挿話の16_戦鬼
王城とは、王都西端の高台を内城壁で囲んだ区画全体を指す。
ドームで覆われた王宮を中心に、政治や軍事関係の庁舎が隣接する複合施設である。
その中で最も古くて小さい庁舎の奥に、史料編纂室と呼ばれる一室があった。
史料編纂室の室内は、天井まで届く資料棚がずらりと並んでいる。
閲覧用の長机が一つきりの殺風景なその部屋に、彼女はいた。
眉と肩口で一直線に切り揃えた、濃い金色の髪。すらりとした長身で、肩幅は広め。
彼女の名はリュミエル。継承権を喪失しているが、王族の一員である。
現在は十人委員会のメンバー、《戦鬼》リオンの補佐役に任じられていた。
長机の前に腰を下ろした彼女は、とある文書に目を通している最中である。
閑散とした室内に響くのは、彼女がページをめくる音だけ。
記載された内容に読みふける彼女の表情は、ひどく険しい。
彼女の前にあるのは内務卿直属の保安隊、その機密文書の写しである。
ただでさえ秘密主義の保安隊が、最近になって特に怪しい動きをしている。
きな臭いものを感じたリュミエルは、友人に調査を依頼したのである。
そして危険を冒して入手した文書の内容は、驚愕すべきものであった。
事の発端は、数年前に遡る。
国外のとある街の近郊で、犯罪組織の摘発が行われた。
周辺各地で頻発していた誘拐事件、その根拠地を現地騎士団が強襲したのである。
制圧した根拠地を調査した結果、おぞましい事実が次々と発覚する。
付近の森から、誘拐事件の犠牲者とおぼしき数十人分の白骨と、大量の魔物の死骸が掘り出された。
さらには根拠地の奥深くに迷路状の地下空間が広がり、壁や床に夥しい量の血が沁み込んでいたのだ。
そこでいったい何が行われていたのか、真実は未だに判明していない。
誘拐犯全員が、捕縛直前に自決したからである。
手掛かりは、虫の息だった誘拐犯の一人を拷問し、得られた名前だけ。
三重の蛇と。
その名を口にした途端、誘拐犯は惨たらしい最後を遂げたという。
各国で指名手配されている重犯罪人の名が出たことで、現地騎士団はさらに捜査を進めた。
その結果、被害者の生き残りらしき子供が、船で王都に運び出されたことを突き止める。
外交ルートで報告を受けた内務卿は、事の重大性を鑑みて、秘密裏に保安隊を動かした。
賞金稼ぎギルドの協力を得て、短期間で子供が監禁されている潜伏場所を発見する。
保安隊は潜伏場所を急襲したが、騒ぎに紛れて子供が逃亡してしまう。
子供の安否よりも、犯罪者達の捕縛を優先したためである。
子供を監禁していたのは王都の密輸組織で、三重の蛇の配下ではなかった。
しかし非合法な尋問の結果、ある重大な事実が判明する。
逃亡した子供が、甲種指定スキルの所持者である恐れが出てきたのだ。
甲種指定スキルとは即ち、大量殺戮を為し得る危険なスキルを意味する。
この重大な情報を、保安隊は子供を取り逃した手落ちと共に揉み消してしまった。
しかも機密保持のため、部外者である賞金稼ぎギルドを締め出す愚挙まで犯したのである。
子供の捜索は続けられたが、その消息は数年が経った現在でも不明だ。
最近、かつての子供の面影を残す少年を発見したらしい。
だが保安隊は、またもや少年を取り逃すという大失態を演じたのである。
そこまで読み終えたリュミエルは、天井を仰いで嘆息した。
その表情は呆れ果て、ものも言えないという感じである。
保安隊は自らの過失を隠すため、きわめて危険な人物を王都に野放しにしているのだ。
この一件が発覚すれば、内務卿の責任追及は免れないだろう。
リュミエルは、開いた窓に視線を向けた。
もっと古い時代、その窓からは王宮の全容を眺められたはずだ。
今では幾つもの庁舎に遮られ、王宮を覆うドームの天辺しか見えない。
王都は、巨大になり過ぎたのかもしれない。束の間、リュミエルは感慨に耽った。
