仮面が、わずかに綻びた。
その隙間から、悲痛な感情が覗いて見えた。
『彼は、血塗れの殺人者。金のため、容赦なく他人の命を奪い続けた男』
コザクラが、ゆっくりと近付いてくる。
周囲で風がざわめき、少女の声が幾重にも反響する。
『不確定要素にして』『冷酷な十人殺し』
『哀れな青年を』『友と呼ぶべき相手を』『幾人もの獲物を』
『無慈悲な刃で喉を掻き切った賞金稼ぎ』
いつの間にか、俺は壁際まで追い詰められていた、
正面に立った少女が、無限の星々を湛えた瞳でこちらを見上げる。
『その男は、《亡霊》と呼ばれています』
呼吸さえ止めて硬直する俺に、彼女が厳かに命じる。
『霊薬を、ここに』
逆らうことなど、思いも寄らない。
命じられるまま、ガラス瓶と霊礫を準備する。
錬金術 発動
処方箋が一旦完成すれば、精製は驚くほど容易だった。
霊礫が発する光で、握り締めた拳がオレンジ色に透ける。
滴った霊薬が、瓶の口へと注ぎ込まれた。
精製した霊薬に対し、看破を発動する。
名称:刻命毒
スキル:致死、遅滞、初期化
真理の探究者、三重の蛇は、はっきりと告げたではないか。
万能の妙薬など、あり得ないと。
彼の言った通りである。俺は希望や期待に惑わされ、その言葉を無視してしまった。
霊薬は、万能薬などではない。致命的な毒なのである。
俺はキール君に、霊礫で毒を作れないかと尋ねるべきだったのだ。
キール君が一人で実行すれば、意外と簡単に霊薬を精製できたのかもしれない。
間抜けな俺の失敗で、危うく彼を死なせてしまうところだった。
霊薬には、三つのスキルが宿っている。
一番目の《致死》は、死をもたらすスキル。
しかし二番目のスキル《遅滞》によって、効果を発揮するのは一五年から二〇年後。
《遅滞》は同時に、肉体の成長、老化も抑制する。
三番目のスキル、《初期化》は肉体の異常をリセットし、健全な状態に復元する。
そして《致死》を解除できるのは、《初期化》のみ。
しかし霊薬を服用すれば、再び《致死》と《遅滞》の影響を受けてしまう。
各々のスキル本来の機能は、もっと別な形なのだろう。
スキルが互いに干渉し、補完する奇妙なバランスにより、霊薬という機能になったのだ。
――驚くべきは、スキルが物質に宿っていることだ。
隷属の首輪とは、似て非なるものである。
あれは装備者に隷属スキルを付与するのであって、首輪自体にスキルが宿る訳ではない。
だが、霊薬の正体が分かっても、虚しいだけだ。
シルビアさんが飲まないのなら、泥水となんら変わらない。
『彼女の判断は合理的で、最善な選択かもしれません』
彼女の言葉に、カッと頭に血がのぼった。
だが反論しようにも、言葉が出ない。
『しかし同時に、最悪な選択でもあるのです』
彼女が小さな手を開くと、中から三枚の金貨が現れる。
「これは?」
『わたしから、賞金稼ぎ《亡霊》に依頼します。その報酬の前払いです』
霊薬と同じ色の硬貨を目の前に差し出し、コザクラは告げた。
『どうか《聖母》を、殺してください』
◆
カティアが椅子に座り、シルビアと話し合っていた。
ノックもせず病室に乗り込むと、彼女達が驚いてこちらを見る。
「カティア、席を外せ」
ぶっきらぼうに命じると、カティアの目が瞬く。
俺の表情を読んだのか、素直に椅子から立ち上がり、こちらに歩いてくる。
すれ違いざまに、俺はポケットからガラス瓶を覗かせてみせた。
それに気付いたカティアが、すがるような眼差しになる。
ドアの閉まる音を聞きながら、俺は空いた椅子に腰掛けた。
「本気で死ぬつもりなんだな、シルビア?」
