表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
149/163

王都決戦_3/4 「獅子王」

 遷都以来、営々と築かれてきた王都の旧市街。

 二〇〇年前には既に、城郭都市として完成の域にあったそうだ。

 しかし台地を高い城壁で囲んだ立地条件のため、その発展も限界に達してしまったのだとか。

 当時でさえ最も繁栄した都市だったのは間違いないが、国内の各都市も成長を続けていた。

 将来、第一等都市の座を奪われることへの危機感があったのかもしれない。

 その頃には魔物が潜む森も駆逐され、周辺地帯の安全は確保されていた。

 だから、城壁の外側である東側の谷間の開発に着手したのである。

 城壁の内側に閉じ込められていた王都の人々は、閉塞感を覚えていたのかもしれない。

 まるで堰を切ったような勢いで、新しい街が広がり始めた。

 やがて城壁外の街並みは活況を呈し、新市街と呼ばれるようになったのである。


 だが新市街の急激な開発と発展に取り残され、一部地区が過疎化するようになった。

 老朽化した建物が住む者もいないまま放置され、近年では治安や火災が懸念されている。

 大富豪エドモンは、そのような過疎地区の建物や土地を一括して購入した。

 なぜ彼は、役にも立たない廃屋を買い漁っているのか。

 様々な憶測の中で、過疎地区を再開発して金持ち向けの別荘地を建造するのだとする噂も流れた。

 実際、王都で長期滞在や永住を希望する内外の富裕層の需要が見込めるのである。

 そのため噂を真に受けた者達が、ひっきりなしにエドモンの許を訪れるようになった。

 対応に四苦八苦した彼は、噂を流した張本人であるサーシャに苦情を述べたこともある。


 そのような経緯で再開発地区と呼ばれるようになった地域の端で、俺は一人佇んで待っていた。

 口笛を吹くように探査の波動を周囲に放っていると、やがて遠くから反応が返ってきた。

 その移動速度は普通に歩く程度の速さで、散策みたいな気楽さを感じさせる。

 しかし互いの波動が干渉し合い、ノイズが大気を掻き乱した。

 探査の基本出力は、相手の方が上回る。

 押し込まれないように全力を注ぐため、並列起動の余裕はない。

 互いの姿が視認できないまま、前哨戦は始まっていた。


 ふらりと、俺は再開発地区に入り込んだ。

 寂れた細い通りを独り進みながら、ヤツの反応を確認する。

 移動速度は変わらないが、こちらを確実に追跡していた。

 細い通りの両脇には、かつては店舗だった建物が並んでいる。

 この辺りはかつての商店街で、当時は沢山の人通りがあったはずだ。

 だが今は、昔日の賑わいは欠片も残っていない。

 王都の誇りである白い壁も、すっかり煤けて灰色だ。

 もし仮に、サーシャの与太話通り別荘地にするなら、街路樹を植えてもいいだろう。

 緑の多い閑静な街並みを空想しながら、通りを右に折れる。

 ようやくヤツが、通りの入口にたどり着いたようだ。

 警戒する様子もなく無造作に、廃屋建ち並ぶ無人の街に侵入する。

 こちらを舐めているのであれば嬉しい。無力な獲物だと、ぜひ侮ってほしい。

 すぐに歓迎の宴が催されるのだから。


 がしゃんぱりん、と砕破音が断続的に聞こえてきた。

 屋根を葺いた石材が雪崩落ち、路面で割れる音だろう。

 頭上から墜ちる板状の石材、飛び散った破片は、ほんの挨拶代わりだ。

 気に入ってくれるだろうかと思いつつ、耳を澄ます。

 今度は、どすんどすんと重い落下音も混じり始めた。

 屋根の傾斜を利用して、丸い岩石が転げ落ちる音である。

 ボーリングの球ぐらいの岩石だ。避けなければ、怪我では済まない。


 魔物から採れる、絹糸のように細い糸が、あちこちに張り巡らされてある。

 それに引っ掛かれば、様々な仕掛けが発動するように細工が施されていた。

 この再開発地区全体が、ヤツを仕留めるための巨大な罠なのだ。


 ヤツが出現したら、どう対処すべきか。

 真っ向勝負を挑んでも絶対に勝てない。まず、それが前提条件だった。