なぜ、三重の蛇ことジェフティは、甲種指定スキル所持者を王都に送り込んだのか。
王都で反逆を目論んでいる。そんな単純な話ではないことは、彼の犯罪歴からも明らかだ。
ジェフティの資料に目を通したリュミエルは、彼の人物像をある程度、把握している。
彼の目的は、常に真理の探究である。海外で発覚したおぞましい事件も、その一環なのだろう。
三重の蛇という人物は、いたずらに社会秩序に混乱をもたらしたりはしない。
広く読まれていた専門書が、実はジェフティの著作だと判明した例が過去に何回もある。
基本的に彼は研究者であり、金銭欲や快楽のために罪を犯したりしない。
その一方で、研究のためなら手段を選ばず、実験のためなら大規模な犠牲も厭わない。
そういう性質の悪い人間だと、リュミエルは理解している。
ここ数年、ジェフティが沈黙を保っているのを、リュミエルは不気味に感じていた。
単に興味を引くテーマがないので大人しくしているのか、現在進行で何事かを企んでいるのか。
甲種指定スキル所持者と、三重の蛇。
この組み合わせだけでも深刻なのに、さらなる危険人物の関与が――――
「おはようリュミエル!」
「ひゃあっ!?」
バタンと音を立て、史料編纂室の扉が開かれた。
機密文書に没頭していたリュミエルは驚き、椅子から跳び上がった。
「あれ? どうかした?」
「どうかした? ではありません!」
鼓動が早鐘を打つ胸を押さえ、リュミエルは怒鳴る。
「ドアは静かに開けなさいと何度も言っているでしょう、イノ!」
「ごめんねー」
イノと呼ばれた少女は、心のこもっていない謝罪を口にする。
「だいたい、おはようではありません! いま何時だと思っているのですか!」
「寝坊しちゃったー」
「…………はあ、もうけっこうです。明日からは注意するように」
「わかった、頑張る!」
「いつもいつも、返事だけは良いのですが…………」
悪びれることのない少女に、リュミエルはとうとう諦めたようだ。
そんな彼女に背後から抱き着くと、イノは肩越しに機密文書を覗き込む。
「もう読んだの?」
「ええ、おおよそは。ありがとう、イノ。とても参考になりました」
「ビックリしたでしょ!」
機密文書の写しを入手したのは、イノである。当然、内容も把握していた。
しかし事態の深刻さにも関わらず、イノの声は底抜けに明るい。
「驚いたというか、呆れたというか…………」
リュミエルが長机に突っ伏すと、自然とイノがのしかかる格好になる。
「どうしたー? 元気ないぞー?」
「…………元気も失せて当然です」
リュミエルが、うめき声をあげる。
「ただでさえ面倒な事態なのに、女帝まで介入するなんて」
彼女の脳裏には王都の仮想敵第一位、女帝カティアの存在があった。
先日、匿名の情報が十人委員会にもたらされた。
女帝が、霊薬を入手するために画策しているというのだ。
さらには、賞金稼ぎギルドとの繋がりまで示唆されたのである。
不審な点は幾つかある。まず、情報を提供した者の正体が不明であること。
そして十人委員会が、対女帝の秘密組織だと知られている点だ。
十人委員会の実態を知っているとなれば、かなりの有力者が背後にいるはず。
そうなると政治的な意図も考えられ、情報を鵜呑みにするのは危険だった。
しかし放置も出来ず、まず賞金稼ぎギルドの拠点を取り押さえようとしたのである。
その結果は、散々たるものだった。
「ああもうっ! あの時、賞金稼ぎ共を捕まえていれば!」
リュミエルは、自らの失態を思い出して頭を抱える。
賞金稼ぎ全員を取り逃した挙句、火事騒ぎまで起こしてしまったのだ。
「しょうがないってー。リュミエルは頑張ったよー」
よしよしと、イノは友人の頭を撫でた。
いくら慰められても失敗は失敗だ。これでは保安隊を笑えないと、自らを責める。