ずばりと切り出す。この期に及んで、遠慮も配慮も無用だ。
彼女は窓の外に視線を向け、しばらく口を開かなかった。
その横顔は彫像じみた美しさで、血の通った人間とは思えない神聖さがあった。
「リリには、産まれてからずっと苦労の掛け通しでした」
やがて彼女は、そんな風に語り始めた。
「リリが幼い頃、あの子をあちらこちらの場所に隠しました。そしてカティアとわたしは、王家の追手を引き連れ、各地を転々と巡ったのです。ですが、あの子を同じ場所に長く止め置くのは危険でした。だから次の潜伏場所を整えては、あの子を迎えに行って移動させる。そんなことを何年も繰り返しました」
――子供の頃、河原を走る鳥を見掛けたことがある。
バタバタと奇妙な動きで地面を走るので、面白がって追い掛け回した。
すると一緒にいた母に叱られた。あれはチドリという鳥で、子供を守っているのだと。
後年、チドリが怪我を装ったりして、卵やヒナから天敵を引き離すのだと知った。
リリちゃんを守るため、シルビアはチドリと同じことをしていたのだ。
「次から次へと新しい場所に移し、長く側にいてあげることもできません。きっと寂しく、つらい思いをさせたことでしょう。でもあの子は、一度も恨み言を口にしたことがありませんでした」
窓から視線を戻し、シルビアがこちらに向き直る。
「そして、この街にたどり着き、ようやく一緒に暮らせるようになったのです」
親子が一緒に暮らす。そんな当たり前のことが、シルビアとリリちゃんには許されなかったのだ。
「わたしの外見は、霊薬のせいで老いるのが遅いのです。もし再び霊薬を飲んでしまうと、リリに見た目の年齢を追い越されてしまうかもしれません。そうなれば、あの子と一緒に暮らすことは難しいでしょう」
この母娘と初対面の時、衝動的に看破を掛けたことがある。
本当にリリちゃんと親子なのかと疑うほど彼女が若々しく、違和感さえ覚えたからだ。
しかし、彼女がやたらと年齢を気にするフリをするので、いつしか馴れてしまった。
意図的に、彼女が若作りだと思い込まされたのである。
「あの子と一緒に暮らす、それだけがわたしの夢でした。そしてそれは、もう叶ったのです」
「…………」
「本来なら、あの子が生まれたその日に、わたしはあの子の許から去るべきでした。信頼できる人に養い子として預け、普通の娘として育ててもらう。そうすればあの子は余計な苦労も背負わず、人並みの幸せを得られたはずでした」
そうかもしれない。あるいはシルビアが生き残る術も、見付けられたかもしれない。
たとえ彼女達が生涯、親子として名乗れなくても。
「ですが、わたしは過ちを犯したのです。あの子は普通の赤子よりも長く、わたしの胎にいました。最初の一年は、ほとんど変化がありませんでした。ヴェルフと一緒に、赤子も失ったのだと思い、絶望しました。でも一年が過ぎてから順調に成長し、わたしを喜びで満たしたのです」
シルビアが、自分のお腹を愛おしそうに撫でる。
「無事に産まれてくれるだけでいい、他に何も望まない。あの子の幸せのために、別れる決意を固めました。でも、あの子を最初に抱いた瞬間、わたしの決意はあっけなく崩れてしまいました」
霊薬の影響で、一度は諦めた我が子だ。余計に思い入れが深くなったのかもしれない。
「リリと一緒に暮らしたい。そんなわたしの我儘に、カティアが付き合ってくれました。わたしを守り、彼女は戦い続けてくれました。だからもう、彼女を自由にしてあげたいのです」
カティアもまた、連鎖する悲劇の犠牲者なのかもしれない。ヴェルフに命の借りがあると、彼女は言った。