 直接対峙することなく、仕留める。

 そのための弩砲(バリスタ)であり、ここら一帯に張り巡らせた数々の罠だ。

 ヤツを誘い込んで時間を稼ぎ、可能ならば倒す。

 どの罠も、賞金稼ぎ達が丹精込めて作り上げた代物だ。

 賞金稼ぎ達は長い年月、罠の創作に知恵を絞り、工夫を凝らしてきた。

 一部の賞金稼ぎには、自分が開発した罠を同類(なかま)達に自慢する癖がある。

 罠に掛かった間抜けな獲物がもがき苦しむ様を得々と語り、酒を飲むのだ。

 ロクでもない連中である。

 こうして賞金稼ぎの間で、罠に関するノウハウが蓄積された。


 俺は、彼らに告げた。遠慮はいらないと。

 思う存分、好き放題にやってやれと。

 ぎちぎちと顎を嚙合わせる昆虫のように、彼らは(よろこ)んだ。

 賞金稼ぎギルドを焼き討ちした張本人に、彼らの牙が一斉に襲い掛かった。


 探査の最大到達範囲に比べれば、ヤツとの距離は目と鼻の先である。

 範囲を狭めた分だけ情報が精密になり、脳が周囲を立体的に把握した。

 次第に視覚などの感覚が混線して異常を来し、新たな知覚を生み出す。

 まるで空間そのものを視覚映像に変換したような感覚だった。

 そこに映し出されたのは、次々と発動する罠の数々だった。


 屋根から降り注ぐ落下物、物陰から発射される弩弓の矢。

 倒れ掛かる釘だらけの角材、崩落する二階の壁一面。

 地面から突如として伸びる杭、道に撒かれた大量の油。

 小型の投石器から放たれる無数の礫、路地から飛び出した燃え盛る車輪。

 空中に散布される刺激性の粉塵、嫌がらせのように放たれる害虫の群れ。

 ぽっかりと崩れ落ちる路面、突然鳴り響く金属音。

 執拗で嫌らしく、致命的で冗談じみた罠のオンパレード。

 驚くべきは、それらが全て自動で発動している点だった。

 一つの罠が作動すると、連鎖的に次の罠が作動する。

 さらには簡単な時限式の絡繰りまで組み込んでいるのだ。

 さすが賞金稼ぎ、獲物を陥れる情熱が半端ではない。


 そしてヤツは、それらの罠を次々と突破した。


 ヤツは面白いように、罠に引っ掛かっていく。

 まるでそれが義務であるかのように、あらゆる罠を発動させる。

 ワザとではないかと疑いたくなるぐらい、賞金稼ぎ達の意図にはまっていた。

 せっかく用意してくれたのだからと律儀に応えている、そんな気さえする。

 あるいは、全く気にしていないのかもしれない。


 どの罠が発動しても、ヤツは軽々と避けてしまう。

 落下物も飛来する物体も、ヤツに触れることなく粉砕される。

 俺の空間視も、その時のヤツの姿は捉えられない。

 一瞬だけブレると、周囲に迫った危険物が消滅するように破壊される。

 おそらく剣で防いでいると思うが、その剣筋を捕らえることはできない。

 結果的にヤツは、罠の一切を無視するがごとく前進する。

 賞金稼ぎの罠など児戯にも等しいと、歩みを止めることはなかった。


 今すぐにでも駆け出したい気分を、懸命に堪える。

 相手が余裕ぶって、ゆっくりと追い詰めるつもりならば、それに合わせる必要がある。

 ゲーム気分を楽しんでいるならば、接待を続けなくてはならない。

 間違っても、ヤツを本気にさせてはならない。少なくとも、まだ早い。


 やがて罠が尽きた頃、俺は噴水のある小さな広場に出た。

 水の枯れた水槽の脇に立ち、待ち構える。

 黒い人影が現れた。通りの先に、ヤツが立っている。

 俺の姿を認めたヤツは一度立ち止まってから、ゆっくりと歩いてくる。

 その途中に、罠は一切ない。歩みを遮るものはなく、靴音だけが響く。

 ここは再開発地区の中心地、ここを起点として建物が取り囲んでいた。


 かつてサーシャは、レジーナと同じ学院に通う学生だった。

 当時は主従関係ではなく、単なる先輩後輩の間柄だったらしい。

 レジーナは薬学を学び、サーシャは建築学を専攻していたそうだ。

 ――だから、こんなことを思い付いたのだろう。

 俺の前には、太い綱が張られている。魔物の腱を紡いだ、かなり頑丈な綱である。