しかも後日、賞金稼ぎの一人が殺害されたのだ。
被害者は自らの血糊で、地面にある印を残している。それは重なり合う三つの円。
知る人ぞ知る、ジェフティを意味するサインである。
「…………女帝の手先を、ジェフティが殺害したのだとしたら」
「伝説の大物二人が王都で大激突だね!」
「言わないで!」
能天気なイノの発言に、リュミエルが髪を掻きむしる。
仮想敵第一位と第二位が、王都で死闘を繰り広げるなど、悪夢でしかない。
不倶戴天の敵同士である二人が絡むと、辺境都市一つが滅ぶほどの大惨事となるからだ。
「リュミエル、ご主人様なら心配いらないよ?」
悩むリュミエルの耳元で、そっとイノが囁く。
「ご主人様なら、どんな敵だって負けないから」
イノの口調には絶対的な信頼、いや信仰すら感じさせた。
自分もそこまで信じられればと、リュミエルは思う。
リュミエルにとって、究極的には王都が壊滅しようが王家が滅ぼうが、どうでもいい。
愛する男に危険が及ばないこと。彼女の本心は、それだけなのである。
だから情報収集に努めて、安全策を講じようとしているのだ。
「…………そうよね」
「そうそう! ご主人様に任せれば、ぜんぶ上手くいくって!」
ポンポンと肩を叩いてから、イノは大声を出す。
「さて、ご主人様はいずこに!」
「耳元で叫ばないでください。リオン様は、十人委員会の会合に出席されているわ」
「えー? またなんか、ネチネチ言われているのかな?」
「…………おそらく」
「ご主人様、かわいそー。そーそー、保安隊がスターシフの次女に目を付けたみたいよ?」
「レジーナ嬢に?」
思いがけない人物に関する情報に、リュミエルが首を傾げる。
「あの人、なーんか怪しいのよね。最近、みょーな動きが多いし」
イノの言葉を聞き、リュミエルが考え込む。
「…………スターシフが、女帝と連絡を取っているのは知っていますが」
両者の関係は、半ば黙認という形になっている。
王都と女帝が決定的に決裂しないための、調整役を期待されているからだ。
「まさか、スターシフまでが関与している!?」
反逆――――脳裏をかすめた単語に、リュミエルは鳥肌を立てる。
「ないない、それはない」
彼女の懸念を、イノが即座に否定する。
「次女は勘当中だし、個人で動いているだけ。当主のカルドナは関与していないよー」
「…………なら、あの人に知らせておいた方がいいかしら?」
理由が不明でも、保安隊に注目されているとなれば、ただ事ではない。
レジーナ嬢と直接の面識はないが――――
「イノ、保安隊の狙いを探ってくれるかしら?」
「お任せあれ!」
「…………ごめんね、厄介事ばかり頼んで」
「気にすんなって! わたしとリュミエルの仲じゃん!」
年下の友人の真っすぐな言葉が、リュミエルの胸を温かく満たす。
「ありがとう、イノ」
「いいってばー。それよりも聞いた? 今晩のパレードのこと?」
「…………ああ、アレですか、例の成金の」
「すっごい派手なパレードになりそうだって!」
楽しげなイノとは違い、リュミエルは苦々しげだ。
最近、とある大富豪の話題で王都は賑わっていた。
海外からやってきたエドモンという人物で、金貨を湯水のごとくばら撒いているらしい。
王都で有数の最高級ホテルを、フロアごと借り上げたなどは序の口。
露店で買った果物一個に、金貨を手掴みで支払う。
軽食を摂るためにカフェを貸し切りにする。湾内を遊覧するために快速船を商会ごと購入する。
新市街の一画の土地を買い占めたのは、豪邸を建てるためだという噂もあった。
富の権化のような男の噂は王都を席巻し、一躍時の人となっている。
そんな彼が、石工組合が主催する祭典に大金を寄付した。
王都市民に娯楽を提供しようと、盛大な催しを企画しているらしい。
事前の噂では、酒も食べ物も菓子も無料で振舞われ、政庁前広場で派手なパレードを披露するらしい。