だけど、シルビアとリリちゃんを守ったのは、それだけが理由ではないだろう。
カティアはきっと、二人を愛しているのだ。
「王家のことも、わたしは恨んでいません。わたしも貴族として生まれたから分かります。家を存続させ、国を成り立たせるには、犠牲が必要なこともあるでしょう。でも、あの子のことは別問題です」
その一瞬だけ、彼女の表情は厳しいものになる。我が子を守る、母の強さを感じた。
「だから、このまま運命を受け入れます。そうすれば誰も傷付かず、全てが上手く治まるのです」
彼女は、ふわりと柔らかく笑った。
「これが、あの子にしてやれる、母としての最期の務めです」
誰を憎むことなく、ただ運命を従容と受け入れる。
最後の時を娘と過ごしたことだけを感謝し、その未来と幸福を我が身に代えて守ろうとする。
コザクラは、シルビアのことを聖母と呼んだ。その通りだと思った。
だから、その聖母を殺さなくてはならない。
亡霊が起動し、闇の中からひっそりと獲物を狙った。
「…………残されたあの子は、どうなる?」
「当座は、悲しんでくれると思います。でも、リリは強い子です。いつか立ち直ります」
軽く牽制してみたが、彼女の防御は厚い。当然だ、リリが産まれて十数年が経過している。
聖母が構築した理論武装は、ほぼ完璧なはずだ。
「それにカティアがいます。あの子の周りには、頼りになる大人や友達も大勢います。あの子は皆に愛されているから、きっと手を差し延べてくれるでしょう」
他人への信頼。彼女が運命を受け入れる下地には、それもあるようだ。
彼女の言葉の端々を冷徹に分析し、その死角を嗅ぎまわる。
「誰よりもタヂカさん、あなたがいてくれます。あの子が初めて恋した殿方が」
矛先が、こちらに向いた。最も恐れていた攻撃が、解き放たれる。
「リリのこと、お願いできますね?」
無意識に、頷きそうになった。
彼女は恩人でもある。その願いを叶えたいと、自然と思った。
承諾の言葉を口にしようとした時、不意にコザクラの面影が脳裏を過ぎった。
「まっぴらごめんだ」
ポケットに手を突っ込み、報酬として受け取った硬貨を握り締める。
その無機質な冷たさで、心までも凍り付くような気がした。
「結局、お前はガキを見捨てて楽になりたいだけだろ?」
自分が発した言葉に、今すぐにでも土下座して許しを乞いたい気持ちになる。
だが、亡霊に罪の意識などない。薄ら笑いの仮面を被り、獲物を観察した。
《亡霊》は、スキルでも二重人格でもない、単なる思い込みだ。
自ら選んで賞金稼ぎになったくせに、俺はどこまでも中途半端で覚悟などできなかった。
だから俺は、影のように付き従い、罪を肩代わりしてくれる、もう一人の自分を求めた。
それが《亡霊》だ。
冷酷にして無慈悲。自己暗示によって産み出した、《理想の殺人者》である。
「親にさえ見離されたガキの面倒なんて、知ったことか」
情けの欠片もない亡霊は、容赦のない毒舌を平然と振るった。
しかしシルビアは、いささかも臆することはなかった。
「それでも、あなたはリリを守ってくれます。あなたは、優しい人ですから」
彼女の微笑みは、何もかも見透かしているようだった。
彼女は、ヨシタツ・タヂカの弱さを知っている人間だ。ハッタリだと思っているのだろう。
内心で舌打ちした亡霊が、かつてのヨシタツの無様さを罵る。
「リリが立ち直る? 本気でそう思っているのか?」
亡霊が、せせら笑う。
「いいや、親しい者の死は、心に生涯消えない傷跡を残す。ましてリリは、まだ子供だ。より深く爪痕を残し、常に付きまとい、あいつの人生に影を落とすだろう」