 黒剣を引き抜いた俺は、一気に振り下ろした。

 しかし、わずかな切れ目しか入らなかった。

 それでも強烈な張力が掛かっていた綱が、ぶちぶちと音を立てて千切れ始める。

 断裂した綱の端が跳ねて、俺は弾き飛ばされてしまった。

 地面に転がった俺は、立ち止まったヤツの姿を見た。

 どうやら耳を澄ましているようだ。俺の耳にも、その音が聞こえてきた。

 どおん、どおんと、夜のしじまを破り、彼方から轟音が迫ってくる。


 サーシャは、建築学に造詣が深い。

 どのように細工すれば、建物がぎりぎりまで建っていられるか、彼女は計算した。

 そして一つの切っ掛けで全ての建物が倒壊するように、仕掛けを施したのである。

 数々の罠はめくらまし。本当の罠は、この再開発地区全体だ。

 サーシャと賞金稼ぎ達は、激しく議論した。互いの罠が干渉しないよう、調整が難航した。

 だが、その成果はあった。


 渦を巻くように、建物が次々と将棋倒しとなる。

 倒壊の波が、こちらに押し寄せて来るのを探査が捉える。

 当然、ヤツも事態を把握しているだろう。

 脱出すべきか否か、逡巡している風であった。


 結果を見届ける暇はない。俺は、あらかじめ地面に開けた穴に飛び込んだ。

 頭上から、広場と噴水を押し潰す轟音が聞こえてきた。


      ▼▼▼


「なんなの! これは!?」

 リュミエルが、悲鳴じみた叫びをあげた。


 イノと連携し、王城襲撃の共犯とおぼしき容疑者を追い詰めた。

 大して手強い相手ではなく、容易に無力化できた。

 イノが容疑者に同情を示したが、説得に応じて投降するなら、それでも構わない。

 片付いたとリュミエルは思った矢先に、それは起きた。


 《獅子王》を発動したクリスは、尋常ではない様子を見せた。

 外れた肩を反対の手で掴み、眉一つ動かさずに無理やりはめ込んだ。

 両眼を炯々と光らせ、ぐるると喉を鳴らすクリス。

 そして剣を抜き放つと、暴力の旋風と化してリュミエル達に襲い掛かった。


 獣の素早さで肉薄し、クリスが横薙ぎに剣を振るう。

 それをリュミエルが、聖銀製の盾が受け止めた。

 重く鋭い斬撃に、彼女はたたらを踏んで後退する。

「くうっ!?」

 骨まで痺れる衝撃に、リュミエルが苦鳴を漏らした。

「もらったあっ!」

 壁を伝って走り、クリスの背後にまわったイノが、頭上から襲い掛かる。

 注意を逸らすため、イノはあえて叫ぶ。

 タイミングを合わせ、リュミエルも剣を突き出す。

 クリスは頭上から迫る短刀を楯で受け止め、正面の一撃を剣で遮った。


 三人の武器が交錯した直後、クリスが身体を旋回させる。

 まるで身体にたかるノミを振り払うように、リュミエル達を軽々と吹き飛ばした。

 これまで幾度も連携して攻撃したが、ことごとく弾き返されている。

 まるで攻撃が通じず、リュミエル達の敗色が次第に色濃くなった。


 これまで《獅子王》の発動時には、常にフィーが傍らに控えていた。

 相棒の《スキル制御》により、暴走の危険を未然に防いできたのである。

 《獅子王》は現在、一切の抑制なく本来の能力を解放していた。

 王権を以て下位スキルである《剣術》と《回避》を掌握、その能力を自在に引き出している。

 さらに宿主に膨大な力を注ぎ、身体能力を極限まで強化。

 その代わり宿主の理性を麻痺させ、破壊衝動の権化と為す。

 それが固有スキル、《獅子王》の本性であった。


 素早く体勢を立て直したイノが、後退して建物の壁に張り付く。

 壁面に吸着して自在に伝い歩く、蝎虎スキルを発動。

 頭上からクリスを抑えるため、建物の壁を駆け上がった。


 それを見た獅子王(クリス)が、膝を曲げて一気に跳躍する。

 イノよりも遥かに高く飛び、眼下の獲物を狙って剣を掲げる。

 放射される殺気の凄まじさに、イノの顔が恐怖に歪んだ。

「させるかあっ!」

 叫び声と共に、リュミエルが聖剣スキルを全開で発動した。

 これまでにない威力と速さで、炎の矢がクリスに迫る。


 ガアアアアアアッ!!