いやが上にも期待は高まり、王都市民や観光客など、大勢の見物人が予想されている。
実際に会ったことはないが、リュミエルはエドモンという人物に良い感情を持っていない。
「どうせ貴族位狙いなのでしょう? 魂胆が見え透いています」
「かたいなーリュミエルは。いいじゃん、みんな喜んでいるんだから」
彼女の潔癖さをからかうと、イノはニンマリと笑う。
「ねえ、ご主人様をデートに誘って、パレード見物してきなよ」
さらに続けて、こしょこしょと囁くイノ。
「最近、ご無沙汰なんでしょ? そのままお泊りしてきたら?」
「なっ!?」
リュミエルが真っ赤になり、言葉に詰まる。
「お仕事も大事だけどー、たまには息抜きしないとね?」
「ただいま」
突然の声に、リュミエルはイノごと椅子から跳び上がる。
史料編纂室の扉が開き、一人の青年が入ってきた。
「ご主人様! お帰りなさい!」
イノは一目散に駆け出し、真っ正面から青年に抱き着いた。
「どうしたんだ、リュミエル?」
あたふたと慌てる彼女に、青年は訝しげな声を掛ける。
「い、いえ!? なんでもありません!」
うわずった声を出してから、わざとらしく咳払いするリュミエル。
「会合の方はいかがでしたか、リオン様?」
首にかじりついたイノをぶら下げたまま、青年は肩を竦める。
「時間の無駄だった」
青年が、空いた椅子にどっかりと座り込む。
イノは青年の膝にまたがり、離れようとしない。ゴロゴロと喉を鳴らし、青年の胸にほおずりする。
「…………相変わらずですか、あの人達は」
リュミエルは眉をひそめ、十人委員会の面々を思い出す。
十人委員会を称しつつ、実際にはリオンを含めてメンバーは四名しかいない。
それなのに二名が今後の主導権争って反目、残り一名は我関せずと居眠りしていたらしい。
組織としては、まともに機能していないのが現状である。
リーダー格の欠如が原因だと、リュミエルは考えている。
「…………いっそのこと、リオン様が十人委員会を掌握なさっては?」
彼女が唆すと、リオンは鼻を鳴らした。
「興味ない」
そんな彼の態度が、リュミエルには歯がゆくて仕方がない。
その気になれば、力ずくでメンバー三名を従えられるはずなのだ。
しかし、世俗の権力にも金銭にも興味を抱かず、目立つことを嫌う。
そんな彼の性格を、リュミエルはもどかしく感じていた。
「それと、上から依頼があった。今晩、大聖堂の警護をしてほしいそうだ」
リオンがぼやきながら、イノの頭を撫でる。
断ることさえ面倒くさがるから、雑用を押し付けられてしまうのだ。
先日、賞金稼ぎ達を取り締まりに赴いた時と同じである。
呆れながらも、リュミエルが確認する。
「大聖堂の護衛ということは、霊薬拝領の儀式ですか?」
ほとんどあり得ないが、女帝介入への警戒感が依頼の背景にあるのだろう。
「そうなのかな?」
彼女の問いに、リオンは首を傾げる。
――この方は、依頼の詳細さえ訊かなかったのだ。
リュミエルは、こっそりため息を吐く。
二人っきりのパレード見物は、どうやら諦めるしかなかった。
▼▼▼
霊薬拝領の儀式は、大聖堂で行われるのが通例である。
しかし儀式に立ち会うには、それなりの身分が必要だ。
それ故にリオンとイノは大聖堂の外、王族であるリュミエルは儀式の場という配置にされた。
リュミエルは儀式の差配に抗議したが、リオンが彼女を押さえた。
「堅苦しいのは肩が凝るからちょうど良い」
「ご主人様と離れて寂しいんだよねー?」
そういう問題ではないと二人に主張したいが、リュミエルはぐっと堪える。
仕方がないので、彼女は王族に相応しい装備で儀式の場に臨んだ。
霊薬の受領者の情報は、基本的には秘密である。
調べることは可能だが、リュミエルは興味を持たなかった。