亡霊が、ずけずけと言い放つ。その半分は、ヨシタツの本音でもある。
「それだけじゃない。リリはお前の死に目に会った時――――」
ずいっと顔を寄せ、亡霊が痛烈な毒を吐く。
「きっと恨むだろう、どうして自分を残して逝くのか、と」
残される者の怒りを、亡霊が叩き付ける。少しだけ、ヨシタツも暗い悦びに耽る。
「そして、そんな風に思ったことさえ後悔するだろう。立ち直るなどと、軽々しくほざくな」
聖母が押し黙り、上目遣いに亡霊を見た。
その様子に、亡霊が優勢を確信した時である。
「あなたも、大切な方を失くしたのですね」
聖母の反撃を食らった亡霊がたじろぎ、言葉を失う。
「でも、そんなあなただからこそ、リリを託せるのです」
聖母が、真摯な面持ちで告げる。
どうやら方向性を間違ったらしいと、亡霊は認めざるを得なかった。
聖母の善意は、防御力が高い。
「何を根拠に、そんな戯言になるんだか」
嘲笑する亡霊が、すうっと片手を挙げる。
「見てみろよ、この手を」
指を大きく開いた手のひらを、聖母にかざしてみせる。
止めてくれと、叫ぶヨシタツの懇願を、亡霊は一蹴する。
「俺は何人も、この手で殺してきたんだぜ?」
表面上は、聖母にさしたる動揺は見られない。
――――だが、わずかに瞳が揺らぐのを、亡霊は見逃さなかった。
「俺は賞金稼ぎだったんだよ」
世間で最も卑しまれる職業、いや職などとほざくのもおこがましい悪行だ。
「そうだ、シルビアが俺の帰りを待っていた夜に、誰かを殺してきたんだ。人間の血に汚れた手で、リリに触れたこともあるぜ?」
聖母の目元と顎に緊張がある。目を逸らさないように耐えているのだ。
「シルビアが死んだら、リリはクリス達と同じ目に遭うかもな?」
ふと思いついたように、亡霊が呟く。
「俺はな、クリス達を欺いて奴隷にしたんだ」
聖母の表情は動かない。いや、動かさないようにしている。
「――――あなたは、そんなことをしません」
「どうして、そう言える? そもそも終身奴隷を手に入れられたことを不思議に思わなかったのか?」
クリスが終身奴隷になった詳しい経緯を、シルビアに話したことがない。
違法行為が絡んでいるので、クリス達にも口止めしてある。
つまり、彼女が真相を知りようがない。
「俺が騙して、あいつらを罠に掛けて奴隷にしたんだよ」
「いいえ、違います」
言葉少なく、聖母が否定する。
「リリはお人好しだ。口先三寸で丸め込んで、奴隷に墜とすなんて簡単だよ。騙して借金漬けにして、身売りをさせるんだ」
聖母の顔から、血の気が下がったように見える。
恐怖からだろうか、それとも怒りだろうか。
「ああ、そうだ。お前が死んだ後、リリにぶちまけてやろうか」
亡霊が楽しげに笑うと、聖母の肩が震えた。
「お前の親父は、王家に殺されたと。そうしてリリを担ぎ上げて、反乱を起こすのもいいかな?」
亡霊は饒舌に、愉快そうに喋る。
「――――そんなこと、あなたがする理由がありません」
聖母は言った。口調は穏やかで、動揺から立ち直ったようにも思える。
しかし、亡霊は気付いた。その回答が理詰めであることを。
理屈で判断しようとするのは、ヨシタツ・タヂカへの根拠のない信頼がひび割れた証拠だ。
「理由? リリを女王にして傀儡にする。あるいはリリを口説いて妻にして、俺自身が王になってもいい。権力を握って国を支配するのは、十分な理由じゃないか?」
ヨシタツ・タヂカには、一種の異常さがある。
例えば戦鬼リオンを倒す作戦を考える時、仮想敵として女帝カティアを想定した。