 獅子王(クリス)が、炎の矢に向かって吼えた。

 あっけなく、蝋燭の灯火のように炎の矢が掻き消される。

 威圧の雄叫びにリュミエルは硬直し、聖剣スキルも強制解除された。

 そして間近で咆哮を浴びたイノ。

 彼女もスキルの効果を打ち消され、着地体勢が取れないまま落下する。


「イノッ!」

 友の危機に、リュミエルは動かない身体を叱咤し、走り出した。

 滑り込むようにしてイノを受け止め、そのまま地面を転がる。

 倒れ込む二人の前に、クリスがふわりと舞い降りた。


 スキルの効果が消失したことに、リュミエルは戦慄する。

 対スキル戦闘に置いて絶大な威力を発揮する、スキル無効化。

 対象が一人に限定されるなら、王国内にも何例か存在が確認されている。

 しかし咆哮の届く範囲のスキル全てに影響するとなれば、その威力は前代未聞だ。

 彼女は、あまりにも危険過ぎる。

 自分達では勝てないと、リュミエルは判断を下した。


「逃げなさい、イノ!」

 友を突き飛ばし、立ち上がって駆け出すリュミエル。

 せめて一太刀、手傷だけでも。

 ――イノが逃げ出す隙を作らなければ!


 そんな彼女の悲壮な覚悟も、眼前の強敵(クリス)には通じない。

 聖銀製の剣が、半ばから折られて宙を舞った。

「リュミエル!」

 帝母の楯で突き飛ばされ、転がるリュミエル。

 その上に覆い被さり、彼女を守ろうとするイノ。

「バカ! 逃げなさい!」

「イヤだ!」


 そんな彼女達を見下ろし、獅子王(クリス)が剣を大上段に構える。

 二人諸共に両断すべく、一歩踏み出す。


 ――ここまでです。引きなさい。

 クリスが、獅子王に命じた。

 互いをかばい合う二人の姿に、彼女は自分とフィーを重ね合わせたのである。

 しかしその声は微かで、獅子王を従えるには、あまりに弱々しい。

 久しぶりに全力を解放し、陶酔する獅子王を押し止めることができない。


 クリスの顔をした獅子王は、己が依り代をあざ笑った。


 クリスが自らのスキルを嫌悪している最大の理由は、そこにあった。

 獅子王とクリスは一心同体、その破壊と戦いへの渇望は彼女自身のもの。

 暴虐の獣とは即ち、彼女の本性を映す鏡なのである。

 理性(クリス)を無視した獅子王(クリス)は、剣を持つ手に力を込めた。

 ――そう。やはり獣は獣、力で従えるしかないのね?


 獅子王―並列起動―隷属


 獅子王が、絶叫した。

 隷属スキルは、主の命に逆らう奴隷に懲罰を与える。

 隷属スキルを施したクリスが主となり、対象である獅子王が従となる。

 主人(クリス)に逆らう獅子王を、隷属スキルがギリギリと縛り上げた。

 茨のように食い込む隷属スキルの束縛から、獅子王が必死に抜け出そうとする。

 しかし、もがくほどに反抗的と見做され、さらに拘束が強まる。

 獅子王は、初めて苦痛というものを覚えた。

 人間の肉体的な感覚とは違うが、それは間違いなく痛みであった。

 茨の茂みに囲まれ、無数の棘に貫かれ、獅子王(クリス)が暴れ狂う。


 クリスとフィーは、獅子王の制御方法について検討したことがある。

 ヨシタツと隷属スキルでつながることで、彼の柔軟なスキル運用の一端を知り得た。

 それをヒントに、思い付いたのが隷属スキルとの並列起動だった。

 スキル制御で獅子王を抑えつつ実験を重ねたが、実際に試すのには危険が伴う。

 だから今日が、初の実戦投入だった。

 クリスにとっても、それは諸刃の刃である。

 獅子王と一体化している彼女にも、同様の苦痛がもたらされるからだ。

 ――さあ、どうする? このまま私と共に滅びる?