どうせ、せっせと献金して貴族位を賜った、新興貴族の誰かに過ぎないからだ。
おそらく大富豪のエドモンとやらも、それが目当てなのだろうと彼女は推測している。
羽振りの良い人物には、霊薬の噂が耳に入るようになっているのだ。
霊薬拝領の特権を持つ家門当主となるには、まず貴族位を得なければならない。
金にあかせて地位を手に入れた新興貴族を、リュミエルは軽蔑していた。
しかし、譜第貴族達は違う。自家の独立性を守るため、彼らは霊薬を毅然として拒む。
リュミエルは、傲慢な男が多い譜第貴族の当主達が苦手だ。
それでも不治の死病に侵されても己を律する彼らに、自然と畏敬の念を覚えていた。
唯一の例外が、旧ペルセンティア家である。
かの家は譜第貴族でありながら、代々の当主達が率先して霊薬を購い続けたのだ。
そうやって王家に媚びを売りながら、結局はお家取り潰しの憂き目にあってしまった。
リュミエルの母は、ペルセンティア家の出だった。
ぺルセンティア家の係累である母は王城から追放され、リュミエル自身は継承権を剥奪された。
だからなのである、リオンの補佐を命じられた時、それを請けたのは。
王家に対し、彼女は深い恨みを抱いていた。
リオンの能力の一端を知り、王家への復讐に利用しようと企んだのである。
それがいつしかリオンへの愛情にとって代わり、やがて――――
物思いに耽っていた彼女は、大聖堂の扉が開く音で我に返った。
担架に乗せられた貴族が入場してきたのである。
入り口付近に佇むリュミエルは、脇を通り過ぎる貴族を横目で観察する。
顔が土気色で、息遣いが荒いのが見て取れた。
ここまで容態が悪化してから、担ぎ込まれるのは珍しい。
きっと寸前まで尻込みをしていたのだろうと、リュミエルは冷やかに見送る。
奥にある祭壇まで続く長い身廊を、貴族を乗せた担架が粛々と進む。
主祭壇の脇には、フードを目深に被って顔を隠した三人の人物が待機していた。
治癒術師、鑑定師、そして錬金術師である。
錬金術師は高齢なのか、だいぶ腰が曲がっていた。
いま王城には、二名の錬金術師しかいない。
その事実を枢密院が危惧していると、リュミエルは漏れ聞いている。
本来なら安全を取り、三名以上の錬金術師を抱えるのが伝統だ。
霊薬の備蓄はあるが、万が一霊薬の精製法が失伝すれば取り返しがつかない。
しかし秘密保持の観点から、無闇に数を増やすことが出来ないというジレンマがある。
錬金術師を全員暗殺したら面白いことになるだろうなと、リュミエルは妄想した。
新興貴族が、主祭壇の前の台座に横たえられた。
治癒術師が病状を、鑑定師が年齢制限に引っ掛からないか確認する。
問題がないと判断されると、いよいよ錬金術師の出番となる。
傍らに控えていた助手の一人が、恭しく聖銀製の杯を差し出す。
杯の中には入っているのは、一握りの霊礫である。
杯を受け取った錬金術師が、仰々しい態度で杯をかざした。
貴族が首を傾け、すがるような眼差しで錬金術師を見詰める。
掲げられた杯が燐光を発すると、台座を柔らく照らし出した。
霊薬の実態を知っているリュミエルには、この一幕を喜劇のようだと思った。
神秘性を高めるための過剰な演出を、滑稽だとあざ笑う。
光が徐々に強まっている。やがて霊礫が変化し、霊薬が杯を満たすだろう
早く終わらないものかと、リュミエルは欠伸を噛み殺した。
ゴーン
どこか遠くで、鐘の音が鳴った。
ゴーンゴーン
重低音の響きが、頭の中で共鳴する。
大聖堂全体に降り注ぐ圧力を、彼女の《スキル感知》が捉えた。
――――まさか!?
身を翻したリュミエルは、扉を押し開いて外に出た。
リオンとイノの姿が見当たらない。
聖堂前の階段を駆け下り、左右を見渡して彼らの姿を探した。
しかし仲間は見付からず、脳内で鐘の音がさらに大きくなる。
――こんな! こんなのあり得ない!