愛する女を解剖するように分析し、確実に殺す算段を練り上げたのである。
思考法の冷徹さに限れば、ヨシタツと三重の蛇は同等かもしれない。
だからリリを旗印とした反乱計画を、ヨシタツは平気で考える。
実際問題、それは不可能ではない。なぜなら、霊薬を精製する術があるからだ。
錬金術で霊薬を大量生産し、大々的に喧伝する。老化を抑える効果があることも暴露する。
その効果が認知されれば、歯止めが効かなくなる。金さえ払えば誰でも売ってしまう。
報奨としても使えるだろう。そうして富裕層の支持を得て、スキル所持者を大々的にかき集める。
混乱が起きるだろう。社会秩序が崩壊するほどの大混乱の中で、軍勢を立ち上げる。
軍資金は、ぺルセンティアの遺産がある。
大義名分は、リリの生い立ちが使える。
最古の貴族の忘れ形見が、謀略により殺された父の仇を討つ。
可憐な少女の挙兵は、事の善悪を問わずに大衆の支持を集めるだろう。
リリのためなら、カティアが協力する可能性は非常に高い。
必然的に八高弟も付き従い、戦力的には十二分になる。
そして王都を落とすため、進軍するのだ。
しかし、それは本題ではないので、口にする必要はない。あくまでもヨシタツの空想だ。
だが、深く考え込む瞳の奥に、シルビアは不吉なものを察したらしい。
聖母の表情から、亡霊はヨシタツの信頼がさらに失墜したことを読み取った。
黒い疑心に染まり、聖母の清らかな心が穢れ始めていた。
「ああ、そうだ。この霊薬を、リリに渡してやるか」
亡霊がポケットからガラス瓶を取り出す。
その黄金色の輝きに、聖母の目が驚愕で見開かれる。
「どうして!?」
「何がだ? ああ、一本しかないと言ってたのにか?」
亡霊が、ひょいっと肩を竦める。
「あれは、嘘だ」
まさか後から精製したとは思わなかったのだろう。
さらに信頼が大きく揺らぎ、聖母の仮面にひびが入る。
「この霊薬を一緒に、全ての真実をバラしてやろうか?」
カティアでは思いつかない手段だろう。ヨシタツ・タヂカも、そんな真似はできない。
だが、亡霊なら実行できる。金のために、十人もの人間を殺した男である。
既に金貨三枚の報酬を受け取った亡霊に、ためらいなどない。
「きっと必死になって、これを飲ませようとするだろうな?」
聖母の前で、霊薬入りのガラス瓶を振ってみせる。
聖母は、ぎゅっとシーツを握り締める。その不信感は、どの程度熟成されただろうか。
下地が十分に整ったかどうかは、外見からは分からない。
「もし拒めば、リリは絶望するだろう。絶望はシルビアの死と共に、王家への復讐心となる」
亡霊の観察眼は、聖母の一挙手一投足に注目する。
「あの優しい心根の娘が、どう変化するだろうな? 母が死ぬ原因となった我が身を呪い、胸に怒りと憎悪を抱いて、王家打倒を試みるかもしれない。当然、大勢の人間を殺すだろうな?」
きっと亡霊は今、残酷な笑みの仮面を張り付けているだろう。
「血と泥に塗れながら感情をすり減らし、ただ復讐のみに生きる魔物に成り果てるだろう」
シルビアが、掴みかかってきた。
亡霊の手からガラス瓶を奪おうと、必死になって手を伸ばす。
聖母が、堕ちた。ついに疑惑が信頼に打ち勝った瞬間である。
亡霊は満足したが、ヨシタツの心は深く傷付いた。
彼女は、か弱い女性ではない。素手ならカティアとタイマンが張れるぐらいだ。
だが今は、体力の衰えた病身である。亡霊が片手で両手首を掴み、あっさり抵抗を封じる。
「それを寄越して! 寄越しなさい!」
鬼気迫る表情で叫ぶシルビア。もはや聖母の面影など微塵もない。