 神経が火を噴くような激痛に耐え、問い掛けるクリス。

 獅子王が敗北を認めなければ、自分の精神と肉体が崩壊するまで継続する。

 一体であるがゆえに、獅子王はクリスの本気の意思を感じた。

 彼女は、最後通牒を下した。


 ――決めなさい。滅びるか、従うか!



「私は、あの人の奴隷ではありません」

 リュミエルとイノは、そんな言葉を聞いた。

「ですが、この身と魂を託し、剣を捧げるのに相応しい人です」

 内面で行われた獅子王との長い攻防は、外界の時間では一〇秒にも満たなかった。

 自らのスキルとの戦いに勝利したクリスが、剣を鞘に収める。

 それから改めて、リュミエルの顔をまじまじと凝視する。

「あなたと、どこかで――――いえ、なんでもありません」

 頭を振った彼女は、好敵手達に笑い掛けた。

「いずれ機会があれば、また会いましょう」


 言いたいことが言えて溜飲が下がったのか。

 すっきり晴れ晴れとした表情で、クリスは走り出す。

 遠ざかる彼女の背を、リュミエルとイノは呆然と見送った。


      ◆


 前回の遭遇では、ヤツは俺を捕らえ損ねている。

 その時は深く考えなかったが、後から思い返すと不可解であった。

 俺は気絶していたし、ヤツは探査を使えるのだ。

 本当ならば意識が戻った時には、ヤツの手に落ちていたはずである。

 だが、俺は逃げ切った。それは何故だ?


 噴水があった小さな広場から、地面の穴に飛び込んだ先には、地下水道が通っていた。

 ちゃんと水が流れており、身を任せるようにして泳ぐ。

 再開発地区の倒壊は一段落したのか、地上からの振動は伝わってこない。

 装備はなく足も着くので、溺れる心配はない。

 支流の分かれ目で、右に曲がる。今度は逆流である。

 泳いで進むことはできないので、事前に張ってあるロープを掴んで歩いた。

 流れは緩やかだが、予想以上に水の抵抗が大きい。

 念のため全てのスキルを切ってあるので、素の身体能力で進むしかなかった。


 探査には盲点がある。波動が、水中に届かないのだ。

 正確には、人間と水の区別がつかない。人間の体組織のほとんどが水分だからだろう。

 海水ならば成分が血液に近いから、もっと見分けにくいはずだ。

 だからこの前、意識が朦朧として地下水道に落ちた時、ヤツは俺を見失った。

 地下水道をたどれば、ヤツから身を隠して移動可能なのだ。

 だが、いつかは地上に出なければならないし、何回も同じ手が通じるほど甘い相手とも思えない。

 カラクリに気付いて対応されるのも、時間の問題だろう。


 最悪の結果を予想して、しかもそれを上回る相手である。

 おそらく、ヤツは生きている。

 あの大規模な建物の倒壊を掻い潜り、今頃は俺を探しているだろう。

 瓦礫の下に死体がないと分かれば、今度こそ地下水道の存在に思い至るはずだ。

 だから、決着を着ける。次の分かれ目で、再び流れに乗った。

 そのまま泳ぎ、目的地に到着した。


 神殿のごとき、あの大規模地下貯水槽である。

 身体の力を抜き、仰向けになる。頭上の天蓋に開いた狭間から、月明りが漏れている。

 手足を広げ、ヤツを迎え撃つ準備を整える。

 ここが正念場だ。これでヤツを倒せないなら、もう手段はない。

 そんな風に思ったが、不意に気付いた。

 ひょっとして、もう戦わなくてもいいのではないか?


 既にクリスは、王都を脱出している頃合いだろう。

 霊薬は無事に届けられ、シルビアさんは助かる。

 地下貯水槽の中央まで漂い、スキルを継続しながら天蓋の狭間を眺める。

 命が惜しいなら、抵抗せずに投降すればいい。

 ――ああ、そうだ。命懸けで戦う理由など、特にないのだ。


 もともとヤツに恨みがある訳ではない。必要もないのに、人など殺したくない。

 サーク一人でも十分過ぎる。命を救うために命を犠牲にするなんて、本音では嫌でたまらなかった。

 捕まったら牢屋行きだろうがレジーナが手を尽くしてくれる、かもしれない?

 そうなれば懲役一〇年とか二〇年で――――

 だけど、帰りたい。

 胸に沸いた郷愁は、元の世界についてではない。リリちゃん、フィー、カティア、皆と会いたい。

 彼女達が待つ、あの街に帰りたいのだ、俺は。


 しばらくしてから、微かな音が聞こえてきた。

 コツ、コツ、コツと、靴音が地下貯水槽のせせらぎに混じる。

 次第に接近し、八方に伸びる地下水道の出入り口の一つに、人影が浮かぶ。

「もう逃げないのか?」

 ヤツの声が、貯水槽内に反響する。聞き取りづらいが、若々しい声に感じた。

「訊きたいことがある!」

 水のざわめきで聞き違えられないように、声を張り上げる。

「賞金稼ぎのサークを殺したのは、お前か!」

「なんのことだ?」

 その声音は、戸惑いを帯びている。本気で身に覚えがないように感じられた。


 ――やはり、ジェフティか。

 犯人は、現場に戻るという。政庁前広場の近所で会ったのは、偶然ではなかったのだ。

 おそらくサークは、リフター教授の秘密を嗅ぎ付けてしまったのだろう。

 ならば、こいつを殺す理由は完全になくなったということである。


「大人しく投降しないか? 悪いようにはしない」

 ――――それでもいいかな?

 ヤツが意外と柔らかい声で降伏勧告してきたので、つい(ほだ)されてしまった。

「お前の仲間も、もう捕まえたはずだ」


 ヤツの言葉に、一瞬頭の中が空白になる。

 トルテちゃんは――――いる。探査に反応がある。

 サーシャか? キール君か――――

「街中を凄いスピードで走っていたから、仲間を向かわせた」

 クリス!?

「俺の仲間は強い。とっくに捕縛して、今頃は王城に連行しているだろう」

 強いとか弱いとか関係ない! 彼女は人間相手に、本気で戦えないのだ!

 今すぐ港に行って、確かめなくては! 無事でいてくれ、クリス!

「だから、お前も投降しろ」

 ――――だから、お前は邪魔だ。


「トルテ、やれえ――――!」

 怒号する。貯水槽の空間に、俺の叫びが反響する。

 そして俺は、見た。天蓋の狭間から覗く、火矢の軌跡を。

 トルテちゃんが所持する、追尾スキル。

 それは特定した対象の位置と距離を、常に把握するスキル。


 対象が外から戻ってきた時、事前にドアを開けて出迎えられる。

 対象がこっそりアパートから抜け出しても、すぐさま察知する。

 どんな人混みであろうと対象を見つけ出すこともできるなど、有能なスキルである。

 それ以上に、暗殺に特化したスキルである。

 投射武器を使用した場合、その運動量が続く限り、対象を追い続ける。

 夜空に光木の矢を放てば、針に糸を通すような精密さで、俺を《追尾》するのだ。


 トルテちゃんに合図するのと同時に、錬金術スキルを全開にした。

 俺の周りの水が、間欠泉のような勢いで一斉に沸き立つ。

 貯水槽全体の水面が大きく波立ち、気体が渦を巻いて吹き荒れた。

「何をやっている!? まさ――――」

 錬金術を停止して水中に潜ると、ヤツの叫びが途中で遮られる。

 無剣流を使い、水路の一つを目指して全力で水中を泳ぐ。

 その時、何かが近くを掠める。ヤツの投げた槍が、水中を激しく掻き乱す。

 身体がぐるぐると回転する。急いで脱出しないと、火矢が到達してしまう。


 ――錬金術スキル。文系の俺には、宝の持ち腐れのスキルだ。

 学生の頃、理科や化学の成績はさっぱりだった。もう少し勉強していればと悔やまれる。

 恥ずかしいことに、記憶にある化学式は一つだけなのだ。

 H2O。それを分解すると、水素と酸素が生じることしか覚えていない。

 ヤツが来るまで、ずっと錬金術で二種類の気体を発生させていた。

 地下貯水槽に漂う二つの気体に、光木の火矢で点火すれば――――



 閃光と衝撃と共に、意識が暗転した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