その出力の高さに、彼女は驚愕した。
不可視の密度が異様に高まり、まるで大聖堂を押し潰しそうに感じる。
神経が圧迫された彼女は、耐え切れずにうずくまってしまった。
不意に肩を揺さぶられ、我に返るリュミエル。
眼前に、リオンとイノが立っていた。
「リュミエル!? どうしたの!」
イノの問い掛けに答えず、彼女はリオンに向かって訴える。
「アイツです! アイツが現れました!」
完全武装して面貌に黒い布を巻いた青年が、夜空を振り仰ぐ。
次の瞬間、彼女を苦しめていた圧力が霧散した。
リオンの探査スキルが、大聖堂を覆っていた探査スキルを打ち払ったのである。
台風の目のような静寂に安堵するリュミエルの耳に、リオンの呟きが届く。
「間違いない――――彼だ」
その嬉しげなリオンの声音に、リュミエルとイノが顔を見合わせる。
先日の賞金稼ぎギルドの取り締まりで、取り逃した謎の人物。
リオンの追跡から逃げおおせた、正体不明の探査スキル所持者。
捕獲に失敗したのにリオンが妙に浮かれていたのを、彼女達は覚えている。
何事にもやる気を見せない彼が、珍しくはしゃいでいたので印象に残ったのだ。
二人の眼前から、リオンの姿が掻き消える。
ハッとして見渡せば、王宮の方角へ走るリオンの後ろ姿が見えた。
「イノ! 追いますよ!」
そう叫ぶなり、駆け出すリュミエル。
彼女達は必死に追ったが、瞬く間に引き離された。
王宮近くの場所で、ついに彼の姿を見失う。
「リオン様! どこですか!」
「リュミエル! 見て! あそこ!」
イノが指差す方向を振り仰ぎ、リュミエルは悲鳴をあげた。
視線の先にそびえる王宮、それを覆うドームの上にリオンの姿があったのだ。
――この短時間に、どうやってあそこまで!
それだけではない。許可なく王宮に立ち入るのは、重大な違法行為でもある。
なによりも、ドームの縁に立っているので、滑り落ちないかとハラハラする。
呼び戻すべきか否か、彼女は判断に迷う。下手に騒げば、誰かに気付かれるかもしれない。
躊躇する彼女の視界に、それは映った。
リオンの足元で、いきなり王宮のドームが破裂したのだ。
「矢が飛んできた!」
驚きの声をあげるイノ。リュミエルは聖剣スキルを発動する。
強化された視覚が、夜空を切り裂いて飛翔する矢を捉えた。
通常の倍以上の長さはある矢が、リオンをかすめて背後のドームに撃ち込まれる。
ドームのタイルが、粉塵を巻き上げてごっそりと弾け飛ぶ。
矢とは思えない、まるで投石器のような威力に戦慄するリュミエル。
――あんなものをまともに食らったら!
「イノ! 王宮騎士団に連絡して――――」
『止めろ』
増援を呼ぼうとしたリュミエルの脳内に、リオンの通心スキルが届く。
『誰にも知らせるな』
「そんな!? リオン様!」
そして彼女達の視覚が、飛来する三射目の矢を捉える。
「リオン様!」「ご主人様!」
リュミエルとイノの悲痛な叫びが、夜空に響き渡った。
しかし矢はリオンの脇を通り過ぎ、ドームの屋根を破壊するに止まる。
胸を撫で下ろしたリュミエルは、ようやっと理解した。
リオンが飛来する矢を正確に補足し、避け続けていることを。
安堵と共に、彼女は驚くべき事実に気付いた。
王城が! 王宮が攻撃を受けている!
リュミエルが知る限り、王城に攻撃を仕掛けた者など皆無である。
女帝やジェフティでさえ、そんな大それた真似をしたことがないはずだ。
前代未聞の事態に、リュミエルは頭の中が真っ白になった。
呆然と立ち尽くす彼女をよそに、リオンが反撃を試みる。
背中で交差させて差した二本の短槍の内、一本を引き抜いて構えた。
異常に甲高い風切り音を鳴らし、旋回しながら四射目の矢が迫る。
リオンはそれを冷静に見詰め、振りかぶった短槍を投擲した。
真正面から衝突した短槍が、矢の鏃から矢羽までを木っ端みじんに破壊する。
短槍の勢いは止まることなく、一直線に夜空を飛んだ。
そして短槍が消えた闇の彼方から、くぐもった爆音が轟いた。