亡霊が突き放すと彼女はベッドに倒れ込み、身動きができなくなるほど息を荒げる。
「これで、分かっただろう?」
シーツを掻き毟り、再び起き上がろうとするシルビアに、亡霊が囁く。
「リリのことを無償で愛せるのはシルビア、お前だけだ」
亡霊の言葉に、シルビアが身動きを止める。
「どんなに信頼しても、所詮は他人だ。いざとなれば、手のひらを返して見捨てるぞ?」
理性が停止したシルビアに、亡霊はさらに不信感という毒を注ぎ込む。
「優しくて思いやりのある娘だから、あの子は愛されている。だがリリが人変わりすれば、他人は彼女を見捨てる」
シルビアは無表情になり、亡霊の虚言に耳を傾ける。
「母親であるお前だけが、最後までリリを守ってやれる。世界中が敵になっても、お前だけがリリの味方でいられる」
そして亡霊は、彼女の手にガラス瓶を握らせた。
「どうすればいいのか、分かるな?」
シルビアが、手にしたガラス瓶を凝視する。
「言っておくが、霊薬は最後の一本ではないからな? もしそれを捨てれば、今度こそリリに渡すぞ?」
シルビアは、キッと俺を睨んだ。
「あなたという人は!」
その双眸には、怒りが籠っていた。
だが、既に亡霊は役目を終えている。
彼女の憎悪を受け止める役目は、俺自身でなくてはならない。
シルビアが、ガラス瓶の蓋を開けた。しかし、彼女の手はそこで止まる。
十数年来の思案と覚悟を、そう簡単に捨てられるはずがないから、当然だろう。
しかし、あまり時間を置くと冷静になり、思考が回復してしまうかもしれない。
俺は彼女の手からガラス瓶を奪い、一気にあおって口に含んだ。
驚くシルビアを抱きすくめ、彼女の口に自分のそれを押し当てる。
抵抗する彼女をベッドにねじ伏せ、顎を強引にこじ開け、霊薬を口移しで飲ませた。
懸命に押し返そうとする手を押さえつけ、舌に絡めた霊薬を彼女の咥内になすりつける。
一滴も余さず飲まさなくてはならない。湧き出る唾液ごと飲ませ続けた。
どれほどの時間が経過しただろうか。
唇を離した俺とシルビアは、しばし見つめ合う。
「「マズッ!?」」
二人一緒に叫んだ。
なんだこれ! なんだこの異様な不味さは!
霊薬の味は、最悪だった。味覚に対する冒涜だった。
舌が汚染され、味蕾が壊死するような感じである。
俺はシーツに舌をこすりつけ、不快感をこそぎ落とそうとした。
「…………言っておきますけど、三〇分はこのままですからね?」
「そうなの!?」
涙声でなじるシルビアさんの言葉を聞き、目の前が真っ暗になる。
一分でも拷問なのに、三〇分もこれに耐えられるだろうか。
それでもどうにか、最初のショックを乗り越えると馴れてきた。
俺とシルビアさんは、背を向けあって座り込んだ。
「シルビアさんとリリちゃんは、俺が守ります」
金貨三枚で魂を売った男の誓いだ、三文の価値もない。
きっと背後では、どの面下げてと彼女は吐き捨てているだろう。
それでいい。彼女からの信頼を損ねたまま、俺は疑われ続けねばならない。
リリちゃんを守るため、俺を監視している限り、彼女は生き続けるだろう。
クリスとフィーに加え、シルビアさんとリリちゃんに対する責任も生まれた。
少なくとも三年は、王家に勘付かれることはないはずだ。
その間に準備を進めなくてはならない。カティアと要相談である。
冒険者筆頭が、なんの目算もなしに霊薬を勧めたはずがない。何か考えがあるはずだ。
だけどようやく、長かった任務が実を結んだのである。
どっと疲れて出て、あくびが漏れた。
ほんのちょっとだけ、この安らかな眠気に身を任せよう。




